12
「……サーラ様が気になるならあなたも行けばよろしいでしょう」
雨のように細い声で、ロクサネがそう切り出した。こちらとは目も合わさない。
「ぼうっと突っ立っていられても目障りです」
「ですって。アイリーン様、行きましょ」
あからさまにわくわくした顔でリリアが先にきびすを返した。慌ててそのあとを追う。セレナもレイチェルも、顔を見合せた。
「でも行くってどこに」
「決まってるじゃない、後宮の厨房よ。こっちね」
「なんで知ってるのよ……ほんと頭おかしい……」
不気味がるセレナに秘密と答えて、リリアは先頭に立つ。迷いのない足取りにアイリーンも舌を巻いた。リリアはこのゲームも相当やりこんでいる。
だがゲームとの相違点が大きすぎる今、それが有り難いかもしれない。
そんな考えを、小鳥のように可憐な声が遮った。
「バアル様! すみません、こっちからうかがうはずだったのに」
後宮の下女達が頭を下げて作った道の先だ。下働きの人間しか立ち寄らない場所で、この国の王が笑っている。
「よい。どうせそなたは厨房に入り浸っているだろうと思っていた。人妻となっても相変わらず働き者だな、サーラ」
その名前に足を止めた。距離をとったまま、その名前で呼ばれた少女を見据える。
(サーラ! 出た、3のヒロイン……!)
日に透けて柔らかい薄桃に輝く髪が、肩の辺りで揺れる。菫色の大きな瞳を何度かまばたかせたあと、小さな唇にいらずらっぽい笑みを浮かべた。その手に持っているのは大きな鍋だった。もくもくと立ち上る湯気からいい匂いが漂ってくる。料理をしていたらしい。そう、確かサーラが後宮で一番最初に働くのは料理番としてだった。金糸雀色の長衣を揺らして、バアルに笑いかけている。
(ん? 服が金糸雀色? 後宮の下女の服は萌黄色って決まりのはず……)
よく見たらそもそも服の形も違う。いや、それ以前に――やっぱり人妻とか聞こえなかったか、今。
首をひねると、横の茂みから唐突にアレスが出てきた。
「サーラ! お前はまたこんな所に……っバアル様も宮殿でお待ちくださいと!」
「なんだアレス、またお前は迷子になっていたのか。遅いぞ」
「後宮は歩き慣れていないんです……!」
朗らかな笑い声と一緒にバアルが小麦色の肌をしたアレスに振り返る。わかりやすくサーラはぱっと顔を輝かせた。
「アレス! 見て、うまくできたの。皆に差し入れようと思って」
「お前はもう後宮の下女じゃないんだ、なのに厨房を使わせてもらったあげく、通り道のように使って……!」
「ご、ごめんなさい。だって宮殿の方よりこっちの方が迷わないんだもの」
「よいよい、アレス。余がサーラならいつでも後宮に戻っていいと許しているのだからな」
楽しげな会話に、アイリーン達が挟まる余地はない。
相変わらずね、という小さな声が耳に届いた。頭を垂れている下女達だ。
「バアル様はまだサーラ様に未練がおありなのね」
「アレス様への降嫁を許されたのに?」
「アレス様と女を取り合って争うとか、そんな真似できないからでしょ。アレス様はバアル様の従兄弟、王位継承権があるんだもの。国を真っ二つにしないために身を引かれたのよ」
時に女の噂話は何よりの情報源だ。それとゲームの知識をすりあわせ、整理していく。
「私はバアル様とアレス様がサーラ様を守るためにした策だって聞いたわ」
「そうねえ。アレス様はサーラ様が降嫁する時、バアル様に自分の婚約者だったロクサネ様を献上したけれど、本当はアレス様に夢中だったロクサネ様がサーラ様を害さないよう見張るためだってみんな言ってるもの」
「ロクサネ様はバアル様と取引したそうよ。正妃にしてくれればアレス様を略奪されたサーラ様への恨みを水に流すって」
アイリーンと同じように聞き耳を立てているセレナが、若干引き気味になる。
「うわ……泥沼じゃないの」
「そうみたいですね……よくある話といえばそうですけど……」
レイチェルが困った顔をしている。
確かに、女一人を男二人で取り合うのはよくある話だ。ゲームでも好感度によってはそういうイベントが起こったりする。だがアイリーンの意識はそこにはなかった。
(ちょっと待って。本当にサーラが結婚しているってことは――)
メインヒーローであるアレスのルートはいわゆる正規ルートだ。その彼と結婚しているということは、好感度マックスのエンディング、すなわち攻略は終わっていることになる。
(でもアレスルートのラスボスであるバアルは聖王のままよ。しかも悪役令嬢のロクサネは婚約破棄されただけで、処刑もされずバアルの正妃になってる――?)
魔竜復活という話を聞いていた時から、ゲームが始まっているにせよ後半にさしかかっているのはわかっていた。
だが、まさか終わってるなどということは考えてもみなかった。
「あら? バアル様。あの方達は……」
「ああ、新しい妃とその女官達だ」
「やっぱり! あなたがアイリーンさんね?」
サーラが笑顔で駆けよってくる。ヒロインらしい無邪気な態度だ。
「アレスから聞いているわ、聖具を壊したって!」
「サーラ。言っただろ、あの聖具はだいぶ古びてたんだ。壊れたのは偶然だ」
「わかってるわ。でも今、この国は魔竜に脅かされているだけじゃない。隣のエルメイア皇国は魔王に支配されてしまって……聖剣の乙女はあてにできないわ。でも、私の力だけじゃこの国を守れないかもしれない。みんなの協力がいるわ。だから力を貸して欲しいの」
眉一つ動かさず笑顔で聞いていると、ぎゅっと手を握られた。
「みんな私のことを神の娘って言うけど、様付けせずサーラって呼んで。仲良くしてね」
「……ええ、サーラ様」
あくまで様付けをするアイリーンに、サーラは目を丸くしたが、すぐにしかたないというように笑った。きっと遠慮しているとでも思ったのだろう。
いきましょう、とサーラが声をかけると、やれやれといった体でアレスが追いかけ、そのあとにバアルが続く。アイリーンの前を横切るその時、バアルが少し上半身を傾けてささやいた。
「サーラを傷つければその瞬間、お前の利用価値はなくなるぞ」
「わたくしに彼女を傷つける理由なんてありませんわ」
「神の娘は目障りだろう、聖剣の乙女。神剣は彼女の手にかかっている」
「あら、つまり神剣はまだ修復されていないのかしら?」
バアルがわずかに瞠目し、それからすぐに唇にだけ笑みを浮かべた。
「さてな。だが聡い女は嫌いではない」
うまく話をごまかして、バアルは立ち去る。肩から息を吐き出し、三人の背中を見た。バアルはサーラに無邪気に笑われて微笑んでいる。
(……馬鹿じゃないかしら。他人の妻に)
だが、恋に溺れた男についてはすでに経験済みなのだ。
「聖剣の乙女はあてにならないですって。過去作に対する敬意が感じられないわ」
リリアが横に並ぶ。かつてアイリーンに恋に狂った男がいかに馬鹿か、教えた女が。
「どうやら、サーラのパラメーターをさっさと上げて神剣横取りしてハイ終わりってわけにはいかないみたいね、アイリーン様?」
「いつものことよ。まさかあなた、怖じ気づいたの?」
「そんなことあるわけないじゃない。私はプレイヤーよ?」
「自信があるなら結構。いくわよ」
無知は罪だ。
神の娘は知らない間に、聖剣の乙女を二人、敵に回したのである。




