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水滴の音に足音がまざり、クロードは薄く目を開いた。
両手首を上から鎖でつながれ、宙に吊された体がきしむ。頬についた傷と髪が血で固まって気持ちが悪かった。鞭を振るわれた肌がひりひりと痛む。
「うっわ……思った以上に派手にやられてんな」
「……アイザックか……どうりで」
口を動かすたびに血の味がにじむ。切れた唇が痛い。痛いなんて、まるで人間のようだ。
「どうりで?」
「漏れ聞く作戦が……完璧そうに聞こえて、そこを突かれたら終わりなのでどうぞ突いてくださいと言わんばかりの穴がわかりやすい作戦だと……」
「それほめてんのか、けなしてんのか」
「あまりにこちらに都合がよすぎて実は罠なんじゃないかと思ったら……君が入りこんで将軍を操っていたのか、そうか……相変わらず君は……やらないとできない子だ……」
「よしわかった、ほめてねーな」
じりと灯りがこちらを照らした。
「……大丈夫か?」
おそらくひどい有様なのだろう。珍しくアイザックが気遣うような声をかけてきた。それがなんだかおかしくて笑ってしまう。
「……意外と痛かった。今も痛い」
「そらそーだろ……他にやりようあっただろうに、なんでまたこんな馬鹿な真似したんだ」
「アイリーンが心配で不安で眠れもしないだろうと思うと、胸がときめいて、つい」
「よし頭は無事だな、通常運転だ」
「……正妃は無事か?」
気になっていたことを尋ねると、アイザックは眉をひそめた。
「――無事だ。命に別状はない。……手心は加えさせた」
「……そうか……僕だけにしろと、言ったんだが……あの、アレスという男は……」
怒りよりは哀れみを感じる。決して悪い人間ではないのだろうに、なんてたやすく人は堕ちるのか。
(まあ、自業自得だが)
くっと喉が鳴った。
「とりあえず魔竜はそっちにいくようにしといたけど、それでよかったか?」
「……ああ。君のいいようにするといい」
「そう言われると逆に不安になるんだけど。まさか魔竜に負けるなんてこたないだろうな」
「それは心配しなくていい。……アイリーンはどうしている?」
むっとアイザックが眉根を寄せるのがわかった。
「我慢してるよ。ここに飛びこんできてねー時点でわかるだろ」
「そうか……ふふ、どうやら夫婦喧嘩は、僕の勝ちだ」
「そんなナリで勝ちも負けもあるかよ」
「そういえば、レイチェルには会えたのか?」
「それどころじゃねーよ。向こうだってそうだろ」
仕事優先か。感心すると同時に、ため息が出た。
「それだといつまでも進展しない。君はやらないとできないのだからもう少し積極的に」
「うるせーよ、助けがくるまでそこでおとなしく待っとけ!」
言い捨てて、アイザックは灯りを持って元来た道を戻っていく。怒らせたようだ。
灯りがなくなり、暗闇が再度訪れた。その闇にまぎれて影が寄り添ってくる。
「――ああ……大丈夫だ、心配するな。あれは敵じゃない」
足下からクロードに這いよる黒い靄の訴えに、苦笑いを浮かべた。
「そうか……僕のところにこようと無茶をしたんだろう。……もう正気でいられないか。ほんとうに、人間はひどいことをする……」
するすると体中に甘えるようにまとわりついていた靄が薄くなってきた。もう時間がないらしい。だが、頃合いではあるだろう。
アイリーンの意をくんでいるからか、アイザックの策は優しい。
だが、わかりやすい悪者が必要だ。誰が悪で誰が正義か、誰の目から見ても明らかな、そういう物語が――できれば使いたくはなかったが、あの男は『ロクサネを傷つけるな』というクロードの言葉を軽んじた。
(アイリーンが気にするじゃないか、僕以外を)
その罪は重い。
「ああ、大丈夫だ。お前を怒ったりはしない。いっておいで」
魔竜。聖剣を模倣した神剣と神の娘という特殊な力を持つ少女によって、魔界へと封印されたかつてのこの地の支配者。クロードが万が一にも斃れるようなことがあったら、そのスペアである第二の魔王を生み出すだけの力を持った、太古の魔物。
それが捕らえられたとはいえ今の今までおとなしくしていたのは、神の娘が怖かったわけでも神剣に脅えていたからでもない。
人間を傷つけることが、クロードの命令に反するからだ。
「愚かな人間に、思い知らせてやるといい」
赤い瞳を虚空に持ち上げ、クロードは優しく命じた。




