子どもじみた愛
平成最後の更新。
せっかくだから、何か賭けましょう。
そう口にしたのが油断だと言われれば、そのとおりである。同じ年頃で、同じような立場の女性とこうして一対一でカードゲームに興じるような経験が今までなかったから、浮かれていたのだろう。
しかも勝負の結果はここまで五分五分なのだ。これで燃えないわけがない。
「わかりました、では勝ったほうの望みを負けたほうが叶えるということでよろしいですか? ただし、国がかかわるような願い事はなしで」
「ええ、もちろんです。負けませんわよロクサネ様」
「ではわたくしが勝ったら、クロード様と口づけなさるところを見せていただけますか」
「は?」
あまりの衝撃にアイリーンの手から、入れ替えようとしたカードが一枚落ちた。
「バアル様はわたくしといちゃいちゃしたいと仰られているのですが、あいにく周囲によい手本がなく……子どもじみていて大変恥ずかしいのですが、わたくしは口づけひとつイメージができず困っておりました」
「……い、いちゃいちゃ、ですか……」
「アイリーン様ならばその点、よき手本になってくださるかと思いまして」
「……」
「では宜しくお願い致します」
アイリーンが落としたカードをひろい、ロクサネは自分の手元をさらす。
そこには見事、これ以上なく強い手札がそろっていた。
■
アシュメイル王国は正午を少し回ったこの時間帯が一番暑く、それ故に物好き以外は働かない時間だ。
聖王と魔王も例にもれず、ふたりして聖竜妃が作った水場で涼んでいた。後宮に聖王以外の男は入れないはずだが、魔竜の一件を境に、後宮は現在半壊状態、聖竜妃が敷地の半分を我が物顔で使っている有様だ。誰もとがめない。
砂漠の国であっても、聖竜妃が作った水場は格別に涼しい。池の周りは緑が萌えており、半壊した建物が蔓にからまれて影になっているため、ちょっと廃墟じみたオアシスになっていてそれだけで一見の価値がある。特にこの場所は聖竜妃もお気に入りらしく、勝手に足を踏み入れて聖竜妃の機嫌を損ねないのは、バアルとクロードくらいだとロクサネは言った。だからかまったく人気がなく、余計にいい休場になっているのだろう。
そこへやってきたアイリーンとロクサネに気づいたのは、池の真ん中で浮かんでいたバアルだった。聖竜妃はどこかに遊びに行っているのか見当たらない。バアルが手をあげたのを見て、池に足をつけていたクロードも振り向く。
(うっ)
その姿を見て、アイリーンは思わず足を止めた。
クロードは、髪を乱雑に結い上げていた。しかもバアルの水遊びにつきあっていたからか、ただでさえ薄着の服が着崩されている。池につけていたズボンは膝までまくられているし、シャツははだけて鎖骨まで見えるうえ、生地が濡れて肌が透けている。中途半端なその有様が、それはもう艶めかしい。いっそバアルのように上半身を脱いでいる方が、よっぽど健康的に見える。
アイスクリームをすくったそのスプーンを唇からはなすその仕草に、思わず目を泳がせてしまった。
「アイリーン? どうしたんだ」
「い、いえ。ちょっと」
どうしてよりによって、こんなときにいつもと違うのか。顔がまともに見られない。
首をかしげるクロードのいるところまでバアルが泳ぎ、岸にあがる。
「なんだ、お前らも水遊びか?」
「おい、勝手に人のアイスを取るな」
「ケチだなお前、魔王のくせに」
「聖王のくせに盗っ人猛々しい」
「おふたりとも、喧嘩はあとでお願い致します。実は――」
「ロクサネ様! ちょっとお待ちください!」
いつもとまったく変わらない無表情で切り出そうとしたロクサネの口をふさぐ。
「こ、ここはわたくしにおまかせくださいな」
そう言うと、ロクサネはこくりと頷き返してくれた。こほんと咳払いをして、アイリーンは手をはなす。
(き、緊張は不要よ。もうキスは経験済みだもの!)
