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闇に沈んだその手をつかんだ瞬間に、確信した。最後の一人、アレスだ。
握り返してこないがその手はあたたかい――まだ生きている。
左手で聖剣を突き刺すと、魔竜がひるんだ。その隙に引っ張り上げようとしたが、逆上した魔竜に吹き飛ばされてしまう。
吹き飛ばされた体を反転させて、着地する。勢いを殺せず、そのまま石畳の上を踵がすべっていった。お気に入りの靴なのに、ヒールが削れてしまう。
後宮で一番高い時計塔。吹き飛ばされて鐘がなくなり、見晴らしがよくなったその場所で、アイリーンは高度を落とした魔竜を眺める。
確実に弱ってはきているのだ。だが無数の赤い目は怒りでますます赤くなり、絶え間なく咆吼を続ける。
「アレス様はひきはがせなさそうね。諦めて神剣でやっちゃう?」
ふわりと横にリリアがおりてきた。
「ここまで苦労して冗談じゃないわ。――バアル様!」
名前を呼んで、地面に飛びおりる。
幾度か魔竜の攻撃から助けてくれたバアルが振り返った。
「なんだ」
「力を貸してください。アレス様を魔竜が離そうとしないんです。聖なる結界で魔竜の動きを数秒でいい、止められませんか」
「無茶を言うな。あれはもう聖だけでも魔だけでも止められぬ」
「ダメ元でかまいません、やってみないよりましです。聖なる力だけでは足りないと言うなら、わたくしが魔力を補いま――」
また背後で魔竜が動いた。こちらめがけて放たれた巨大な光線にバアルが結界を正面からぶつける。
だがそれは一瞬で砕け散った。
「しまっ……」
迫ってくる光に聖剣を握り直した瞬間、黒い紋様が立ちはだかった。
ものすごい爆発音を立てて、光線が霧散する。
「まったく。どうしてそこで君は僕を頼らないんだ」
いつもと変わらないぼやきに、アイリーンはまばたく。
ロクサネを抱えたクロードがそこにはいた。黒くなびく髪にも、その美しい顔にも、どこにも傷はない。
(あ……)
すべて終わったら自分が目の当たりにしなければならないと覚悟をきめたものは、どこにも見当たらなかった。
安堵で膝が抜けそうになる。
クロードに導かれて地面に足を下ろしたロクサネにも、どこにも傷はない。
バアルが夢でも見ているかのような顔でつぶやく。
「ロクサネ……」
「真っ先に僕らを助けにこないのはどういうことなんだ? 結界がなくなったら僕は快復してしまうじゃないか。鞭で傷ついた僕なんて、滅多に見られないんだぞ」
その呑気な言い方に安堵を通り越して怒りが爆発した。
「この非常事態に! そんなことおっしゃる暇があるなら、魔竜を止めてくださいませ!」
「魔竜か。……あの内気な子が、ずいぶん大きくなって……」
「感心している場合ではありません! このままだと殺すしか――」
「まったく、人間というものはどこまでも」
魔王が見せた冷たい目に、アイリーンは押し黙った。
このままだと魔竜を始末するしかなくなる。だがそんなこと、クロードが承知するはずがない。
「あの子が取りこんだ人間が邪魔で、僕の言うことが届かない。人間をひきはがして頭をひやさせれば、正気に戻るだろう」
「ほんとに? 殺しちゃった方が確実じゃない?」
わざとらしくリリアがあおるようなことを言う。だがクロードは薄く笑い返した。
「殺したいなら殺せばいい。ただその場合、この国は終わると思うが」
「……魔王。どういう意味だ、それは」
「あの子はもとは水竜だ。水竜は汚れに――人間の悪意に弱い。大昔に人間の悪意で汚れて魔竜と呼ばれるようになったのがあの子だ。だが本質は変わらない。実際、あの子から奇跡の水が出ていただろう?」
「――神水は神剣が生んだものじゃないんですの?」
「神剣の力の中に水を生む力などないだろう。あれは魔竜の水を浄化しただけだ」
そう言われればそうだ。
誰も反論できないが信じきれもしない中で、リリアだけが肩をすくめて「残念」とつぶやく。――知っていたに違いない。
「わかった。魔王。貴様を信じる」
