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その女の足は湖の上に浮いていた。しかし、影はない。
リリアが肩をすくめた。
「ほんとに私とアイリーン様ってチートよね。神の娘になれたら楽なんだけど」
『――……の、子に』
かすれた声が風と一緒に届く。うつろな目をした女が、唇を動かすたびに湖が波立った。
『あの、子に。伝え――王、が』
「王?」
聖王のことか。顔をしかめてアイリーンは聞き返す。
(イベントだと、伝えてくるのは魔竜の復活や神剣のことのはず……)
『――くる。神剣では、勝てな……』
「……アイリーン様。台詞が違うわ」
『ああ……くる……ちかづいて、くる……!』
脅えたように女が頭を抱える。
風は不安を煽るように一層激しくなり、暴風になり始めていた。
その場に踏ん張りながら、アイリーンは声を張り上げる。
「何がくるっていうの!? 言いたいことがあるならはっきりおっしゃい!」
『魔王が』
びしっとアイリーンはその場で凍り付いた。
半狂乱になった女――先代の神の娘が叫ぶ。その言葉は予言に等しい。
『魔王がくる! あの子に伝えて、神剣を早く完全なものに……!』
「……」
『あああ、神よ……世界が滅ぶ……私たちを、どうかお守り下さい……!』
最後に祈るように両手を合わせて、女がふっと姿を消した。
途端、ぴたりと風も湖のさざめきもすべてが止まり、しんとした静寂が訪れた。
「………………」
「さすがね、魔王様。もうくるなんて」
「――イベントと内容が違ったわね! 魔竜のことに一切触れないなんて」
「魔王様がくるからでしょ? 魔竜と魔王なら、魔王の方が格上だもの。ああ、だから二度目の忠告にきたのね」
「あの子ってやっぱりサーラのことなのかしら?」
「いつくるのかしら。明日かしら、明後日かしら。ねえどう思う?」
「黙って!」
そう叫んでからアイリーンは頭を抱えて湖のほとりにうずくまった。
「もう居場所を突き止められたの……!? 早すぎるわ、まだ行方不明になって一週間もたってないのに!!」
「愛の力よ。私、この間からその点については魔王様を評価してるの」
「やめて、あなたに評価される愛が怖すぎる! とにかく神剣がまだ修繕前なのはわかったわ、クロード様がくるなら何を優先すれば――」
ぐにゃりと突然、視界がねじ曲がった。と思ったら、一瞬で湖が消えた。
そのかわり、時が巻き戻ったように、抜けたはずの林が目の前に現れる。レイチェル達と別れた場所だ。
イベントが終わったということだろう。釈然としない気持ちでアイリーンは立ち上がると、耳をつんざくような女性の悲鳴が届いた。リリアがきょとんとつぶやく。
「今のって、サーラ?」
「後宮にいないはずじゃ……とにかく行くわよ!」
走り出したアイリーンのうしろで、首をかしげながらリリアもついてくる。
「夜中に後宮でヒロインが襲われるって、幽霊イベントのあとにあるやつよね。でも幽霊イベントといい、もう終わってるはずでしょ? どうなってるのかしら」
「いいから走って! 魔竜だったらレイチェルやセレナが危険よ!」
悲鳴が届くだけあって、すぐに人影は見つかった。複数、しかも剣戟の音まで聞こえる。
「――レイチェル! 無事ね!?」
「は、はい。でもセレナ様とアレス様が……!」
サーラの肩を抱いたレイチェルが視線で示した先では、セレナが武器を持った男を蹴り飛ばしていた。その横では、アレスが当て身で別の男を気絶させている。
どの男も宦官の服を着ていることに、嫌な予感がした。
「まさか反乱でも起こったんじゃないでしょうね……?」
「ち、違います。皆さん、夜の灯りの番をしてらっしゃったんですが、突然、うなり声を上げて襲いかかってきたんです」
「……サーラ様はどうしてここに?」
「後宮の道に不慣れなアレス様の夜回りについてこられたそうです」
