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周囲を静かにうかがっていたクロードがつぶやく。
「……陽の宮殿を囲まれたな」
「なんだと。どういうことだ――ロクサネ?」
くるりとロクサネが身を翻し、寝台の下をまさぐる。
がこんと何かがはまる音がして、床が開いた。地下へ向かう階段だ。
「バアル様、こちらへ。この秘密の通路を抜ければ、宮殿近くに出ます」
「逃げろと言うのか? 何故だ」
「クロ様――いえ、クロード様のことが知られたのかもしれません。今、あなたがエルメイア皇国と通じていると知られれば、国を裏切るつもりだといらぬ疑惑を招きます。時流は魔王討伐を訴えるアレス様とサーラ様にありますから」
手際よくロクサネは扉の内鍵をかけ、さらにつっかえ棒をはさみ、家具を動かし出した。
「ここへくるということは、まずわたくしから攻めるつもりなのでしょう。ですが幸い、わたくしとあなたの夫婦仲は冷め切っております。わたくしを切り捨てれば、まだあなたを王から追い落とすことはできません」
「お前」
「嫌疑は魔竜の召喚疑惑でしょう。サーラ様に嫉妬するあまり、魔竜の力を借りてサーラ様を殺そうとした。そんなところのはずです。そういう風に仕向けましたから」
「ロクサネ。いるか」
まず、控えめに扉が叩かれた。アレスの声だ。
アイリーンは呆然としているバアルの腕をつかみ、地下へ降りる階段へと引っ張る。
バアルが足をもつれさせるようにして階段を一段降りたところで、振り向いた。
「ロクサネ、なぜ」
「サーラ様の力は素晴らしいものですし、アレス様は確かに正しいのでしょう。ですが王にふさわしいのはあなたです。内乱を起こさせてはなりません」
「おま……お前は、アレスを」
「お慕いしておりました。愛されていると信じていましたし、ええ、あなたがご存じのとおりサーラ様に嫌がらせもしました。無様で、醜い女の嫉妬です。でもわたくしは」
「ロクサネ! いるんだろう、あけてくれ」
がんと殴りつける扉の音を背に、ロクサネが酷薄な笑みをうかべる。
「わたくしの気持ちも立場も何も考えず、まるでもののように下げ渡されて」
「おい、鍵はまだか、早くしろ」
「それで当然だと、話も聞かず、有無も言わさず、幸せだろうと笑われて」
「話し声が聞こえる。いるはずだ」
「そんな男に恋をしていたのかと、絶望したのです」
「――それなら余だって同じだろう、余はお前は正妃にすれば黙るだろうと、そう思って」
いいえ、とロクサネは首を横に振った。
「あなたは聞いて下さいました。正妃になるかと。――ええ、わかっています。なりたくないなんて答えるとは思っていらっしゃらなかったことは。でもあなたは尋ねて下さいました。だからわたくしは自分の意思で答えたのです。あなたの正妃になると。あんな男の婚約者のまま終わるのだけは、死んだってごめんだと、自分で選んだのです」
それはアイリーンもかつて噛みしめた、這いあがるための覚悟。
「だからわたくしはあなたの正妃です。――さあ、行ってください。わたくしに情けをかけてはいけません。今のあなたにはまだ何も非はない。今までお世話になりました」
「ロクサネ」
「あなたを愛せる時間がなくて、ごめんなさい」
ロクサネがバアルの両肩を突き飛ばした。
地下に落ちたその音は、激しくなってきた叩扉の音に混ざって消える。
「アイリーン様、クロード様。あなた方も早く。助けてくれとは申しません。無事、関係のないところまで逃げてくださるだけで、十分です。これは我が国の問題なのですから」
凜とアシュメイル王国の正妃が顔を上げ、美しい所作で立ち上がった。
何か叫びかけたバアルの口を、アイリーンはふさぐ。
頭上にある出入り口がゆっくりと閉まっていき、光が消えていく。
「行きますわよ、早く!」
「――待て、ロクサネはどうなる!?」
「ロクサネ様は無実、ならアレス様が持っているのは偽造した証拠です。これはチャンスです、相手はしかけてきたつもりでしょうが、わたくし達が気づいていることに気づいていない。だから今は引くんです、誰がどう裏で糸を引いているのかつかむために!」
魔竜の召喚嫌疑、誰にも敬われず冷遇されて当然の、形ばかりの正妃。彼女を護るものは何もない。
それを彼女は武器にして囮になった。
「ロクサネ様の気持ちを無駄にするような真似は絶対に許しませんわよ。でなければわたくしがこの国からロクサネ様を連れ出します!」
「アイリーン」
「クロード様も早く、身を隠してください。もう宮殿は危険でしょう。外に出たら――」
