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少し太った月がぽっかりと空に浮いている。
雲のない、晴れた夜空だ。きっと空を飛んで走る馬車だったらよく景色が見下ろせただろう。
けれど、夜空の下で静かに馬車を走らせ、屋敷まできちんと送ってもらえるのも、手順を踏んでもらえているという静かなときめきがある。
「今日は本当に、有り難う御座いました」
ドニが作った馬車から降りたアイリーンは、ドートリシュ公爵家の玄関前に立つクロードに素直に礼を言った。
「約束通り、完璧なエスコートでしたわ」
「一曲踊るだけで帰ってしまってよかったのか?」
「ええ。オベロン商会のことは父の耳に入ったでしょう。オベロン商会への取り次ぎをドートリシュ公爵家に誘導しておけば十分、利益になります」
誰も知らない噂のオベロン商会の情報を、既にドートリシュ公爵家がつかんでいる。商会が稼ぎ出す金銭より何より、その先見性こそが、ドートリシュ公爵家の利になる。
「セドリック様との婚約破棄も、クロード様が隣にいてくださったおかげで、惨めにふられたなんて周囲には見えなかったはずですし、誘拐事件の疑惑も落ち着くはずです。リリア様も見つかりましたし……」
そこまで言って、アイリーンはちらとクロードを見上げた。
「……クロード様でしょう」
「何がだ?」
「リリア様を肥溜めに落とすだなんて」
「なんのことだか分からないな」
空とぼけるクロードに呆れてしまう。
クロードと一曲踊ったあと、すぐに行方不明だったリリアが王城の肥溜めの中から見つかったという報告が入った。場所が場所だ。アイリーンの計略で魔物に誘拐されたなどという緊迫した空気は一気に霧散した。誰もがお気の毒にと頬を引きつらせるしかない現状だ。
アイリーンの仕業と疑う心の余裕も失ったらしく、セドリックは魔王の森から取って返してきたマークスと一緒に、報告を聞くなりすっ飛んで行った。その後は夜会の主催がいなくなってしまったため、ルドルフ含む大物貴族たちがそれとなく体裁を取り繕っていた。
(……セドリック様とリリア様の評価は下がったわね。夜会の主催もまともにできない、しかも魔物と一戦交えようとする軽率さも……)
若さ故の暴走である程度のお目こぼしはされるだろうが、これからが不安だ。
誘拐事件らしきことは起こったがセドリックとリリアの婚約発表はなしになってしまい、ゲームの進行も分からなくなってきた。前向きに考えればセドリックルートのフラグが折れたのかもしれないが、油断はできない。
たとえば。
「……でも、可愛らしい方だったしょう、リリア様は」
ぽつんと呟いてしまってから、後悔した。なのに口は止まらない。
「に、人気あるんですのよ、あの方。笑顔が癒されるって。わたくしみたいな派手な美人ではないけれど、肌もすべすべで髪もさらさらで、きちんとお化粧してドレスを着ると見違えるほど綺麗になられますの。初めてドレスアップした姿を見たとき、わたくしも驚きましたもの」
「……そうか?」
「料理や裁縫だってわたくしよりずっとうまいんですのよ。別にリリア様を意識したわけではありませんけれども、わたくしはここ一年でやっつけで学んだだけですから。それに物言いは柔らかいし、何より素直だし、殿方をきちんと立てられるし、こき使いませんし」
「アイリーン」
クロードのルートは解放されていないはず。だが、彼女はヒロインだ。自分と違い、ゲーム通りに会話をし、フラグを立てればそれだけで、クロードがセドリックのようになることは、否定しきれない。
「男性は、ああいう方がお好きでしょう。わたくしは――いたッいたたたたたた!」
「意外とよく伸びるな」
「何をなさいますの!」
まだ頬をひっぱろうとする手から逃げ出す。クロードは肩をすくめた。
「心配しなくても君は可愛いし、彼女は僕の好みじゃない」
ぽかんとした後に、頬が赤らんだ。自分が何を不安がっていたのか理解したからだ。
「余計な心配をしてないで、もう今日は休むといい。疲れただろう」
「そ、そうしますわ……え、なに」
引き寄せられて、アイリーンはまばたいた。その睫毛の先で、クロードが確認する。
「完璧なエスコート、だろう」
別れのキス。ここでどうしてと口にするほど野暮ではない。礼儀と言えばそうだ。
でも、クロードの赤い瞳には、くすぶった熱情みたいなものがあった。その視線に灼かれたように頬を赤らめ、どきどきしながら瞼を下ろす。
らしくない。たかが挨拶の口づけひとつを待つだけで、こんなに緊張するだなんて。
そっと軽く、羽のようにクロードが頬に唇を落とした。そこから火傷したみたいに熱が全身に広がり――瞼の裏に、叫び声が焼きつく。
滅びろ。滅んでしまえ。もう僕が守りたい人間など、一人もいない――!!
見開いたアイリーンの瞳に、一日分だけ足りない月が見えた。
そっと体を離したクロードがささやく。
「おやすみ、アイリーン。よい夢を」
「お、やすみなさい、ませ……」
ぎこちない笑顔は、照れ隠しで誤魔化せただろう。まず目の前から馬車が消えた。次に煉瓦の床を蹴ったクロードが、月を背に浮かんだ後、消える。
頬を手で押さえ、へたり込みそうになった体を柱にもたれて支えた。
「だから、記憶が戻るタイミングがいつも、おかしいと……!」
おかげでときめきに浸り損なったではないか。絶対に許さない。
しかも今度は、あと一週間もないなんて。
「でも、そう……そうだったわ。クロード様……あなたはだから、魔物になるのね」
思い出した。どうして彼が、人間に絶望してしまうのか。
彼は裏切られるのだ。幼い頃から唯一信頼してきた人間に。




