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闘技場で起こった想定外の出来事にバアルは目をまたたいたあと、ぽんと膝を打った。
「――呪われた指輪を持っていたあの女か! 面白くなってきたぞ、アレス」
「……この選別は悪趣味なうえ、ハウゼル女王国に失礼だと思いますが」
「ハウゼル女王国の女をそのまま後宮に入れてたまるか」
苦言を呈す臣下が渋面になるのはいつものことだ。聞き流しながら、バアルは頬杖を突き、観察する。
その女は剣を横になぎ払い、開いた隙間から聖具に呑みこまれかけていた女を引っ張り出していた。他の女を助けるたびに粘液がかかって服がぼろぼろになっていくのだが、そんなことお構いなしに他人を助け続けている。
助けられた女を集めて誘導している女もいた。非力そうだが、ふわふわとした髪を揺らし走り回っている。助けられた女に手を貸し肩を貸し、躊躇せずうごめく聖具のかけらを踏みつけていた。壁際に集まった女達の一番前で、最低限の動きで聖具を追い払っている女もいる。やる気があるようには見えないが、守っているのだろう――多分。
「今回は見込みがある女が多いな」
「……聖具を攻撃できているあの三人ですね」
「いや、四人だ。見ろ、あの女。この状況で笑っている」
バアルが指さした先にいる女を見て、アレスは眉をひそめた。
「恐怖で気が触れたのでは?」
「違うな。よく見てみろ。聖具があの女をよけている。――サーラ以上の逸材かもしれんな」
「あり得ません。ただの偶然でしょう」
「だとしても強運の持ち主だ。そういうのもありだろう。一番見込みがあるのは、聖具とやりあってるあの女か」
聖具の方もさすがに敵だと認識したのだろう。もはや選別は、聖具とその女の一対一の勝負になっていた。
この催しも既に数回目、今までにない展開に観客もわきあがっている。カモフラージュとはいえ下卑た観客達にうんざりしていたバアルも、今回ばかりは観客の興奮がわかった。
あの聖具の弱点は目だ。だがその目は、あの弾力のある体の一番奥に隠されている。剣が届くまで表面を削っていくとしても巨大だ。女の体力でどこまでできるか。
「どちらが勝つと思う、アレス」
「由緒正しい聖具です。壊せるわけがありません。サーラも鎮めるだけで、破壊には至りませんでした。――聖具を引く合図を出します。いつもならその時間ですから」
「待て。あの女がどうするか見たい」
「またそういうことを……いい加減、現実と向き合ってください。こちらには神剣もありサーラもいる。ハウゼル女王国に仲介ではなく支援を頼み、一刻も早く魔竜、その背後にいる魔王を討伐すべく、開戦すべきで」
アレスの進言が歓声に押し流された。
振り返ったアレスが目を見開き、バアルも口をあけて呆ける。
女が上からの見事な一閃で、真っ二つに聖具を切って捨てたのだ。とけるように聖具は上からくずれていき、最後に爆風を巻き上げる。
その爆風を真正面からあびながら、バアルは思わず笑い出してしまった。
「――勝ったぞあの女! 聖具を壊した! やるな、これは褒美を与えねば」
「バアル様!」
緊迫したアレスの呼びかけと一緒に剣がはじき合う音がすぐ近くで聞こえた。
闘技場から吹き上がる竜巻に乗ったのか、女がバアルの元までやってきて剣を突き出したのだ。それをアレスが弾き飛ばしたのである。
だが剣を失っても、女はまったく動じていなかった。それどころかつかつかと歩み寄ってきて、右手を振り上げる。それが振り下ろされるのを、あえてバアルは止めなかった。
ぱんと乾いた音がして、湧き上がっていた観客も静まりかえる。
「女性をあんな風に見世物にするなんて、悪趣味にもほどがあるでしょう」
「女。この御方はこの国の聖王で」
「とんだ愚王だわ! 後宮に入る女性はあなたの妻でしょう。本当に素晴らしい女性を妻にしたいなら、あなたがまずまともな王になりなさい!」
