15
砂漠の国の夜は寒い。
昼間とは違う厚手のケープに身をつつんで、アイリーンは夜空を見上げた。吐き出す息の色が白く、星をかすませる。
「なんで魔物が出ない国で幽霊が出るの? おかしくない?」
「幽霊は魔物じゃないからでしょう。細かいこと気にしてないで、レイチェルとセレナは右回り。わたくしとリリア様は左回りで巡回するわよ。何か見かけたら、どうにかしようと思う前に逃げるか叫び声を上げて知らせる。いいわね」
わかりましたと素直にレイチェルは頷き、セレナはぶつぶつ文句を言いながらそれに引きずられていく。それを見送ってから、アイリーンは二人の逆順路ではなく、目の前にある林に分け入っていった。
リリアはそれに反対することなく、嬉しそうについてくる。リリアもわかっているのだ。
これがイベントならば、幽霊が出てくるのは神水でできた湖とつながっている神域。実際イベントではヒロインはその場所へと誘われるのだが、最初から湖に行った方が早い。
「ねえ、アイリーン様。いると思う? 幽霊――先代の神の娘」
「それを今から確かめに行くんでしょう」
神水で満ちた湖は後宮から林を抜けた王宮の最奥にあり、真ん中のほこらに神剣が祀られている。だが神域なので、聖なる力を持っていなければたどり着く前に惑わされてしまう。湖にたどり着けるか否かが神の娘になる第一関門でもあるのだ。
(イベント自体は終わってるみたいだけれど……神剣があるかないかは確認できるわ)
そう思っていると、目の前が急に開けた。
砂漠にあるとは思えない、林に囲まれた広く澄んだ湖だ。鏡のように、星のきらめきと三日月を湖面に写している。
幽霊の姿はないが、拍子抜けした。
「あっさりたどり着いたわね……」
「そりゃそうよ。私とアイリーン様はいわゆるチート状態だもの。神剣を修復することはできなくても、聖なる力の強さが条件のイベントは全部こなせるでしょ」
「さっさと確かめるわよ。神剣があるかどうか」
湖の中央にほこらが浮かんでいる。そこに神剣がおさめてあるはずだ。
やたら明るい湖に向かって一歩踏み出すと、波紋が広がった。足をぬらすことなく、湖の上を歩く。すぐにほこらにたどり着くことができた。
聖石で作られたほこらの扉に手を当てる。
アイリーンの聖なる力を関知して光が聖石の隙間を走り、そのままほこらごと霧散して消えた。
そして最後にはぼろぼろの神剣だけが残る――はずなのだが。
「ないわね」
何も残らなかった湖の上を見て、アイリーンは嘆息する。うしろからそれを見ていたリリアがあごに人差し指を当てた。
「神域から神剣を持ち出すところまでは攻略してるってことね」
「――リリア様。非常に不本意だけれど、あなたの意見が聞きたいわ」
やたらと明るい湖の真ん中で、アイリーンはリリアに向き合う。
「今の状況。あなたはどう考えているの?」
「あら、ふふ。アイリーン様が私にゲームのことを話してくれるなんて、嬉しい」
煙に巻く気かと思ったが、答えはきちんと返ってきた。
「神の娘とは言われているけれど、サーラのパラメーターは足りてない。神剣が修復されてるかはあやしいわ」
単純かつ冷静な答えだ。アイリーンはため息を吐く。
「同意見よ。……彼女からそれだけの力を感じない」
「神剣を持ち出したから神の娘扱いされてるだけみたいね。でも恋愛面は攻略できてるみたいだから条件は整ってるはずだし、残りのイベントをこなせばいいだけでしょ」
「できると思うの? あの状況で」
ほんの小一時間ほど一緒にいただけだが、バアルとアレスの過保護ぶりがすごい。
神の娘の覚醒を促すイベントは、一見危険を伴うものが多い。なのに周囲があれではイベントに挑むこと自体、難しいだろう。何より本人からもそういう意思を感じない。
やり方はどうであれ、リリアもセレナも自分でなんとかしようとする行動力のあるヒロインだった。それがどんなに有り難いことだったかしみじみと感じ入っていると、そのヒロインがとんでもないことを言い出した。
「だったらアレスとバアルを攻略しちゃえばいいのよ、私とアイリーン様で」