「夜は出歩かないとか言ってたくせに!?」
「ま、魔竜のしわざだわ」
レイチェルと同じ一歩下がった場所で、サーラが真っ青な顔でつぶやく。
「ほ、本当に人間を操れるなんて……私、どうしたら……アレス……!」
「あーもう、うっとうしい! なんなのこいつら、出てくるのは幽霊じゃなかったの!?」
殴っても白目を剥いたまま起き上がってくる男達に、セレナが苛立った声をあげる。
顔をあげたアイリーンは、地面に手をついた。この状況をなんとかする方が先だ。
(聖剣)
石畳の通路から、倒れている人間の足下へと意識を向ける。
人間に聖剣は通じない。だが表面にまとわりつく魔力を祓うことならできる。
地面から吹き上げるように風が踊ったのは一瞬。まるで薬でも盛られたように、ばたばたと宦官達が倒れ始めた。
アイリーンよりさらに一歩下がった位置で、リリアがつぶやく。
「さすがアイリーン様。相手が雑魚すぎるけど」
「アレス!」
突然静かになった現場を見回したアレスに、サーラが駆けよって抱きつく。
逆にセレナは汗を振り払ってアイリーンに振り返った。
「あんた、もっと早く助けなさいよ」
「わたくしを守るのがあなたの仕事でしょう。……何の前触れもなく突然この騒ぎ?」
「そう。でも一瞬、魔香のにおいがしたような気がするんだけど」
「魔香? ……まさか」
この国は魔香の製造者で管理者でもある教会と仲が悪いはずだ。
考えこんだアイリーンは、アレスの横に並ぶ。
「この襲撃、あなたに心当たりは?」
この男は、ゲーム通りならバアルから王位簒奪をもくろむ。
それをさぐるための質問に、アレスは淡々と答えた。
「あるわけがない。しかしこれでやっと後宮の警備が見直せるな。ロクサネも文句は言えまい」
「ロクサネ様?」
「ああ。後宮は自分の管轄だと俺の提案を突っぱねていたんだ。バアル様はバアル様でロクサネに必要以上に関わりたくないと注意もせず、手が打てなかった。しかし魔竜の襲撃を許したとなれば話は別、正妃としてあるまじき手落ちだ。もう俺の提案を無視できまい」
安堵に似た嘆息を落とし、アレスは剣を鞘におさめた。
「協力感謝する。あとは俺が引き受けよう。あなたはもうさがるといい。痛くもない腹をさぐられたくないだろう?」
「わたくし達は幽霊騒ぎの調査をしていたのよ。それで巻き込まれたのに、疑うつもり?」
「アイリーン妃。あなたの仕事はその聖なる力でサーラの盾になることだ」
アレスが静かにアイリーンを見下ろした。迷いのない目だった。
「上級妃だと勘違いなさらないことだ。ロクサネのように疑われたくなければな」
意味深なことを言うだけ言って、アレスはサーラの肩を抱き、倒れた宦官達を介抱するための人を呼ぶ。
にわかに騒がしくなってきた周囲を見て、レイチェルがそっと声をかけてきた。
「アイリーン様。ここは目立ちます」
「……そうね。ひとまず引きましょう。ひとつ、しかけておきたいこともあるし」
「なに、まだ何かあるの?」
「リリア様。あなたの策にのるわ」
リリアがぽかんとしたあと、にんまりと笑った。
「ふふ。私、アイリーン様がゲームを否定するくせにちゃんと利用するところ、好きよ」
「あくまで情報収集よ。……アレス様をまかせていいのかしら?」
「あら、誰に向かって言っているの?」
不気味なほど不敵に笑うリリアが頼もしく見える日がくるとは思わなかった。もちろん、完全に自由になどしないが。
「セレナはリリア様と一緒に動いて。特別手当を出すわ」
「――わかったわよ。ふっかけるから」
「レイチェルはわたくしと行動。いいわね」
「はい」
「急ぐわよ。時間がないわ」
きびすを返したアイリーンのうしろで、ぽんとリリアが軽く両手を打った。
「そうよね。魔王様がもうすぐくるんだもの」
そうだった。
一瞬で固まったアイリーンの背中を押すように、びゅおっとひときわ強い風が、夜空に向かって強く吹いた。




