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「さて、僕の可愛い妻はいったい何をして――」
「人違いです! わたくしはあなたの妻のそっくりさんですわ!」
やけくそな叫びに、クロードが真顔になった。
踏まれた長衣をどうにかして取り戻そうと引っ張りながら、アイリーンは口を動かし続ける。
「わ、わたくしも確かにアイリーンという名前ですが、偶然ですわね!」
「……」
「そ、そういうわけで離していただけませんか」
「……なるほど。君は僕の妻とは別人だと――そういうわけか」
「そ、そうですわ。あなたの妻がアシュメイル王国の後宮にいるわけがありませんもの」
「そうだな。そう言われればそうだ。まさか僕の妻が、アシュメイル王国で海の宮殿を賜って上級妃になっているわけがない」
完全にばれているが、こうなると笑うしかない。
「そ、そうですわよおほほほほほほ。あの、足をどけていただけると」
「大変失礼した。ところで妻には内緒だが、意外と僕は悪い男だ」
嫌な予感に動こうとした時にはもう遅かった。
膝をつき、腰をがっちり抱きこまれた体勢で、クロードの顔が鼻先に迫る。
「君が僕の妻とどう違うのか、隅々まで確かめていいだろうか?」
「あなたの妻です!!」
指先がうなじをかすめた瞬間に降参した。
「君はたまに無駄な抵抗をする」
「それはクロード様が」
「無事でよかった」
続く言葉をなくしてしまった。かわりにクロードの肩に額を当てる。
それだけなのに、何もかもわかったように背中を優しくなでてくれるから、この人には勝てない。
「レイチェルもいたな。全員、ここにいるのか?」
「……はい」
「わかった。あとは僕にまかせるといい」
はい、と思わず頷きかけて我に返った。――神剣。
「いえ、だめですクロード様! わたくしはこの国でやることがあります」
「やること? ――まさか他の男の妃になることがか?」
クロードの声色が優しいまま一段低くなったので、ひっと首をすくめた。
「ち、ちち違います! わたくしは決してそんな」
「ではなぜ僕と共に帰ると言わない」
「それはっ……そう、恋のキューピッドですわ!」
神剣が修復されていようがいまいが、横取りできればいい。
だが、かなわずバアルが魔竜に乗っ取られてアレスが王になろうものなら、エルメイア皇国に攻めてきてクロードの首を狙いかねない。それを防ぐにはバアルが聖王のままでいること、すなわち愛の力が必要だ。だがまさかクロード以外の男性を口説けないのでここは正妻を推す――ということをまとめるとそうなった。
柔らかい笑顔のままクロードが固まる。さっぱり意味がわからないからだろう。
だがすぐに立ち直った。さすが自分の夫である。
「まず、どうしてそうなったのか教えてくれないか?」
「詳細は省きますが、聖王とその正妃が愛で結ばれたら解決の糸口が見えます。ですからわたくしにまかせてクロード様はこの国を出てくださいませ、危険です」
それこそ正体がばれでもしたら、首をはねられて終わる。
それがわからないわけではないだろうに、この人はきてくれた。アイリーンはそれにきゅんとしている場合ではない。
「おひとりできたわけではありませんね?」
「……アイザックとオーギュストと……まあ他にもいる」
「アイザックがいるのでしたら安心ですわ」
ほっと息を吐き出すと、ぴくりとクロードの眉が動いた。
かまわずその両腕をつかんで、立ち上がらせる。
「クロード様。早くここから出て、国にお戻りください。わたくしは大丈夫ですから」
「……。君は大丈夫か、他の男の妃になっていても」
「なんでもないことですわ」
クロードを失うことにくらべれば――という言葉は、どんと壁を拳で打つ音に遮られた。
「……」
多分、地雷を踏んだ。
