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硝子の破片が、一つも降ることなく、宙で止まっている。
その間をすり抜けて、二つの影が降り立った。
一つは漆黒の翼を広げた魔物。だが金の飾り紐がついた軍服で主の斜め後ろに立つ姿は、騎士のお手本のように整っていた。
その前にいるのは、一度その姿を見たら忘れられぬ美貌の持ち主。
深紅の瞳が煌めく魔性の王だ。
指が鳴る音と同時に、硝子の破片が一斉に動き、天井へと戻る。静まり返った会場に、セドリックの掠れた声が響いた。
「あ、にうえ……どうして、ここに……」
「――森に兵を差し向けたのは、お前の指示か?」
魔王の登場に凍りついていた周囲がざわめいた。
特に顕著に反応したのは、壇上にいる貴族達だ。ルドルフを含む宰相、大臣達が目配せし合い、何か指示を出す。
「皇太子なら軽率な真似はするな。私に国を滅ぼす口実を与える気か」
セドリックの顔が青ざめる。
だがクロードはそれ以上咎める気はないのか、アイリーンをまっすぐに見つめた。
「待たせた。すまない」
「……いいえ。それほど待っておりませんわ」
「そのドレス、よく似合っている」
不意打ちで優しく微笑まれ、かあっと頬が赤く染まる。その熱を誤魔化すようにまばたいてみたが、うまく返事ができなかった。その仕草を見て、スカートの裾をつかんだままのセドリックが瞠目する。
「……アイリーン……まさか、お前……」
「署名は終わったのか?」
「ま、まだですわ」
「早くすませてくるといい。それで正式に、君はセドリックの婚約者でなくなる。僕は、他人の――まして異母弟の婚約者をエスコートする趣味はない」
睦言のように甘く囁かれて、照れ隠しに少しつんと顔をそむけた。
「わ、わかっていましてよ。少々お待ちになって」
「待て……待ってくれ、アイリーン。お前は、本当に、リリアを誘拐していないのか」
アイリーンは足下のセドリックを見た。
不安げな面差しが思い出と重なる。――ほんとうは、あにうえの方が優秀なのにってみんな思ってるんだよ。裏でぼくを笑ってるんだ。その横顔が、寂しそうだった。
負けないで、あなただってできる。わたくしはあなたの味方だから。――そう、ちゃんと伝えられればよかった。
「……アイザック」
名前を呼ばれ、少し遠くからこちらを窺っていたアイザックはほんの少し、嫌そうな顔をした。けれどすぐに諦めたのか、近寄ってくる。
「こういう時に限って甘いんだよ。切り札になったかもしれねぇのに」
「いいのよ。わたくしの切り札はあなた達だもの」
「お前……ロンバール伯爵家の」
アイザックは乱暴にアイリーンの掌に紙の束を渡し、セドリックを一瞥して踵を返す。その姿を目で追うセドリックに、アイリーンは受け取った紙束を差し出した。
「リリア様に届いた脅迫文です。ゴミ捨て場に捨てられたものを集めました」
「――そ、それがどうした」
「これが問題にされているわたくしの名前が入っている脅迫文。これは、ロンバール社が作っている便せんです。一番上が糊付けされていて、一枚ずつめくれるようになっています。二十枚でワンセット。そしてデザインの一環として、図案が型通りに打ち抜かれて、香りを出すためにその周囲に香水を染み込ませている」
そう言って、しわになった脅迫文をアイリーンは広げて見せた。
右下の隅には、薔薇の図案がくりぬかれている。そしてその周辺は香水の染みで変色していた。それを含めてのデザインだ。
「このデザインは、糊付けされ重なった状態のまま打ち抜きも香水に浸す作業も全て手作業で行われます。だからこうして重ねると――同じセットで作られたものはぴったり重なる。図案も、香水の染みの位置も。でも違うセットであれば、同じデザインでも重なりません」
まったく重なるものと、同じデザインなのに重ならないもの。それをきちんとセドリックに見せて、アイリーンは最後に、セドリックからもらった夜会の招待状を出す。
「この夜会に招待して下さる際、リリア様から親切にお手紙を頂きました」
その手紙を開いてみせる。そして、脅迫文の一つと重ねて見せた。
大事なのは筆跡でも文面でもない。その二つの便せんが、ぴったりと重なるということだ。
セドリックが大きく目を見開く。
「リリア様の手紙はこのままわたくしが持っておきます。――ですが、こちらの脅迫文はあなたに差し上げますわ、セドリック様。好きになさってください」
「……ど、どういうことだ」
「それはご自分でお考えくださいませ。わたくしはもう、あなたの婚約者ではなくなるのだから」
横っ面をはたかれたような顔で、セドリックがアイリーンを見つめる。
アイリーンは静かに微笑み返した。
「セドリック様。――お慕いしておりました」
「……」
「どうか、リリア様とお幸せに。さようなら」
すっと身を引くと、セドリックの手がそのまま床に落ちた。
振り向かず、アイリーンは壇上へ向かう。誰もそれを止めなかった。
壇上には、きちんと書面が二枚、用意されていた。一つは事業譲渡の書面。ざっと項目を確認して、アイリーンは素早くサインをする。
そしてもう一つは、大して確認する項目もない、婚約破棄の書面。
(これで、おしまい)
セドリックの名前の横に、自分の名前を書いて、羽ペンを置く。
――これで、アイリーン・ローレン・ドートリシュは自由だ。
じっと見守っている壇上横の大物貴族達に、優雅に一礼する。
壇上から降りる階段の手すりに手をかけると、クロードが下から手を差し出した。
「アイリーン・ローレン・ドートリシュ公爵令嬢。自由になった君と一番最初に踊る権利を、どうか私にいただきたい」
令嬢に一番最初に踊りを申し込むのは、予定調和の恋の駆け引きだ。
なのに初めて社交界に出た時のように初々しい恥じらいがこみ上げる。
小さく頷き、その手を重ねる。セドリックの姿は、もうクロードに隠れて見えない。
だから、気づかなかった。
「……だまされないぞ、俺は」
ぐしゃりと握りつぶされた手紙にも。
「思い知らせてやる。間違っているのはお前なんだ……!」
昏いつぶやきにも、歪んだ笑みにも。