「強がらなくていい」
暗闇の中で強く噛みしめて血がにじんだ唇を、指で優しくなぞられた。
「君を泣かすのはいつだって僕でなければ」
「こんな時に何を、クロードさ――」
腰を抱き寄せられて、右も左も暗闇の中で唇を塞がれた。
そうとわかるのは、先ほど交わしたばかりの感触と同じだったからだ――と思ったら、知らない感触が口の中に入り込んできた。
「ん、んうっ!?」
まぶたを開くと、赤い瞳だけがかろうじて見えた。
何もかも見透かすような、その強い瞳。
「どうせなら魔王とおぼしき男も一緒の方が、食いつくだろう」
呼吸ごと奪われてくらくらする体を、バアルに押しつけられた。
「貸しにしておこう。それまで担保として君の妃を預かる」
「……クロード様、まさか」
「いい機会だ。君もたまには僕と同じ思いをするといい」
再度頭上から差し込んだ光に目がくらむ――と思ったら、出入り口に寝台が落ちてきて、あっという間に塞がってしまった。
「ひっ――お前は……っ!」
「その女性に触れるな」
「――ひるむな、囲め! 決してロクサネを逃がすな!」
剣戟と怒声、複数の足音。
クロードにふさがれた退路を呆然と見上げていたアイリーンは、両の拳をにぎり、背後のバアルに静かに告げる。
「――行きますわよ。これ以上泣き言を言うようなら、わたくしが直々にあなたの息の根を止めて差し上げます」
目に慣れてきた暗闇の中で、バアルが立ち上がる。
「……ああ。これ以上、好き勝手はさせぬ」
バアルがアイリーンの手をにぎる。伝わるのは聖なる力。
同じ、誰かを護るためのもの。
「協力しろ。お前の夫を助けるために」
「ええ。あなたの妻を救うために」
ふわりと足が浮いたと思ったらもう、目の前は静かなだけのバアルの寝室だった。
――正妃ロクサネと護衛クロが密通および魔竜召喚の罪で将軍アレスに捕らえられたという報告が入ったのは、それから小一時間あとのことだった。
■
ゆっくりとリリアは両目を開いた。
後宮で時間を知らせる時計塔は、聖王の結界の中心だ。夜風と一緒に聖なる力が流れていく。
とてもとてもいいものが見られた。満足感で唇が弧を描く。
だが右手と左手、それぞれを握って先ほどの光景を見せてやった二人はそうではないらしい。
「アイリーン様……」
「ほんっと最悪、あのアレスって男……元婚約者をあんな風に縛り上げる、普通!?」
「ロクサネ様はどうなるんでしょうか。クロード様も」
「しー、ふたりとも。だめよ、知らないふりをしてなきゃ。ロクサネ様と魔王様は通じ合ってこの国を滅ぼそうとした悪者なのよ?」
「あんたなんとも思わないの!?」
「とってもいい話だったわよね!」
無礼者――大勢の兵士に囲まれてそう毅然と言い放った悪役令嬢はとても綺麗だった。
そのロクサネを護ろうと、魔力も使えないのに剣一本で立ち向かった魔王様も素敵だった。うしろから斬り付けられるその瞬間は、卑怯なとアレスに憤ってしまったくらいだ。眼福である。
「だから二人に見せてあげたのよ。感動すると思って」
「感動ってあんた……っこの際それでもいいわ、何かできることはないの」
「そうねえ……」
うーんと顎に人差し指を立てて考えこむ。
2のヒロインと悪役令嬢がじっとそれを見ていた。生きている目だった。アイリーンと関わるとみんなこうなる。悪くない。
「アイリーン様には協力するって約束してるし……でもいいの? 特にセレナ」
「は? なんで私よ」
「戻れなくなるわよ」
本音でそう尋ねてみた。
選んであげてもいい。
酷薄に笑うプレイヤーにヒロインがひるむ。だがすぐに笑い返した。
「もう今更よ」
「――あの、セレナ様に危険なことをさせるわけじゃありませんよね……!?」
「何、あんた。まさか私の心配してんの」
「そういうわけでは……」
「じゃあ、レイチェルも。いいのね?」
「私はアイリーン様にお仕えすると決めた時から、覚悟は決めています」
悪役令嬢はいつだってなんの力もないけれど、それでも立ち向かうその姿がどうしようもなくリリアの心を震わせる。うっとりした。
「いいわ、じゃあ力を合わせて頑張りましょ」
こんな馬鹿げたことをキャラに言う日がくるなんて、なんて楽しいのだろう。
「でもあんたのさっきの力。あれでアレスを見張れば、神剣の場所もわかるんじゃないの?」
「ああ、無理よ。私には今、聖剣がないから。できたのはあなたのおかげよ、セレナ」
「――え?」
「じゃあいきましょ」
もう神の娘は用済みだ。
プレイヤーに選ばれないキャラになど、存在価値はないのである。