それだけはわかったので、息を殺して固まる。
アイリーンの頬の真横の壁に拳をたたきつけたクロードが、完璧に表情をそぎ落としてこちらを見下ろしていた。
「この国でよかった。僕がどんな気持ちになろうが、周囲に迷惑をかけずにすむ」
「そ……そうです、わね……?」
「君の言うことはよくわかった。つまり、僕に泣かされたいんだな?」
言葉の意味よりそこから立ちのぼる怒りに圧倒されて、アイリーンは震えあがった。
「なっなん、なんでそうなり、ましたの」
「指輪はどうした?」
恐ろしく低い問いかけに、焦りだけが募る。
とられたなどと言ったら、今のクロードはそのまま指輪を取り返しにバアルの元へ行きそうだ。
「ええと、あの――だ、だい、大丈夫です! わたくしちゃんと」
だん、ともう一度反対側の壁が殴られた。
「言えないんだな? 可愛い僕のアイリーン」
「は、はいっ」
完全に囲まれた体勢で頭上から降る甘い声に、逃げ腰になりながら返事をする。
「――よく、わかった」
今度は何がくるかとびくびくしていたら、クロードがくるりときびすを返した。
「好きにするといい」
「……ク、クロード様?」
「そのかわり、僕も好きにさせてもらう」
かつ、と踵を鳴らしてクロードが歩き出す。慌ててアイリーンはその背中を追いかけた。
「えっ……ちょ、お待ちください! クロードさ」
「僕のここでの名前はクロだ」
「なんですかその名前!? ではなくて――っ」
「――なんだ、声がすると思ったら」
宝物庫の扉が開いて、突然光が差し込んできた。
「護衛が一人行方不明になったらしいが、こんなところに余の妃と一緒にいるではないか」
薄暗い闇の中より光が似合う聖王の姿に、思わずクロードを背にして前に出る。
宝物庫の中を日の光で満たしたバアルは、クロードを一瞥し、笑った。
「誰かは問わぬ。まさか魔王ともあろう者が、護衛に扮して敵国にのこのことやってくるわけがあるまいしな?」
「……」
「黒髪に赤目。言い伝えどおりなのに、まったく気づかぬ我が国の無知も笑えぬな。聖王の結界内では力が振るえないからくるはずがないと、そう信じているのだろうが」
不意に腕をバアルにつかまれ、そのまま引っ張られた。
「ちょっ」
「だが、この女は余の妃だ。逢い引きは見逃せぬ」
「は!? あなたにそんなこと指示される筋合いは――むぐっ」
バアルの大きな手に口を塞がれ、がっちりと体を押さえこまれた。
その様子を冷たく一瞥したクロードが、ゆっくりとその目の前を通りすぎていく。
バアルがおかしそうに尋ねた。
「いいのか? そう簡単に返してはやらぬぞ」
「――正妃の名前はロクサネだったな」
「は?」
思わぬ返答だったのか、バアルの手が緩んだ。その隙に首を振って振り払い、アイリーンは口を動かす。
「ク、クロー……じゃなくて、ええと、ともかくお待ちください!」
引き止めたのに一瞥もくれず、クロードは宝物庫の外に出ていってしまう。
(まさか……まさかまさかまさか!)
ざあっとアイリーンの頭から血の気が引いた。
「なんだ、勝てぬと腑抜けたか。魔王ともあろう者が――ッ!?」
みぞおちに拳を叩き込んでやるとそのままバアルが体を折り曲げて沈んだ。
さらにその背中を踏んづけてやりたい気持ちをこらえながら、アイリーンは拳を震わせる。
「ことの重大さがまったくわかっていないようね……!?」
「――お、ま……普通本気で、王を殴るか……!?」
「見たでしょう、あの顔! ロクサネ様をとられるわよ!」
ぽかんと間抜けな顔でバアルが見上げる。あああ、とアイリーンはその場で頭を抱えた。
(わたくしの馬鹿! 怒らせたわ……!)
これがもしゲームだったならば選択肢をやり直したい。つまり間違ったのだ。
夫婦円満を目指して、まさかの初の夫婦喧嘩イベントが勃発したのである。