久しぶりの、まっとうな罵倒だった。
にぶい頬の痛みに薄く笑い、バアルは娘を見返す。瞳に怒りをたぎらせた娘は、バアルの視線から逃げず、さらに要求をつけくわえた。
「あと、わたくしの指輪を返して」
「……ああ、指輪か。あの呪われた。はて、どこへいったか」
「人から奪っておいて……!」
怒りに目を輝かせるその顔が美しい。笑みがこぼれる。
「――面白い。気に入った」
その一言に、周囲が固まった。女も眉をひそめてこちらを見ているが、些事だ。
「女、お前、名は確か――アイリーン。そう呼ばれていたな」
突然うろたえた女が視線を泳がせ、身を引く。それを追って立ち上がった。
聖具を倒すほどの聖なる力――高い聖力を持ち、膨大な魔力で呪われた指輪を持つ女。アイリーンという名前。条件にあてはまりそうな女に一人、心当たりがあった。
それは、聖剣を持ちながら魔王の妻になったという、隣国の皇太子妃。
(これはいいものを手に入れた。と言いたいところだが……どうしてこんなものが紛れこんだのだかな。そこまでして戦争がしたいか)
どこからしかけられた罠か、すぐに絞ることはできない。自分の周囲は敵だらけだ。
唯一心を許せそうだった女性は、別の男の妻になった。
笑い出したい気分で、バアルはアイリーンを見下ろす。
「決めたぞ。お前を妃にする」
「――は!?」
「バアル様! いくらハウゼル女王国の推薦でも、下女ではなくいきなり妃にするなど」
「異論はきかぬ。命令だ」
アレスがめまいをおこしたように額に手を当てている。
だがそれ以上に焦った様子で、女が叫んだ。
「お、お断り致します!」
「拒否権などあるわけがないだろう。余は王だ」
「――そう、指輪、指輪をご覧になったでしょう! わたくし、人妻ですのよ!!」
「なるほど、夫を愛しているか。ならば夫を殺されたくはなかろう?」
壁際まで追い詰めた女の顎をつかみ、吐息が触れるほどに引き寄せ、ささやく。
「安心しろ。今は余以外、誰もお前の正体に気づいておらぬ。この国の者共は、がっかりするほど他国の事情に疎くてな」
「……っな、なんの、お話ですの」
「アイリーン・ジャンヌ・エルメイア」
小さくその名を呼ぶと、女がぴたりと動きを止めた。この距離なら周囲に会話は聞こえない。
「何、悪い話ではないだろう。おとなしく我が妃になれ」
「な……なんの、ために」
「それを尋ねられる立場にないと自覚せよ。それともためすか? お前を人質にしたら、魔王がどう出るか」
息を呑む音に、バアルは含み笑いを浮かべる。
「だが、魔王が余に勝てると思うな。聖王である余の前では魔王とてただの人間、神剣があれば塵芥と変わらぬ。お前の夫を、余はなぶり殺せるのだ。さあ、お前はどうする?」
女のまなじりが吊りあがった。だが脅しは伝わったのだろう。黙って拳を震わせている。それは恭順の意味だ。魔王を殺されたくなければそうするしかない。
(それにしても、まさか魔王を本気で夫だと? この女、正気か?)
実はあの呪われた指輪の影響だったりしないか。その可能性に気をそらしかけた瞬間、みぞおちめがけて拳が飛んできた。咄嗟につかんだあとで、バアルは拳を叩きこもうとしてきた女の目を間近で見る。
怒りで静かに燃える蒼玉の瞳は、雄弁にその女の愛を物語っていた。
「わたくしの夫を塵芥扱いしたこと、必ず後悔させてやりますわ」
とても脅されているとは思えない気の強い台詞だ。
ぽかんとしたあとで、じわじわ高揚がわきあがる。傍目には睦言でも交わしているように見えるかもしれない――そう思うとますますおかしくなって、声を上げて笑った。
「バアル様?」
「なんでもない、アレス。――アイリーンに海の宮殿を与え、妃として後宮に勤めさせよ。この女はたった今から上級妃。余の寵姫だ」
バアルの命に、アレスを含めた全員が頭を垂れ、跪く。
新しい寵姫だけが頭を垂れない。そのことがひどく愉快だった。




