おかえりなさい(アミール夫妻の場合)
Twitterに掲載してませんが、こうなったらそろえたいので書き下ろし
なお、アレスのフルネームは「アレス・アミール・アシュメイル」(書籍参照)
「ただいま」
その言葉が聞こえた瞬間、サーラは厨房からぱたぱたと駆け出した。後宮なら「静かに」「はしたない」などなどロクサネのお説教が飛んでくるだろうが、ここは自宅だ。
一時期はサーラは神の娘だと讃える下女がたくさん屋敷にいたが、今はもうみんな去ってしまっていない。残ってくれたのはかつてアレスの乳母だったという恰幅のいいおばさんくらいだ。「アレス坊ちゃんは昔から思いこみ激しくって、馬鹿やらかすんじゃないかと思ってたら馬鹿やらかしましたよ!」などとぷんぷんいつも怒っている。サーラも「あんたが大体悪い」と怒られているが、怒っていないときがそもそもない。その乳母も通いなので帰宅済みだ。
なので、サーラがアレスに抱きついても誰も文句は言わない。
「おかえりなさい、アレス!」
「っ……サーラ、あぶないだろう」
「あ、ごめんなさい」
よろけたアレスにサーラは慌てる。
「今日は痛む?」
「少し力が入らないだけだから、大丈夫だ」
つい忘れそうになるが、アレスの左足は本当は動かない。聖なる力を定期的に取り入れることで動けるようにしているだけなのだ。バアルは優しいひとなので、アレスの足が動かなくならないよう一週間に一度は必ず様子を見てくれているが、それでも調子が悪いときは痛むらしく、引きずることもある。
アレスは頷いて、サーラの肩を叩き、安心させるように先に廊下を歩き出す。
そっとアレスのあとを追いながら、サーラは明るく話しかけた。
「今日の夕飯はね、シチューっていうのよ。セレナさんから教えてもらったの!」
「……セレナから……」
かつてはめられたことが忘れられないのだろう。アレスが渋い顔をする。
「おいしくできたから食べてね」
「それは、もちろんだが。……オーギュストになんて言われるか……」
「アレスはオーギュストさんと仲良しなのに?」
「どうしてそんな誤解がうまれたんだ」
「だってまた会う約束してるんでしょ?」
「……サーラ。俺と彼が会うのは仕事だ。彼がミルチェッタ地方に赴任したから、国境警備という名前の合同訓練で顔を合わせているだけで断じて仲良しではなく、あちらもそんなつもりは――」
話の途中で階段にさしかかったアレスが、一瞬蹴躓きかけた。
やはり痛むのだろうか。だがアレスはサーラより先に振り向いて、笑う。
「平気だ。今日はなかなか厳しい訓練だったから疲れが出てるんだろう」
アレスは強い。足がこんなふうになっても、アシュメイル王国でアレスに剣で敵うひとはいない。
どんなに裏で馬鹿にされても、嫌みを言われても、王位継承権を剥奪されもう二度とアシュメイルを名乗ることはできなくなっても、アレスはしゃんと自分で立つ。
理想が高くて、自分にも他人にも厳しい。そういうところは今も変わらない。
かつてサーラは神の娘だった。神の娘なのだから、なんでも救えるのだと思っていた。でも、アレスのこの姿を見るたびに、サーラはその傲慢を思い知る。
こんなふうに、ふとしたときに、自分は神の娘にふさわしくないのだと、再確認する。
「サーラはどうだった。そろそろ学校の勉強も本格的になってきたんじゃないのか」
「うん。でももう読み書きは完璧だし、計算も間違えなくなってきたし! ああ、でも……その、本がね。破れちゃって」
アレスがその原因を察したのだろう。少々青ざめた顔に、サーラは笑って返す。
「平気よ。あのね、同じ班にすごくもてる男の子がいるの。多分、そのせいなの」
「だが」
「後宮でも同じことがあったし、なれっこよ」
聖将軍ともてはやされるアレスと、聖王バアルのふたりに目をかけられていたサーラは、よく物がなくなったり伝達ミスがあったりした。ロクサネには正面から嫌みをよく言われた。今は懐かしくすら思う。
「それにセレナさんがね、成績がよければ問題ないってアドバイスくれたの」
「……それはアドバイスなのか?」
「リリアさんもね、こういうひとがいたらこうしなさいっていう、手書きの分厚い『攻略本』っていうのをくれて」
「それはあやしさが全開すぎないか?」
「あとはロクサネさんがね、私が大体そういう立場になるのは私の素敵なところだってほめてくれたの!」
「それは本当にほめられているのか?」
どこまでも疑り深いアレスにぷっとサーラはむくれる。
「みんな私を応援してくれてるのにひどい、アレスったら」
「そ、そういうわけでは。ただ、周囲が果てしなく不安しかない人物ばかりで」
「ロクサネさんもみんな、私がお医者さんになれるよう応援してくれるのに」
「それは……」
アレスが言いよどみかけた先を、サーラは知っている。
出来損ないの神の娘といっても、サーラの治癒能力は本物だ。だから他国へ野放しにはできない、そういう国の身勝手さ。隙あらば利用してやろうと思っている周囲。
けれど、セレナは利用し返せと背中を叩き、リリアに楽しいと笑い飛ばされ、ロクサネは学びなさいと教えてくれる。
「それにね。アレスだっていてくれるもの。大丈夫!」
アレスは一瞬瞠目したあとで、ふっと微笑んだ。
「そうか。……今日の夕飯は、頼めるか?」
「まかせて! 特製シチューだから」
「サーラの料理はうまいから楽しみだ」
「ふふ。私、後宮の厨房係だったもの」
「そうだったな。バアル様がよく盗み食いに忍び込んで行かれて、それを俺が追いかけて……何年も前というわけでもないのに、ずいぶん若かった気がする」
懐かしそうに目を細めたアレスに、サーラは声をあげる。
「でも私、今のアレスのほうが好きよ」
サーラは神の娘だと、讃えられるべきなのだと、ひたすら崇められたあのときよりも。
「そうか。俺も、多分、そうだ。俺に特製シチューを作って待っていてくれる、君のほうが」
階段に足をかけたまま、アレスがそう答えてくれた。
(ああやっぱり、私は神の娘になれないなあ)
ふふっと笑ってサーラは階段をひとりであがるアレスの背中に声をかける。
「夜、足を揉んであげるね」
「ああ、頼む」
夫のひとことで幸せになれる自分は、やっぱり神の娘にふさわしくなかった。夫に「ただいま」と言われて嬉しい自分には、無理だったのだ。
(いつかアレスの足、せめて痛みを止めるお薬を処方できたらな)
「ああ、サーラ。忘れていた」
「え、何?」
「おかえり。……今日も、俺のところに帰ってきてくれてありがとう」
自分がなれるのは、あなたの元に帰ってくるだけの神の娘。
それを今日も再確認して、サーラは夫に微笑んだ。




