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それがきたのは夜明けだった。
海の宮殿にある寝室で眠っていたアイリーンは、地響きの中で飛び起きる。まがまがしい魔物の気配で眠気は吹き飛んでいた。
がたがた小物が小刻みに揺れ、床で砕ける。レイチェルが控えの間から飛び込んできた。
「ア、アイリーン様! ご無事ですか」
「ええ。いったん外に出ましょう、まさかこんな日に天災だなんて……」
一度目の衝撃は大きかったが、揺れはすぐにおさまった。
レイチェルが用意したショールを寝間着の上に羽織り、外へと向かう。
(まさか、作戦が中止なんてことにはならないと思うけど)
一刻も早く助け出したい人がいるのだ。それこそ、今すぐにでも。
だが衝動的にそれを選べば、あの場に残った二人の気持ちを無駄にしてしまう。だから自分もバアルも耐えているのだ。
痛めつけると血を流すのだが本当に魔王なのかなどという議論に、爪が食い込むまで拳を握りしめて。
まだたった二日だ。でももう一日たりとも耐えたくない。バアルだって同じだろう。
舞台は整っている。中止になんてならないよう根回しを打ち合わせしなければ――そう思って外に一歩出た瞬間、アイリーンは自分の勘違いを悟った。
天災ではない。
血で染まったような朝焼けの空。
そこに黒くじわりじわりとひろがっていく闇は――夜の名残ではない。
「ア、アイリーン様……あれ……動いて……ますよね」
雲のように、あるいは瘴気のようにうごめきながら、じわじわとアシュメイル王国の空が覆われていく。そして、獲物をさがすようにそれは唐突に目を開いた。
無数の赤い瞳を。
(――魔竜!)
まがまがしい瘴気をまとって闇に隠れる、無数の赤い目を持つ魔物。
「魔竜はクロード様のところへ向かわせるはずでしょう、どうして後宮の上に!?」
「アイリーン様、何かきます!」
レイチェルの叫びと同時に、かっと魔竜の目が赤く光った。空に木に建物に人にめがけて一直線に攻撃が向かってくる。だがそれを光の膜がはじき返した。
聖王の結界だ。宮殿の上に浮いた、この国の王がたった一人で対峙している。悲鳴があっという間に歓声に変わった。
「バアル様!」
「おい、聞いていた話と段取りが違うぞ。あれは魔竜本体だろう」
周囲ほど浮かれた様子もなく、アイリーンに気づいたバアルが宙から降りてくる。
「おそらくは。でもわたくしも何も聞いてません。何か想定外のことが起こっ――!」
咆哮が響いた。今度は雲の間からがっぱりとあいた穴――おそらく口だ――からものすごい量の魔力が放たれる。
バアルが舌打ちし、右腕を横に振り払った。幾重にも展開した聖なる力の魔法陣が、魔竜の光線をはじき返し、爆発していく。
(……驚いた、聖王の名前はだてじゃないってことね)
だが魔竜を傷つけるのは魔王の妻としては看過しがたい。
「バアル様、状況がわかるまで魔竜への攻撃はひかえていただけませんか」
「安心しろ、余は防御しかできん!」
きっぱりと言い切られ、思わずまじまじと聖王を眺める。
「……まさかわたくしを妃にしたのはそれが理由ですか」
「攻撃できるなら余に神剣も聖剣も必要なかろうが」
「何をえらそうに……っとりあえず、わたくしが弱らせます!」
「防御はまかせろ!」
仁王立ちで自信満々に言われていらっとしたが、今はそれどころではない。
緻密に、殺してしまわないように、少しだけ傷を負う程度に。アイリーンの意図を汲んだ聖剣が右の手のひらからまっすぐに魔竜に飛んでいく。そしてそのまま雲のような魔竜の体を貫く――のだが、わかりやすくその力は跳ね返された。
「……きかない、どうして!?」
「ふむ。つまりあれは魔竜そのものではない、ということか? ――というか余の結界をすり抜けた時点で、あれはもうただの魔物ではないか」
はっとアイリーンは顔をあげる。魔竜はアシュメイル王国の空を覆い始めていた。魔王の力すら及ばない聖王の結界の内側から出て、攻撃をしかけてくるということはつまり――。
「誰か人間を操り、そこから攻撃をしかけているのだ。神剣でないと斃せぬ――行くぞ」
「どこへ!?」
「予定変更だ。サーラに本物の神剣を修復させる」
「ですがそうするとサーラ様の権威を失墜させる策が……!」
アイザックの策では魔竜をクロードに引き取らせ、神剣はすべて偽物とすり替えて修復を失敗させる予定だった。
魔竜も復活せず、神の娘が神剣の修復に失敗すれば、アレスを牽制できる。さらにハウゼル女王国とひそかに通じていたことやロクサネへの証拠偽造をちらつかせば、アレスも諦めるだろう。
内乱で国民同士が争うのを回避したいというバアルの希望でもあったのだ。
「アレス様を牽制できないうえ、魔竜復活の責任をあなたが追及されることになります!」
「かまわん。魔竜が本当に復活したならば、被害は内乱の比ではない」
「……っクロード様を今すぐ解放しましょう! そうすればなんとかなるかも」
「もう遅い。この状況であの者が魔王だとわかれば、どんなに言い訳してもエルメイア皇国がこの国を攻めてきたと誰もが思う。すべてが台無しになるぞ」
バアルは周囲に避難の指示を出しながら、早足で宮殿に向かって歩き出した。
「今後アレスの力が増すとしても、今はそれを懸念している場合ではない。神剣、神の娘、アレスが持つ軍、後宮に集めた聖なる力を持つ妃たち。すべての力を借りて、魔竜を封じるのが先だ。殺さなければそちらにも文句はあるまい」
「ですがそれだとあなたが」
「民を守れずに、何が王だ」
小走りでバアルを追いかけていたアイリーンは、その言葉に足を止める。
こんな時だというのに、唇に笑みが浮かんだ。
(ロクサネ様。あなたの判断は間違っていない)
この人は王だ。クロードと同じ。
「お前にも手伝ってもらうぞ。お前はまだ余の妃だからな」
「あなたの妃なんて冗談じゃありません。お断り致します」
「お前、この期に及んで協力しないと言い出す気か」
「隣人と言い換えてくださいませ。あるいは友人、同志と」
しゃんと背筋を伸ばしたアイリーンは、ゆっくりと正式な礼をする。
「エルメイア皇国皇太子妃アイリーン・ジャンヌ・エルメイアと申します」
バアルは突然の名乗りにまばたいていた。それをいたずらっぽく見上げて、誓う。
「我が夫の名にかけてあなたをお助けします、アシュメイル王国聖王バアル・シャー・アシュメイル様。――わたくし、実は魔王の次に強いですわよ?」




