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「噂の出所はマークス・カウエルだ」
「なら、原因はこの間の学園での騒ぎのせいですわね」
アイリーンの足元でフェンリルの子がまばたきする。クロードが眉間にしわを寄せた。
「マークス? 誰だ、キース」
「叩きのめしたって噂を聞きましたが我が主は記憶にすらないと。さすがです」
「……そんなものがいたか?」
いたもなにも、あの場でマークスを、しかもリリアの前で叩きのめしたのはクロード本人だ。
(あらやだ、ちょっと同情しそうになりましたわ)
視界にすら入っていないとは、魔王は冷酷無比だ。
ごほんとジャスパーがわざとらしく咳払いをした。
「ま、まあ認識の相違はおいておくとしてだよ。時系列順に説明すると、リリア様に何通も脅迫文が届いてるらしいんだ。お前はセドリック様の婚約者にふさわしくない、辞退しろ、さもなくば的なお約束のやつ。ま、皇子の嫁になる女の通過儀礼みたいなもんだな」
「そうね。でも、どうして犯人がわたくしということになっているの?」
「一部の脅迫文に、アイリーン・ローレン・ドートリシュって署名されてるんだと。しかも貴婦人が使う香りつきの上等な便せんで届けられて、真に受けたセドリック様が騒いでな」
笑おうとして、こめかみに痛みが走った。点滅するように頭の中に出てくるのは、ゲームの中の光景だ。
(脅迫……そうだわ、ヒロインに届いていたわ。その結果、誘拐事件が起きて……ゲームで脅迫文を出したのは……)
誘拐事件の主犯であり、セドリックとの復縁を望む悪役令嬢アイリーン・ローレン・ドートリシュだ。
「……冗談じゃないわ。わたくしが犯人なら、もう二度とかかわるな、近づいたら殺すって脅迫文をセドリック様宛に出します」
「まあ、俺達はそう信じられるけど世間はそうじゃない。特にドートリシュ宰相が目障りな貴族なんかには、格好の攻撃材料だ」
誰かが陥れようとしているのだろうか。ゲーム通りに。
だがゲームでは、脅迫文にアイリーンの署名はなかったはずだ。その幼稚さを思うと、ゲーム通りと言えない気もする。
「脅迫文が届いてリリア様の身辺警護は厳しくなってるっつーのに、そんな脅迫がきたもんだから、魔物の仕業じゃないかって噂になっててな……」
「ああ、それで私が魔物と通じてるのでは――という話になるのね」
ジャスパーは頷く代わりに溜め息を吐いた。
「魔物の仕業ってことでまともに調査もされてない。リリア様は怖がって泣いてるらしいし、セドリック様は怒り狂ってるしでぐだぐだだよ、あっちは」
「まあ、脅迫文ごときで怖がるなんて。わたくし、何通も届くものだから、まとめて火にくべてお湯を沸かしたことありましてよ?」
「それもどうかと思うけどな!」
「ともかく、時間がありません。最初から犯人に目星をつけて罠をしかけていきましょう」
「目星って言ってもよぉ」
「魔物の仕業としか思えないくらい厳しい警護の目をかいくぐって届けられる脅迫文。犯人は内部にいるのがお約束でしょう?」
不敵に笑うアイリーンに、ジャスパーが頭をかいた。
「貴婦人向けの便せんを取り扱っている業者の最大手はアイザックの実家がやってる商会だったわね。あとでアイザックを呼んで頂戴。そして……アーモンド、聞こえる? 聞こえたなら出てきてくださらない。報酬はもちろん出すわ」
「ナンダ!」
テラスに伸びた陰から飛び出た魔物に、ジャスパーがぎょっと身を引く。蝶ネクタイをつけたカラスが、テラスの手すりに降り立った。キースが複雑そうに呟く。
「こんな使い方できるんですね、この影……」
「仕事! ヤリタイ! 楽シイ! 報酬、アップルパイ!」
「ケーキもつけてあげるわ。王城のゴミを持ち帰る仕事よ」
「簡単! 任セロ!」
「駄目だ」
反対したのは、クロードだ。当然、アーモンドはあっさり態度を翻す。
「仕事、駄目ダ! 断ル!」
「王城からゴミ――書類を持って帰ってもらうだけです。危険はありません」
「だがゴミを捨てる使用人の目にはつくだろう。罠が仕掛けてある可能性もある」
「――クロード様。前々から言おうと思っていたのだけれど、魔物を甘やかしすぎです」
「結界の外は僕の力が及ばない、当然の対処だ」
「結界の外が危険だからと閉じ込めて、何が解決すると仰るの。危険だと言って刃物の使い方を子供に教えない親はただの馬鹿でしてよ。魔物にも知恵をつけさせるべきです。あなた一人で、全てを守れるわけではないんですから」