真っ先に決断したのはバアルで、そのバアルをクロードは不思議そうに見つめ返した。
「正確には、貴様を信じるアイリーンを信じる」
「……なるほど」
クロードの声が一段低くなったが、気にしている場合ではない。合意がとれたのだ。
「では、クロード様とバアル様で魔竜をとめてくださいませ。リリア様とわたくしはもう一度突っこんで参ります」
「アイリーン様、もうそろそろ神剣がもたなさそうなんだけど」
「気合いでなんとかなさい!」
「アイリーン」
クロードが名前を呼ぶと同時に、ぱちんと指を鳴らし、その手のひらを開いた。のぞきこんだ先には指輪がある。
バアルに取られた結婚指輪だ。
バアルが胸元あたりをまさぐり、叫ぶ。
「おまっいつの間に!?」
「もう魔力はこめてある。この間の三十倍くらいは」
「さ、三十倍……ですか……」
指輪から怨念――もとい、魔力が立ちのぼって見えるような、見えないような。
ちょっと引きそうになったが、有無を言わさずクロードに手を取られ、薬指に指輪をとおされた。そして薬指に、そっと口づけを落とされる。
「うしろは気にせず、頑張ってくるといい。――君と僕ならできる」
「は……はい、もちろんですわ!」
だが不安など、クロードの励ましにすべて吹き飛んだ。振り返り、魔竜を見据える。
百人力だ。愛の力を得て、負けるはずなどないのである。
「いきますわよ、リリア様!」
「え、もうちょっと打ち合わせとか休憩」
面倒だったのでその首根っこをつかんで魔竜に向けて放り投げた。
何事か文句を言っていたが、聞く必要などない。
「クロード様、バアル様!」
赤と菫色の瞳が光る。
魔竜が絶叫に似た声を上げた。巨大な魔力の網に捕らえられ、もがき、四方に攻撃を繰り出す。それらをすべて聖なる結界がおさえこむ。
その狭い隙間を縫うようにしてリリアが神剣を輝かせた。
「まったく、私をなんだと思ってるのかしら、アイリーン様ったら」
顔色一つ変えず魔竜の攻撃をすべてよけながら、リリアが正確に魔竜の中心を横に切り裂いた。
真っ二つになったその間にアイリーンは滑り込み、もう一度アレスの手をつかむ。いっそのことアイリーンごと呑みこんでしまえとばかりに、裂けた魔竜の傷口が閉じようとしていた。
それをアイリーンの背後に回りこんだリリアがもう一度切り捨て、笑う。
「早くしないと私と心中ね」
「冗談じゃないわ! ――っ」
傷口を閉じないまま無数の目が内側に現れた。しまったと思った瞬間に魔竜が再度咆吼してしばられたように動きをとめる。
クロードが攻撃して外に意識を向けさせ、バアルが縛り上げているのだ。
「あら、意外とやるじゃない。魔王と聖王」
「――っこれを離しなさい、魔竜……っ!」
アレスの手をつかんで引っ張りながら、アイリーンは叫ぶ。
「こんなものを食べたら、おなかを壊すでしょう!!」
瞬間、まるで今までの苦労が嘘のように、アレスが抜け出た。
それを外に放り投げ、咆吼する魔竜の内側から逃げ出す。
最後の抵抗なのか、魔竜は全身を光らせて攻撃し続けていた。結界を抜けた光線が後宮の時計塔を吹き飛ばす。だがクロードの攻撃を後頭部に受けて靄のようだった形が、次第に竜の形を取り始める。元に戻りつつあるのだ。
地上に現れたその足めがけて、リリアが神剣を突き刺し動きを封じる。
それが限界だったのか、神剣がそのまま砕け散った。
「アイリーン様、今よ!」
その赤い目がすべてアイリーンに向く。
正面から受けて立った。背後にはクロードの結界がある、気にしなくていい。
「いい子だから眠りなさい!」
指輪に預けられたクロードの魔力と、聖剣。
ありったけの力をこめて、その頭上から一閃に切り落とす。
ぱりんと殻がわれるような音がした。
そのままぼろぼろと、瘴気の塊が落ちる――まるで、汚れが剥がれ落ちていくかのように。
同時に目の前で、光が炸裂する。
「アイリーン!」
最後に見えたのはすべての不純物を吹き飛ばす、白い世界。
だが仰向きにたおれた自分を抱き留めたのは、夫の腕だとわかった。