今更何を臆することがある。
そう言い聞かせて、はっと気づいた。
(え、わたくしからするの? それともクロード様に頼む……)
「ロクサネ。そこにあるオレンジを取ってくれ」
「その前にお体を拭いてくださいませ、バアル様。体を冷やしてばかりはよくありません」
「いらぬわ、この暑い最中――いらぬと言うのに」
岸に置いてあったタオルでバアルの頭をふきだしたロクサネのほうが、よっぽどいちゃいちゃしている。
ここで見本としてクロードに口づけを迫るなんて、なんの拷問なのか。
しかもクロードはまんざらでもない顔をしているバアルに冷めた目をしており、完全に白けきっている。この雰囲気でクロードに口づけをねだる言葉も態度も、アイリーンには思いつかない。
なら、自分からしかけるほうがましというか、それしかない。
「お召し替えはきちんと用意されておられますか?」
「この気温だ、放っておけば乾く。お前は余を子ども扱いしすぎだ」
「そういうわけではありませんが……」
「にやけながらよく言う。そう思わないか、……アイリーン?」
首をかしげたクロードの両肩をがしっと正面からつかんだ。
ぱちぱちとクロードがまばたく。
「……どうしたんだ。怖い顔をして」
やり逃げればいいのだ。沸騰しそうな頭だけでそれだけを考える。目標は唇。
そう、唇。水気を含んでやたら艶めいてみえる、夫の。
「顔も赤い。まさか熱射病か?」
心配げに眉をよせたクロードの冷たい指先が頬に触れた。ひっと喉が鳴り、身をすくめて目を閉じる。
だが一回やったのだ、きっとできる。
簡単だ。目を閉じたまま、クロードの唇目がけて、こう、思い切って。
「アイリーン、とりあえず木陰にッ――!?」
勢いあまって振り下ろした頭が、クロードの顎にぶつかる。
アイリーンに頭突きをくらったクロードが池に落ちる音を聞いてから、はっとアイリーンは目を開いた。
「く、クロード様! クロード様、ご無事ですか!?」
「なるほど……さすがアイリーン様、参考になりました」
「なんの参考かわからんが、余に同じことをするなよロクサネ」
■
「――つまり、いわゆる罰ゲームで口づけを見せることになり、こうなった……と」
顎を冷やしながらクロードが経緯をまとめる。はいと応じたのはロクサネだ。
「ですがバアル様は参考にしてはならないと」
「当たり前だ、頭突きだぞ。何の参考にするというのだ」
「やはりあれは頭突きですか。アイリーン様の手練手管ではなく」
「い……いえ、ロクサネ様!」
少し離れた場所で後ろ向きに両手両膝をついて打ちひしがれていたアイリーンは、地面に向かって叫ぶ。
「ここからですわ! わたくしはその、決して、怖じ気づいたわけでは」
「そうなのですか?」
「そうです! ここからが本番――」
「アイリーン」
背後に立った影と声にすくみ上がると同時に、そのまま一気に木の陰まで逃げた。
「ク、クロード様は少し離れてお待ちくださいませ! 精神統一中ですので!」
「勇ましいのは結構だが、いちいち頭突きされてはたまらない」
うぐっとアイリーンはつまると同時に、木の陰からそっとクロードをうかがう。
「お、怒ってらっしゃいますよね……?」
だがそこにはクロードはいなかった。
かわりにうしろから腰をつかまれる。
「そう思うなら手間をかけさせないでくれ。この国だと魔力が使えないんだ」
「えっは、離してくださいませクロード様! まだ精神統一が終わっておりません!」
「精神統一の問題じゃないだろう」
ばたばたしている間に、頭突き現場まで戻り、クロードの正面におろされた。
じっと向けられる視線に、アイリーンは目をそらしつつ訴える。
「こ、今度はうまくやります。大丈夫です。目を閉じたりしませんから」
「敗因はそこじゃないと思うんだが」
「チャンスをくださいませ! このまま引き下がるのは――」
ちゅ、と軽く音がなったと思ったら唇が重なっていた。
「ロクサネ妃。これでいいだろうか?」
あまりにクロードが淡々としているので、何が起こったかわからなかった。
「なるほど。そのように。参考になります」
「というか、さっきからなぜ他人のラブシーンなんぞ見たがっておるのだ、お前は?」
「ですから、いちゃいちゃの参考に」
「? 待てさっぱり話がわからん、説明しろ」
そんなロクサネとバアルの会話をだいぶ右から左に流し、やっと何が起こったか理解する。ばっと唇を両手で隠している間に、みるみる顔の温度が上昇した。
「な、な、な……どうして!」
「君を待っていたら日が暮れるだろう」
何回頭突きされるかわからない、とも付け足されて、むっとした。
「そ、そんなことはありません、やればできます!」
「君には絶対無理だと思う」
「なんですのその態度! 少しご自分が慣れてるからって!」
「別に僕が慣れてるわけではない。君が不慣れなだけだ」
そう言ってクロードが立ちあがるのと一緒に、手を引っ張られた。
「僕らは先に戻ろう。聖王はしばらく使い物にならないだろうからな」
「どういう意味――」
クロードに手を引かれながらうしろを見ると「余の妻が可愛い!!」と叫んだバアルがそのままうしろむきに池に落ちていった。ロクサネがおろおろしているようだが、確かにあれにかかわりたいとは思わない。
(いちゃいちゃしてるじゃありませんか、十分に!)
