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持ち出した本を一冊読み終わった頃に、バアルは目を覚ました。
小一時間ほどだがよく眠れたらしくすっきりした顔で背伸びをし、アイリーンをさがしにきたレイチェルに菓子まで用意させ、それを食べてから仕事に戻って行った。
新しい護衛達が後宮に顔見せにくるので、それを抜き打ちで観察しに行くそうだ。
「アレスが統率しているとはいえ、後宮に男を入れるのだ。牽制はせねばならん」
そう言っていたが、ゲームの展開を思うとアレスの手勢が増えたと感じてしまう。牽制という言葉を選んだバアルも、それを本当は感じ取っているように思えた。
(でも今、アレス様やサーラ様を正面から敵に回すのは下策。機をうかがうしかないってところかしら……)
魔竜をなんとかしない限り、ジリ貧だ。
だが、バアルだとてそんなことは百も承知だろう。
最後に何かをごまかすように、食べかけの水菓子をアイリーンの唇に押しつけて、バアルは礼を言った。褒美に伽をさせよう、とまで言ってきた。
眠りたいなら素直に頼めばいいのに、最後までめんどくさい男である。
「もう少し信頼を得られたら神剣の話も聞き出せそうだけれど――どうしたの、レイチェル」
本の貸し出し手続きをすませてくれた侍女の様子がおかしい。
中庭を一望できる渡り廊下で足を止めて尋ねると、レイチェルは真顔で口を開いた。
「アイリーン様。夜伽の意味はおわかりですよね?」
「わかるわよ。話をするにはいい機会ね。あの男と正妻の関係を改善する糸口も見つけたし」
「あの、本当におわかりですか? そういうことになったらどうされるんです」
レイチェルが心配していることがわかって、ああとアイリーンは頷く。
「男は誰でもいい時があるというものね。――安心なさい、折るから」
「折るんですか」
「クロード様と違って一生使い物にならなくなっても、わたくしにはなんの問題ないもの」
でもロクサネが可哀想だろうか。彼女とも話がしたいと思いながら、視線を前に戻す。
「それより、リリア様とセレナの首尾はどうなの」
「それなら、だいぶうまくいっているようです。アレス様は後宮からリリア様とセレナ様を出してサーラ様に仕えさせることを考え始めたみたいで」
「まだあの二人を行かせてたった三日しかたってないのに!?」
神剣と内乱の情報を察知できるようアレスを攻略、もとい味方になってこい――そう指示したのはアイリーンだ。
そうしたらあの二人は喜々として作戦を立て始めた。
まず警戒心をとかせるために、サーラに心酔した体で近づく。ああいう男に必要なのは仕事ぶりを全肯定すること、健気な姿、正義の味方――とかなんとか。攻略しろと言ったわけでもないのに、まるで当たり前のように攻略に乗り出したのだ。リリアだけではなく、セレナまで。
ヒロイン二人がハニートラップとか乙女ゲームとしてどうなのだろうか。いや、乙女ゲームとはヒーローを攻略するのが主眼なのだから正しいのか。
結果として、たった三日でサーラのおつきを検討されるほど、アレスから信頼され始めているらしい。
アレスがチョロい可能性もあるが、アイリーンとしてはこう思う。
(乙女ゲームのヒロイン怖っ!)
「……とりあえず、セドリック様とオーギュストに顔向けできなくなるような真似はしないようにと、再度念押ししておいて」
「それを言うと、二人ともものすごい顔されるんですけど……」
「効果があるってことにしときましょう。……何かあったらわたくしが責任をとるわ……」
遠い目になって、中庭を横切る。中央の噴水から水が四方に流れる、落ち着いた庭園だ。どこの角度から見ても、絵画のように美しく見えるよう計算されている。
「あ」
急いで足を進めるアイリーンを引き止めるように風が大きく吹いた。庭園に気を取られていたせいで、肩にかけていただけの紗の羽織り物がふわりと空に浮かぶ。ふわふわと優雅に舞うそれを、誰かがつかまえた。
そのまま、時が止まった。
日差しの下でも汗一つない、白皙の美術品めいた美貌。艶を失わない黒髪が、小さく風に揺れている。こちらを見て見開かれた瞳の色は、宝石のように美しい赤。
「…………」
「………………」
夫の蜃気楼だ、そうに違いない――などと現実逃避する猶予などもはや一刻もなかった。
「あっアイリーン様!?」
すかさず身を翻し走る。逃げるが勝ちだ。いったん態勢を整えなければ戦えない。
そう思ったのだが、現実は甘くなかった。
無言でクロードが追いかけてくる。夢だと思いたいが、やっぱり夢じゃない。
(ひいいいいいいいっ!)
こちらは全力疾走で、クロードは早歩き。なのに距離が縮まっていく。
叫び出したい気持ちをこらえて必死で走るが、いずれ追いつかれてしまうのは目に見えていた。
(どこかに隠れるしか……っ!)
曲がり角を何度も曲がり、死角を作りながら、周囲を見回すと、人気のなさそうな建物の扉がわずかにあいているのが見えた。宝物庫だ。
そこに滑りこみ、クロードが姿を現す前に扉を閉めようと手をかける。重い。だが早くしないと追いつかれて――。
「アイリーン」
がん、と締めようとした扉を長い足が阻んだ。
ひっと喉を鳴らして建物の奥に入ろうとしたが、足がすべって尻餅をついてしまう。あとずさりしても、すぐに背中に何かがぶつかって阻まれてしまった。
立ち上がろうとした身をひねったその目の前を、だんとクロードの長い足が阻む。ついでに足の間に広がった長衣も踏んづけられた――逃げられない。
「どうして逃げるんだ? 夫が迎えにきたというのに」
薄暗い宝物庫の中でゆっくり上半身をかがめて、クロードが唇だけで笑う。
つまり目が笑っていなかった。




