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アシュメイル王国の建国はエルメイア皇国とほぼ同時期だ。歴史書の目次を見ると、神剣と神の娘の伝説からまず始まるところも同じである。
「魔竜の毒に侵されていた大地を、神剣が浄化。神水がわきでるようになり国ができた……」
現実の言い伝えとゲームの内容が同じことを確認し、初心者向けの歴史書を棚に戻す。天井まで書物で埋めつくされた図書室は静かだ。レイチェルは入り口で待たせているが、リリアとセレナは別行動をしている。
(襲撃から三日……次の神の娘の覚醒条件は、悪役令嬢の断罪イベントの前振りである魔竜の召喚騒ぎ。アレスを諦めきれないロクサネが魔竜と通じるという展開だけれど、どうなるかしら)
現実はだいぶ違うが、少し形を変えたイベントがストーリーをなぞり直すように起こる可能性は高い。
書棚に並ぶ背表紙に人差し指をすべらせながら、次に古めかしい古語が綴られた歴史書を取る。
「お前、その本が読めるのか」
頭上からの声に顔を上げる。宙に浮いたバアルが、十字路になっている書棚の間に足を下ろした。
「さすがエルメイア皇太子妃――というべきか? 我が国の古語が読めるとは」
「大げさですわ。ただの教養でしょう」
ハウゼル女王国によって既に言語も度量衡も統一されてもう何百年とたっている。だが、その前の時代は今では古語と呼ばれる各地固有の言語があった。古語が読めるのは、外交や契約の際に必要だと皇妃教育の一環として叩きこまれたからである。
「わたくしは読めるだけですもの。わたくしの三番目のお兄様は、各地の古語を母国語みたいにしゃべるし条約文だって書きますわよ」
「ほお、大したものだ。我が国にもそういう人材がいればいいのだが」
「アシュメイル王国は聖なる力目当てに王子が他国に誘拐されてから、ほとんど鎖国状態なのにですか?」
「よく知っている。――だがな、外からの刺激がなければ内側から腐るのだ」
隣に並んだバアルが、アイリーンから本を取り上げ、ぱらぱらと中をめくる。
「……これから先、他国との外交をお考えなのですか」
「そうだ。後宮に色々な国の女を入れているのはそのためだ」
「誘拐してまで?」
「ああ、お前にとっては誘拐か」
まるで他の女性にとっては違うような言い方だ。
ちらと横目でバアルの顔を見て初めて、アイリーンはその顔色が青いことに気づく。
「いずれにせよ些事だ。魔王がエルメイア皇国の次期皇帝になろうとしている今、聖王とのつなぎをどこも欲しがる。今がチャンスだ」
だが、本人に自覚はなさそうだ。仕事で高揚しているらしい。
「馬鹿共はエルメイア皇国との開戦を考えているようだが、そもそも余さえいれば戦争などせずとも勝てる話だ。神の娘もいる。お前という切り札も手に入った。やりようはいくらでも――」
「手を出しなさい」
「何?」
面倒になって、勝手に手を握った。案の定、冷たい。なのに転移をしてきたあたり、自覚のなさにもほどがある。
嘆息し、つないだ手と手を媒介して聖なる力を流しこむ。バアルは驚いた顔をしてされるがままになっていた。
やがて手の体温が上がり、顔色もよくなったところで、手を離す。
「……。ああ、そうか。お前は聖剣の持ち主だったな」
「何を今更。それを理由にわたくしを妃にしたのではないの」
「――気づかれるとは思わなかった」
最後の言葉と苦笑いに皮肉をのみこんだ。
「……きちんと眠ってらっしゃいます? 魔竜があなたを狙って夜に現れるという噂を聞きましたけれど」
「なんだ、余の閨が気になるか」
笑ってみせているが、ゲーム通りなら、夜は自分をのっとろうとする魔竜をおさえこむのに苦労しているはずだ。
(神剣がどこにあるかもわからないし、この状況で倒れられても困るわね……今アレスが王にでもなったら厄介だわ)
決めたら即行動が信条だ。本を持ったまま再度その手を取り、ぐいぐい引っ張って歩く。
「おい。なんだ。どこへ行く」
「いいから、こちらです。はい、ここに横になってください」
図書室から出てすぐの木陰に腰かけ、柔らかい芝生を手で叩く。バアルは首をかしげた。
「なぜ」
「寝ていないんでしょう。今は昼間だし、わたくしが横にいれば魔竜が暴れてもおさえられます。安心して眠ってくださいな」
「……お前を信じろと言うのか? 魔王の妻だというお前を」
「わたくしが魔竜を復活させたいなら、あなたに力をわけたりしないでしょう」
肩書きより行動を示しても、バアルは今ひとつ煮え切らない。
「それは……そう言われるとそうだが、お前が余を助ける理由がない」
「めんどくさい男ですわね」
「めんどくさいだと!? どこがめんどくさいのだ!」
そこがだと思ったが、面倒なので早々にアイリーンから折れてやる。
「わかりました、理由が欲しいなら作ります。あなたはエルメイア皇国に戦争をしかけないとおっしゃいました。それが理由です」
「しかける必要がないと言ったのだ。魔王は余に勝てぬ」
