26
砂漠の夜は寒い。なのに自然と足取りはゆっくりになった。
「では、転移できるのに他国に滞在したことがありませんの?」
「ああ。聖王が国を離れたら結界がなくなるのではと不安を感じる輩も多いからな。実際はそんなことはないのだが――そもそもこの国は閉じているし、その必要性もなかった。お前はどうだ」
「わたくしは小さな頃、主要な国はいくつか回りましたわ! 勉強だと言って、どの国でも無一文でお兄様の誰か一人と城下町に放り出されました。帰る手段は自分たちでなんとかしろとお父様に言われて」
「――ちょっと待てそれはどうなったんだ!?」
「お兄様が一緒でしたから、そんなに苦労はしてません。三番目のお兄様はすぐ客船の持ち主と交渉なさって、通訳として働く代わりにエルメイア皇国行きの船に乗れました。二番目のお兄様は用心棒でお金を稼いで汽車で連れて帰ってくれましたわ。一番上のお兄様は……気づいたら迎えがきていました……」
「一番上は何があった」
「わかりません。でも楽しかったですわ。そこで色んな国の言葉も覚えられましたし、文化の違いも肌で感じましたし。他国に何日かだけでも滞在するのは、いい勉強になりますわよ」
そのためにあの父親は、幼い息子と娘に何よりの経験をさせた。――決して趣味ではないと思いたい。
「……お前は、本当に皇妃になるために育てられた女だな」
「そうですわね。実際、皇太子の婚約者でしたし」
「魔王に追い落とされたという第二皇子か。そいつももったいないことをしたものだ」
「そう思うなら、あなたも同じことをなさらないように」
むっとバアルが眉根をよせた。
「まさかロクサネのことを言っているのか? あれをすすめるな、不愉快だ」
「なぜですか」
「あれはまだアレスを好いている」
本気かと目をまばたいたが、バアルの横顔は真剣だった。
「お前も茶会で見ただろう。しつこくいまだにアレスやサーラにつっかかっていくのが何よりの証だ。いくら余が止めてもやめぬ。余の面目など考えもしない」
「……そもそもなぜ、ロクサネ様を正妃になさったんですの」
「サーラの件で対立するアレスとフスカ家をなだめるにはそれが最適だった。ああ一応、本人にも聞いたぞ。余の正妃になるかとな。あの女は頷いた。頷く以外に選択肢などなかっただろうがな。だがそれは名門家の令嬢として、当然――……」
淡々とした為政者の顔が、ふと険しくなった。
視線が暗い後宮の一点にさだめられている。
「バアル様?」
「――本当に、余は女運がない」
気づいたらバアルが歩き出していた。その向かう先を見たアイリーンは瞠目する。
回廊とまっすぐ平行に建っている、陽の宮殿、その廊下。
(ロクサネ様に、クロード様……!?)
寝室から顔を出したロクサネが扉を開き、その中へとクロードが入る。そしてその扉は、少し隙間を残して中を隠してしまった。
「ちょっ……バアル様、お待ちになって」
「アレスから色々報告は受けていたが、そこまで愚かだと思っていなかった。だが甘かったようだ。正妃が密通など、絶対に許されぬ」
「まだそうと決まったわけでは――」
「お前の夫も裏切り者だな。いや、魔王なら不道徳は当然か」
嘲笑するバアルは遠回りになる整備された道ではなく、回廊と宮殿の間にある庭を容赦なく踏みつけていく。冷静ではないのは明らかだ。
(なんでまたこのタイミングで……っ止めなきゃ!)
まだロクサネが笑うことに苛つく理由を自覚してもいない。そんな男はろくなことをしない。
「――ロクサネ!」
閉まりきっていない扉を開き、バアルが怒鳴りこんでいく。そして息を呑んだ。
追いついたアイリーンも中をのぞきこんで、瞠目する。
ふたりは寝台にはいなかった。
ただ、手をつないでいた。
正確には、座って羽根ペンを持ったロクサネに、うしろから身をかがめたクロードが覆い被さるようにして手をかぶせている。書き物を手伝っていたらしいと頭の隅では理解するが、この状況では言い訳にしか聞こえないだろう。
「何をしている」
ましてバアルに気づいた途端、ロクサネが書いているものと一緒に手を隠したらもう――まずいことをしていましたと告白したようなものだ。
「……何も。字の書き方を教えていただいていただけです。それより何かご用ですか。こんな夜更けに」
「何、通りがかったら、正妃が男を招き入れているのが見えたのでな」
「そうですか」
ロクサネの応対はおそらくいつも通りだ。だがバアルは違う。それは進歩なのだが。
「ずいぶん、護衛と親しげではないか。結構なご身分だ」
「彼を護衛をつけると決めたのは、バアル様とアレス様でしょう。わたくしは」
「――『魔法陣の錬成と仕組み』? なんだ、余を呪い殺して駆け落ちでもするつもりか」
書き物をしていたというテーブルの上にあった本を持ち上げ、バアルが鼻白む。
「正妃にしてやったというのに、酔狂だな」
「……」
ロクサネが唇を引き結んで押し黙る。
それにバアルはさらに苛立ったようだった。
「言いたいことがあるなら言え」
「……いえ……」
「言え!」
「やめなさ――」
「正妃が脅えておられる」
アイリーンが止めに入る前に、バアルが机に叩きつけようとした本をクロードがつかんだ。