ずいっとクロードの顔に下から近づく。クロードは無表情だったが、わずかに身じろぎして後ろに下がった。
「アーモンド、あなたはどうなの? 仕事をしてみたい? したくない?」
「俺様、魔王様ノ命令、イチバン」
「さっきのは命令ではないわ。ただの束縛です」
名前と同じアーモンドのような目をぐりぐりと動かす。何か考えているようで、忙しなくクロードとアイリーンの間をいったりきたりした。
やがて、根負けしたようにクロードが息を吐き出した。
「……好きにしていい。ただし、危険だと思ったらすぐ戻ること。これは命令だ」
こくりとアーモンドが蝶ネクタイがついた首を縦に振る。そしてクロードは、冷たい双眸をアイリーンにひたと向けた。
「もし何かあったら、この城も森も人間の出入りを二度と許さない」
「その前に何かした人間をわたくしが叩きのめしてやりますわ。わたくしだってアーモンドが可愛いんですから。――なんですか全員、その顔は」
クロードはおろか、当の本人のアーモンドまでくちばしを開けて惚けている。ジャスパーが両腕を組んで、ベレー帽を被り直した。
「普段の言動のせいじゃねぇかなーと。分かりにくいんだよ、お嬢様の愛は」
「わたくしの貴重な時間を割いて仕事を任せる時点で、相当な愛でしてよ?」
だからその言動が、と言いたげな全員の顔をアイリーンは綺麗に無視した。
「アーモンド。クロード様の言うとおり、危険だと思ったらすぐ逃げること。そして必ず、複数で行動なさい。ゴミを見張る、持ち帰る、どれも手順が必要です。仲間の誰にどんな役割を振るか、それを決めるのはあなたに任せるわ」
「俺様、決メル」
「そうよ。あなたが隊長です」
ぶあっと全身の毛をふくらませたアーモンドが、目をきらきらさせた。と思ったら、器用に羽を片方折り曲げて、びしっと敬礼の格好をとる。
「アイアイサー!」
「あら。どこで覚えたの、敬礼なんて」
「アイザック、聞イタ! ケーレー、了解!」
誤解が多々混じっているが、要はこのポーズが気に入ったのだろう。羽で敬礼をし、ふさふさの胸を張っている姿は、魔物とは思えぬ愛らしさがあって微笑ましい。
ジャスパーもまじまじと眺めて、口笛を鳴らした。
「空軍式の敬礼だな。うまいうまい。確かに魔王様にとったら空軍だもんなぁ」
「……なら、部下を死なせないのは指揮官のわたくしのつとめね」
苦笑い気味のアイリーンに、クロードが目を向ける。そして、静かに尋ねた。
「僕に、何かできることはあるか」
ぎょっと全員が目を剥く。アイリーンも目を見開いて数秒固まった。
クロードだけが一人、足下に目を落とす。
「不思議だな。……君を泣かせたいという気持ちに変わりはないんだが」
「そこは変わって下さいませ!」
「たまにどろどろに甘やかして、君を駄目にしてしまいたくなる」
だから何故、甘いはずの台詞が怪しい方向へいく。
(孤高の魔王設定はどこへいったの!?)
囁き一つで、清々しい真昼を倒錯感漂う淫靡な蜜月にしないで欲しい。あとずさりながら、アイリーンは引きつった笑いを見せる。
「お、おたわむれがすぎると……って全員いない!?」
「一目散に逃げていったが」
アーモンドもフェンリルの子までいない。魔王に捧げられた生け贄になった気分だ。額に手を当てて、アイリーンは深呼吸をする。
(落ち着こう、落ち着いて……大事なのはそう、クロード様に何かしてもらえそうだっていうことよ! ここは一つ、結婚を了承させて――)
そこまで思いついたのに、どうしてだか、それが口にできなかった。
どろどろに甘やかされて駄目になる気がした。
「では――夜会で、他のどの殿方より……セドリック様よりかっこよく、わたくしをエスコートしてくださいませ」
考えて考えて出てきたのは、そんな間抜けな願いだった。言ってから頭を抱えたくなる。
(せめてコラーゲンを開発してとか! いやそれも違う!? あああクロード様もほら、何言ってんだこいつみたいな目になってる!)
どうしてだろう、願いなんて数え切れないほどたくさんあるのに、そんなことしか思いつかなかった。恥ずかしさに逃げ出したくなっていると、先にクロードの方が目をそらす。
「君はほんとうに、手強い」
「は……?」
「約束する」
何を、と問い返す前に、とんとテラスを蹴ったクロードは地面に下りてしまった。
約束の中身に思い当たったアイリーンは、遅れて熱くなった頬を両手で挟む。
――クロード・ジャンヌ・エルメイアの署名付きでアイリーン宛に、夜会用のドレスと靴、アクセサリーの一式が枕元に置かれていたのは、夜会の当日、朝のことだった。




