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魔竜が空から消えた。
どこからかあがった歓声を他人事のように聞きながら、セレナは胸に抱いた書類を確認して、アレスの屋敷を出る。
(セドリック皇子にはここから撤収するよう伝えた。サーラがいたのは意外だったけど)
逃げ出した神の娘は馬鹿正直に自分の部屋に帰ってきて、荷物を詰めて、逃がしてくださいと通りがかったマークスに泣きついたらしい。どう処理するのか知らないが、そもそもセドリックがそそのかしたようだ。あの第二皇子はつくづく小細工ばかり考えつく。その裏にはリリアがいる可能性があるが。
「……」
あなたの力。そう言われたことを思い出して、手をにぎったり開いたりしてみる。
(――私が何もできないんじゃ、意味ないじゃないのよ)
つまりここにいるのは何も変わりない、いつもの自分だ。
腕の傷はただの切り傷だし、すぐに治るだろう。散々ひどい目にあったのだから、しっかり報酬はもらう。もちろん、ハウゼル女王国の護衛とは別料金で請求だ。
結局神剣を使ってあの魔竜をたおしたのはリリアかアイリーンか、そのあたりだ。自分には何もかかわりがないことだ――。
「……ッ!?」
「騒ぐな」
髪をつかまれ、首に刃物をつきつけられたまましげみに引きずりこまれた。
誰もが魔竜がいなくなった空を喜ぶ中で、薄暗い顔をした男がにたりと笑う。
「お前を待っていたんだ」
「アレス、様……」
人相が変わりすぎて一瞬誰かわからなかった。
剣先を喉元に突きつけられたまま、セレナは周囲を見回す。アレスと――一人、二人。皆、魔竜に食われた者達だ。薄汚れ、きらびやかな未来はもう見られない者達。
「アレス様。この女、帳簿を持ってます! ハウゼル女王国から武器の密入や賄賂を記した」
「なんだってかまわん、この女は土産になる。ハウゼル女王国へのな」
逃亡のための人質に使う気かと思っていたセレナは、思いがけないその言葉に目を瞠った。
その顔を見て、アレスが鼻先まで近づいてくる。
「神剣を直したのはお前だろう」
――戻れなくなるわよ。
時計塔での言葉が、頭に響いた。
「他人の力を増幅させるなんて聞いたこともない。お前を持っていけば、ハウゼル女王国は必ず俺を賓客扱いするはずだ」
「……っサーラ、様は。あの方はあなたの妻で、神の娘――」
「あの女の話はもういい! それよりも今はお前の方に価値がある」
サーラ。決して好きではなかった。かわいこぶってえらそうに、神の娘だと崇められて、いい気になっている女。
でも――死にたくないとこの男から逃げ出した彼女は、正しい。
「なんなら俺の妻にしてやってもいい」
「お断りよ!」
袖口から隠し持っていた小さなナイフを取り出し、つかまれている髪を自分で切る。不意をつけた今が逃げ出すチャンスだ。数人、しかも鍛えた男達と真っ向から戦って勝てるような力はない。
だがアレスの反応は早かった。セレナの動きを読んでいたかのように、背後から背中を剣の柄で殴り、そのまま足払いをかける。
「いっ……!」
「暴れるな、できるだけ傷をつけたくない。お前の体液には価値がある」
木の幹にぶつかってへたりこむ。足払いをかけられた足首が熱をもっていた。ひねったのかもしれない。殴られた背中も木に打ちつけた全身も痛い。
「血の一滴も無駄にはしない。――涙もな」
じわりと生理的な反応でにじみかけた涙を見て、アレスが笑った。顎をつかんで持ち上げられ、舐め取られる。気持ち悪い。悔しくて、奥歯を噛みしめる。
(――泣くな! 泣いたってどうしようもないでしょ)
誰も助けてくれなどしない。頼りになるのは自分だけだ。従兄弟に殴られたときも魔香を手に入れたときだって――自分の男運のなさはもはや生まれつきだ。笑いすらこみあげる。
「お前、綺麗な顔をしているな」
ふとアレスがそう言った。それはいつだったか叔父から向けられた目とそっくりだった。
「もしお前の体液が奇跡を起こすなら、お前に子どもを産ませたらどうなる――ッ」
身動きがままならないかわりに、その顔に唾を吐きかけてやった。
「お望みの体液よ。ありがたくなめとれば?」
「この女――ッ!」
一発平手で殴られた。そのまま胸元の服を力任せに引き破られる。はっと笑った。いつだって男はやることが単純だ。
拳を握る。怖くない。もっと逆上させろ、怖くない、そうすればきっと隙ができる、怖くない、誰も助けにきてくれなくていい、戦える。
でもいったい、いつまで、たったひとりで。
「……セレナ?」
場違いな声がまざった。間抜けな顔が見えた。
よりによって、そう思った瞬間、体の重みが消えた。
うめき声が聞こえて、セレナをつかんでいた男二人が地面に沈む。
「――何してんだ、お前ら」
男を二人、あっという間に沈めたオーギュストが、ゆらりと立ち上がる。まとう空気が変わっていた。咄嗟に間合いをとったのだろうアレスが、剣を抜いてかまえる。
はっと思い出す。オーギュストは手合いでアレスに一度も勝てていない。
「待ちなさいよ、あんたじゃ勝てな――」
止めようとした時にはもうオーギュストは動いていた。
寸分の狂いも無駄もなく剣先がアレスの首を狙う。アレスはそれをよけたが、姿勢を低くしたオーギュストの蹴りをそのまま横腹にくらって吹っ飛んだ。地面に転んだアレスの顔の横に、オーギュストが剣を突き刺す。
一瞬でついた決着だった。
アレスも状況把握が追いつかないのか、呆然としている。
「……大事な証人だって聞いてる」
普段の明るさをすべてそぎ落とした無機質な声で、オーギュストが言った。
「――でも今度セレナにこんなことしてみろ。その時は殺す」
地面から剣を引き抜いたオーギュストが、そのままアレスの側頭部を容赦なく殴った。思わず目をつぶってしまったセレナは、ぐたりと弛緩したアレスを見ておそるおそる尋ねる。
「こ……殺した、の? まさか」
「生きてるよ、気絶させただけ。あの……セレナ」
振り向いたオーギュストに、思わずびくりと体が震えた。
それに気づいたオーギュストが慌てて、手を一生懸命服でこする。そして綺麗にした手を、ゆっくり差し出してきた。
「あの……あの、髪が」
「……」
「だ、だいじょう――」
「大丈夫なわけないでしょ!? ――遅い!」
そう叫ぶと、オーギュストはぽかんとしたあとで慌て出した。
「ご、ごめんな!? 遅かったよな、ごめん!」
「どうすんのよこの髪!? 綺麗に伸ばしてたのにっ……上着貸して!」
「はい!」
「立てないし歩けないじゃないのよ!」
「おぶってくから! だから、その」
世界がゆがんでいる。
けれどオーギュストのその困り果てた顔は妙にはっきりと見えた。
「泣くなよ。俺、どうしていいかわかんないから――っ」
気のきかなさに腹が立って額をその肩にぶつけてやった。
決してすがったわけではない。目にゴミが入っただけで、泣いてるわけじゃない。そもそも自分の涙は高いらしいのだ、そう安売りしてたまるか。
でもきっとこの男は、この涙に価値があるなんて言わないだろう。
オーギュストは一瞬固まったが、そのまま抱き締めてくれた。
やればできるではないかと、少しだけ安心した。