「でもあなたが止めてるんでしょう。アレス様もサーラ様も完全に開戦する気だもの」
サーラがすでに神の娘と呼ばれていて、神剣も持ち出されていて、魔竜復活の兆しもあって、なのにエルメイア皇国に攻めこんでこないのはこの男が王だからだ。
クロードの命を盾に脅迫したことは許さないが、そこは認めざるを得ない。
「だったらあなたよりましな王が出るまで味方になります」
「……アレスより余がましだと?」
「残念ながらそうなりますわね」
なんだか珍獣を見るような目で見返された。失礼である。
「なんですの、その顔」
「……いや。お前は……エルメイアに、こちらと戦う気はないと言うのか」
「開戦を回避するための話し合いの場に行こうとしてあなたに誘拐されたのです」
「なるほどな……」
深い嘆息の意味を感じ取れないほど、鈍くはないつもりだ。
「その様子だと、やはり何か裏にありそうですわね。ひょっとして、わたくしをここに連れてきたのはあなたにとっては手違いで、罠でもあるのでは?」
開戦ではなく外交を考えていたなら、皇太子妃の誘拐など企まない。企むとしたら、皇太子妃の誘拐でアシュメイル王国とエルメイア皇国を決定的に対立させたい誰かだろう。
「お前に話すと思うのか?」
「なら余計、寝なさい。倒れられたら迷惑です」
バアルは動かない。
ゆっくりと笑顔で拳を作って見せた。
「それとも一発お見舞いした方が早いかしら」
「お前……もう少し色気のある言い方はできぬのか」
「何故あなたに色気を見せなければならないの。蹴るわよ」
足も手も出るのかとかなんとかいいながらも、バアルがやっと芝生の上に座り、木陰の下で寝転んだ。だが、空を見たまま目をつぶろうとはしない。
「……。眠れぬ。子守歌でも歌え」
「子どもじゃあるまいし、甘えたことを言わないでさっさと寝てください」
「なんという情緒も遠慮もない女だ」
「なら遠慮なく言わせていただきますわね。あの女はやめた方がいいですわよ」
本を膝の上で開くついでで言うと、バアルがぎろりと視線を向けてきた。だが容赦なく事実を突きつけてやる。
「他の男の妻です」
「……お前に何がわかる。余がどんな思いで身を引いたか」
「わかりますわよ。わたくしも身を引いたことがありますから」
驚いた顔をされた。わりと自分の経歴は他国でも有名なのだが、この閉鎖的な国では伝わっていないのだろう。
「……身を……引いたのか。お前が?」
「ええ。自分を愛していない、振り向きもしない相手に尽くすのは時間の無駄ですもの。さっさと次を見つけることにしました」
「では今の余がさぞかし滑稽に見えるだろう」
同じ経験があると知った気安さからか、取り繕わずにバアルが自嘲してみせる。
「みっともないと笑ってもいいのだぞ。特別に許す」
「笑いませんわ、別に。それだけ本気だったのでしょう。それに――もしかしたらわたくしだってそうなっていたかもしれませんから」
もし前世の記憶だとか死亡フラグだとか、そういうものがなければ、必死でしがみつこうとしたかもしれなかった。それこそゲームどおりに。
「……笑わないのか。やめた方がいいと言うくせに」
「だって、やめられずにつらい思いをしているのはあなたでしょう」
息を呑む音は、聞こえないふりをした。
「……たまに嫉妬で狂いそうになる。何がだめだったのかと」
額に腕を押しつけて隠した顔をのぞきこむ趣味もない。
「皆がひそかに面白がり、笑っていることも知っている。アレスと余を比べてな」
聞いているということを示すためだけに相づちを返した。
「だが平気な顔をせねばならぬ。余は王だ」
それはきっとクロードも抱えるだろう孤独だ。それに対してアイリーンが返せる言葉は一つしかない。
「言ったでしょう。わたくしが味方になります」
「……。つくづく、おかしな女だな……」
「失礼ですわね」
「だが、強い女は好きだ」
「あなたに好かれても困ります」
渋面でそう言い捨てると、バアルが小さく笑い出した。
「つれないな。まあ、その方がすっきりする」
バアルが諦めきれないのは、サーラが思わせぶりだからだ。自覚しているかどうかわからないが、あの頼り方も無邪気さも、男に期待を抱かせてしまうのだろう。
(わたくしは完全に幻滅したものね)
難しいところだ。何か一つくらい優しい言葉でもかけてやろうかと横になったバアルを見たら、寝息を立てていた。眠ったらしい。
嘆息して、本に目を戻す。図書室から勝手に持ち出してしまったが、あとからでも貸出の手続きをしなければならない――と一番うしろにある貸出カードを何気なく見て、アイリーンは瞠目した。
持ち出した本は、エルメイア皇国の歴史と文化を詳細に書いた学術書だ。古語で、偽物だなんだともめる前に書かれたものだった。今とずいぶん違う内容だったが、その分、正確だ。
外交を考えるのならば、たとえ知識だけでも学んでおかねばならないことだ。
「……きっとあなたもまた、恋ができますわよ」
その本の貸出を受けた人間は、たった一人。ロクサネ・フスカである。




