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「セドリック様。これはどういうことでしょう? わたくしは招待客のはずですけれど」
「白々しい。リリアが行方不明になった! お前の仕業だろう!」
壇上から降りたセドリックが、荒々しい足取りで、衛兵に両腕をとられ押さえ込まれたアイリーンの前までやってきた。穏やかなオーケストラの音はやみ、皆が息をひそめてこちらを伺っている。
「お前が魔物と手を組もうとしているとマークスから報告を受けた。リリアに何かあったら、ただではすまさない……!」
「わたくしがどうしてリリア様をさらわなければなりませんの」
「リリアに俺をとられたと、逆恨みしているんだろう」
笑いを堪えるために、うなだれた。
唇を噛み締める姿をどう思ったのか、セドリックは幾分か勢いを和らげる。
「俺は、今回の夜会をせめてものお前の名誉挽回のためにと招待したのに……! お前はいつだって、人の善意を踏みにじる」
悟られないようにちらりと視線を壇上に動かすと、父親の姿が見えた。厳しい顔つきだが、あれはにやにやしたいのを必死で堪えている顔だ。自重していただけて何よりだ。
(他にも、結構な大物貴族がいるわね……皇帝と皇后は、さすがにいないけれど)
お遊びの延長で学園のパーティーと同じ面子かと思ったが、皇太子主催となるとそうもいかないのだろう。けれどセドリックはその意味を分かっていない。
あの大物貴族達は、もうすぐ学園を卒業するセドリックが皇太子としてどう振る舞うのかを見に来ているのだ。
「脅迫文もお前だろう。言え、リリアはどこだ」
「存じ上げません。セドリック様に愛想をつかして出て行かれたのでは?」
「そうやってリリアを悪者にして、俺の気を引こうとしても無駄だ」
迷いのない前向きな思考だ。見習いたい。
「――セドリック様。わたくしはリリア様の誘拐など目論んでいません。そもそもそんな証拠がどこに御座いますの。ちゃんと調査なさいました?」
「まだ言い逃れを……そんなもの必要ない。国民の税金で無駄な調査費など払うなど、無能のやることだ。そもそもお前以外に誰がこんなことをする理由がある!」
「……。本当に、わたくしはどうしてこんな無能な男に懸想していたのかしら?」
思いのほか、声が明るく響いた。
ぱちりとまばたいたあとで、セドリックが聞き返す。
「――なんて言った、今」
「あなたみたいなクズで馬鹿で無能で将来性のない男がどうして好きだったのかしら、と言いました。聞こえまして?」
今度こそ聞き間違えなかったのか、セドリックが沈黙した。
「セドリック様。もう一度申し上げますが、わたくしはリリア様を誘拐しておりません」
「……。ま、まだ言い訳をするか。俺と復縁するにはリリアが邪魔なんだろう」
「復縁? セドリック様なんてお金を払ってでも誰かに引き取っていただきたいです」
「――嘘をつけ! お前は俺を慕っていると、未練がましく言った!」
ああ、あれがこの盛大な思い込みの原因か。冷めた目でアイリーンは吐き捨てる。
「これだから男は」
「な、なんだと」
「慕って『いた』と申し上げました。過去形です。今はもう欠片も、興味も御座いません。勘違いなさらないでくださいます? わたくしはあなたを愛してなどおりません」
間抜け面で、セドリックは惚けていた。溜め息を吐いて、アイリーンは繰り返す。
「二度言いますわね。わたくしはあなたを愛していません。未練もないし、もうかかわりたくもありません、正直同じ空気を吸っているだけで気分が悪くなります。さっさと婚約破棄したいので、どうか書面に署名させてくださいませ」
「……。ど、どうしてだ! そんなはずがない。そんな――わ、分かったぞ。お前、まだ俺の気を引こうとしてるんだろう!」
「は? ――った!」
顎を乱暴につかまれた。
ぎらぎらしたセドリックの両目に息を飲む。
「だから正直に言うんだ。リリアをさらったのはお前だろう……嫉妬にかられて、俺を忘れられずに」
両腕をつかんで拘束していた衛兵達が、セドリックの態度にひるんだのか力がゆるんだのが幸いだった。自由になった手で、セドリックの手首をつかみ、はがそうとする。だがびくとも動かない。息をするだけで精一杯だ。
「俺達だって無用な争いは起こしたくない。リリアをさらったと認めろ。そうすれば考慮してやる。お前はドートリシュ公爵家の令嬢だ、その立場を尊重しての、俺の慈悲だ……!」
「だ、れが」
「せ、セドリック様。ご令嬢相手に、これ以上はいくらなんでも」
「黙れ! 皇太子の俺に指図するな。……これは俺の女だ!」
誰がお前の女だ。怒りで目が眩む。瞬間、悲鳴が上がった。
背後から出てきた大きな影に、セドリックが腰を抜かす。解放されたアイリーンは背後を見た。自分の影だ。
太い前脚、人間など一飲みしてしまいそうな口。どう猛な爪と、鋭い牙。魔物だ。
(フェンリルの親!? どうして――いいえ、そんな場合じゃないわ!)
「駄目、戻りなさい! 人間を傷つけては――」
フェンリルが、大きな口を開ける。その牙を見たセドリックが悲鳴を上げた。
「ひっ――う、ああぁぁぁぁ!」
そしてフェンリルは、ぺっとセドリックに向けて唾を吐きかけた。
「……」
会場に静寂が広がる。
唾液で全身べとべとになったセドリックも、そのまま固まっていた。
ふんと鼻を鳴らしたフェンリルは、アイリーンの横に大人しく座る。立ち上がったアイリーンは、みっともなくへたりこんでいるセドリックとフェンリルを交互に見て――それから扇で口元を覆った。
「……仮にも皇太子に、唾を吐きかけるなんて……ふふ、ふふふ、おかしい」
アイリーンは手を伸ばし、その巨体を撫でた。
「恩を返しにきたということ? 結界の外に出るなんて……クロード様が怒るわよ」
「ギャウ」
「……他の子にもわたくしは大丈夫と伝えて」
そう言って、ぽんとその体を叩く。
「助けてくれて有り難う。下がりなさい」
聡明な瞳でアイリーンを見返したフェンリルは、そのままするりとアイリーンの影に飲みこまれていった。
魔物の姿が消えたことで、固まっていた会場の人間達が顔を見合わせる。
アイリーンは深呼吸して、へたり込んだままのセドリックを見下ろした。
「百年の恋もいっぺんに冷めますわね」
「……な……ん……」
「わたくしが署名する書面はどちらに? あの壇上かしら」
「待て――待て! まだ俺の話は終わっていない!」
踵を鳴らして歩き出そうとしたアイリーンのドレスの裾を、セドリックがつかんだ。
べっとりしたその手に眉をひそめるが、蹴飛ばすのも不憫だ。哀れみの眼差しで、セドリックを見下ろす。
「な、なんだその顔は――なんなんだ! なんで俺がお前に、そんな目で見られなきゃならない! 婚約破棄されるのはお前なんだぞ!」
「嬉しいですわ。有り難うございます」
「どうしてだ、どうしてだ! お前みたいな女、もらってやれるのは俺しかいないんだ。頭を下げろ! 皇太子から婚約破棄された疵物だ、一生、誰にも――」
「セ、セドリック様!」
転がり込むように、兵士がやってきた。セドリックのみっともない姿も目に入らないくらい動揺し
た様子で、あえぐように口を動かす。
「そ、その、――クロード皇子が……魔王が、空に……!」
――瞬間、ドーム型に覆われていた硝子の天井が音を立てて割れた。