「……は?」
「そうしたらあんなに過保護じゃなくなるはずよ。じゃ、アイリーン様はバアル様の妃だからそっちを担当して。私はアレスを略奪してくるわね!」
「ちょっと待ちなさい! わたくしはクロード様の妻よ、他の男性を攻略だなんて」
「できないの?」
とてもきらきらした瞳でリリアが迫ってきた。
「今だってヒロインにあんなに甘いんだもの。バアルを聖王のまま攻略したら、アイリーン様のお願いをなんだってかなえてくれるはず。魔王様だって助けられるわよ……?」
「そ、その手にはのらないわよ! クロード様がどんなに怒っ……いえ傷つくか!」
「えーつまらない」
ぷくっと頬を膨らませたリリアを横目でにらみつつ、両腕を組む。
「でもあなたの方針は正しいわ。あの二人、盲目的になりすぎているから少し目をさましてもらわないと。特にアレスの方は神の娘を過信してるからか妙に好戦的だし……このまま革命が成功してアレスが王になったら面倒だわ」
交渉の余地もなく、エルメイア皇国に攻めてきてクロードに神剣を向けるだろう。
「じゃあバアルに聖王のままでいてもらうよう調整する?」
「そうね……国を二つにわらないために身を引くくらいの分別はあるし、積極的に開戦したいわけでもなさそうだし」
開戦についてロクサネとアレスが対立した時も、最後にロクサネを止めただけでバアルはどちらの意見にも同意していない。
「だったらやっぱりバアルを攻略するしかないんじゃない? バアルルートだと魔竜にのっとられてもヒロインの愛の力が彼を守って、その身に魔竜を封印しようとした英雄扱いで聖王のままで終わるはずよ」
話が一周した。眉をひそめてうなったアイリーンは、やけくそで策をひねり出す。
「わかったわ……すでに正妃がいる相手よ。愛の力はロクサネ様にまかせましょう!」
口にすると意外と妙案な気がしてきた。だがリリアの目は冷たい。
「無理よ。ゲーム云々の前に完全にお互いを無視してるじゃない、あの夫婦」
「無視するということはそれだけ意識してるということよ。わたくしだって最初、クロード様に冷たくされたし……あら、わりといい案?」
「そうね、みんながみんなアイリーン様みたいに図太ければね」
「失礼ね、そこをなんとかするのよ! まったく……アレスもバアルもあんなにチョロいキャラだったかしら?」
「あら、アイリーン様。攻略キャラなんて全員あんなものよ」
くるりときびすを返し、リリアが湖のほとりに向けて歩き出した。その背中を追いながら、可能性を一つ提示する。
「サーラがわたくしやあなたと同じ前世の記憶を持って攻略している可能性はあるかしら?」
「それはないと思うわ。ヒロインだって自覚があったらこんな間抜けな状況、あり得ない」
「何故? そんなに今の状況は悪くないでしょう。アレスとは結婚できてるし」
「――ああ、アイリーン様は悪役令嬢だからわからないのかしら」
ざあっと風がふいて、湖に波紋が広がっていく。
「ヒロインなのよ? 必ず成功を約束された立場なの。それをむざむざ逃す理由がある? 私だったらさっさと魔竜を斃して革命を成功させて、この国の頂点に立ってるわ」
「……皆が皆、あなたみたいに野心だらけだと思わないけれど」
「野心がないなら、正妃より大きな顔をして我が物顔で後宮を練り歩き、夫と聖王をはべらすかしら?」
「無邪気なだけかもしれないわ。昔のあなたみたいにね」
リリアは軽やかな足取りでほとりにたどり着き、振り向いた。
「私、アイリーン様に給仕なんてさせたことはないはずよ。でもあのヒロインはずっと、悪役令嬢より自分が上に扱われて当然って態度だったじゃないの」
その態度が下級妃にも伝わっているから、おかしな上下関係ができあがっている。
「――そうね。今の点に関してはあなたが正しい」
「わかってくれて嬉しいわ。とりあえず今後は――」
途中でリリアが口をつぐんだ。
アイリーンも身構えて、湖の一点を見据える。
さきほどまでいた湖の真ん中、ほこらがあった場所だ。
そこに、陰のない女が佇んでいた。