なんだか腹が立ってきて、足音荒く前進する。
アイリーンの憤りがわかったのか、木陰を進むクロードがふっと笑った。
「いちゃいちゃのお手本か。一番君の苦手な分野だろうに」
「そ、そんなことはありませんわ」
「結婚してからも口づけひとつしない僕にしょんぼりしてるだけだったのに?」
気づいていたのか。腹が立ったが、ここで言い返したら思うつぼだ。
ふんと顔をそらして、話をそらす。
「わたくしはただ、ロクサネ様のお力になれるならと思っただけですわ!」
「君はだいぶ正妃に親切だな。……心配しなくても大丈夫だ」
「どうしてそう言い切れるのです」
「見ていればわかる。片方は無自覚でも、あそこは今、お互いに相手にぼうっと見惚れ目が合っただけで赤面する、子供じみた恋真っ盛りの頃合いだ。下手にかかわったらあてられるだけだぞ」
確かにそれはあるかもしれないと思いつつ、クロードを見あげた。
涼しい顔で先を歩くクロードの後れ髪と、首筋が見えて、ぱっと目をさげる。じわりと頬が赤くなるのがわかった。
歩みが遅くなったアイリーンに気づいたクロードが、足を止めて振り向く。
「アイリーン?」
「……。わたくし、子どもっぽいのでしょうか」
「なぜ?」
「だって。……クロード様が普段と違う格好をなさってるだけで、目のやり場に困ります」
髪を結い上げて、ズボンを膝までまくり、両腕と足を出して、魔王でも皇太子でもない、普通の青年みたいにしているだけで、もうどうしていいかわからない。
「て、手をつないでこんなふうに歩くのも、エルメイアでは滅多にありませんし……」
「……」
「……確かにわたくしにはロクサネ様のお手本だなんて早かったかもしれません……クロード様?」
黙りっぱなしのクロードの反応をそっと上目でうかがうと、クロードがあいている手で目元を覆う。そして少し顔をそむけながら、ぽつりと言った。
「僕の妻が可愛い……」
「はい?」
「いや、ちょっと考えるから、待ってくれないか」
待つって何をだろうか。
首をかしげたアイリーンは、再び前へと歩き出したクロードの耳が赤いことに気づく。
きっと髪をあげていなければ気づかなかっただろう。
そう思うと、じんわりつないでいる手も微妙に汗ばんできている気がして――アイリーンは笑ってその腕に抱きつく。
らしくなく、クロードが一瞬体勢を崩した。それがもう、たまらなく愛おしくて嬉しい。
「でも、クロード様だって意外と子どもっぽいってわたくし、知ってますわ」
「心外だ」
すねたような声をしているくせに、クロードがこちらを向く。きっとこのひとも負けず嫌いだ。
近づいてくる唇に、アイリーンは目を閉じる。
だいすきなんて子どもじみた愛の言葉は、重なった唇にとけて消えた。




