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「予定時刻より遅れております、皇太子殿下。私の計画に支障が出るのは困りますね」
馬車に乗りこもうとしたところでクロードは止まる。眼鏡を持ち上げ、神経質そうな顔の男は嫌味ったらしく続けた。
「もちろん、多少の狂いが出たところで困るような計画は立てておりませんが、視察が台無しになってはリリアが悲しむ」
「……そうだな、レスター。すまない」
「舞踏会ももうすぐです。皇太后からおすすめされているご令嬢の姿絵はもう確認されましたか?」
「……ああ。まだ選んではいないが……」
「さっさと選んでください。そもそも今のあなたに選択肢があるとでも? 今のあなたは何もできないお荷物のくせに――ああ、失言をお許しください、皇太子殿下」
わざとらしいレスターの謝罪に追従するように、幾人かが目配せして笑う。
知らず、クロードは拳を握っていた。こうして正面から馬鹿にされても黙っていなければならないのか。わからない。真偽を判断する記憶も力もない。
だから余計に周囲は笑う。魔王ではない自分など恐るるに足らず、お荷物だと。彼女だって隠し事をする。守るなどと言い出す。魔王の自分なら、こんな人間など塵にしてしまえるだけの力があっただろうに――はっとクロードは目をまたたく。
(……今、何を考えた、僕は)
ぞっとして、逃げ出すように馬車へと乗り込んだ。それを誰も心配したりなどしない。一人きりの狭い馬車の中できつく目を閉じて、窓に額を押し当てる。
魔王の自分だったらなどと考えてはいけない。それは振り返ってはいけない過去だ。
(……彼女を、遠ざけなければ)
彼女のことを気にかけ、知りたいと思うのは、過去につながる。その内思い出したいと思うようになるかもしれない。それは世界を滅ぼす未練だ。
馬車がきしむ音にクロードはまぶたを持ち上げる。乗りこんできたのはリリアだった。
「……セドリックはどうした?」
「それがセドリック、体調が悪いって……今日はもう城で休むそうです」
アイリーンと何かあったのだろうか。一瞬そう思ったが、すぐに思考を振り払い、正面の席に座るリリアに尋ねる。
「セドリックについていなくていいのか?」
「はい、クロード様についていてくれって頼まれちゃいました」
「婚約者でもない男女が二人きりというのは体裁が悪いと思うんだが」
「大丈夫ですよ、私とクロード様は義理の兄妹になるんですから! レスターもいいって言ってました!」
その名前に眉をしかめた瞬間、がたんと馬車が走り出して、出発してしまう。こうなるともうクロードに止めるすべはない。
「楽しみですね、クロード様!」
「……ああ、そうだな」
ため息まじりにふと窓の外に目をやる。やたらカラスが多いのが気になったが、唐突に馬にまたがったアイリーンの姿が飛び込んできて、小窓のカーテンを閉めた。
「広場にはおいしいパイが売ってるんです。セドリックのお土産に買って帰りましょう」
「……そうだな、そうしよう」
「……クロード様。その……つまらない、ですか? 私と二人きりじゃ……」
上の空で返事をしているのが伝わってしまったらしい。足を組み直し、できるだけ優しい声を出す。
「そうじゃない。色々気遣わせてしまって申し訳ないと思ってるんだ。舞踏会のことも……婚約者を選べと言われても何もわからなくて。頼りない自分がふがいない」
「何を言ってるんですか、クロード様」
リリアが真面目な顔をして、クロードの膝の上の拳に手を重ねてきた。眉をひそめたクロードに顔を近づけて、リリアが優しく言う。
「無理して何かしなくても、あなたはそのままで大丈夫です」
クロードは思わずその手をはねのけた。すぐしまったと思ったが、お忍びのために用意した馬車は乗り心地が悪く、がたがたと揺れるせいで安定しない。リリアははずみだと思ったらしく、なだめるようにその手をクロードの頬に移動させる。
「焦らなくても舞踏会だって――そうだ、私と踊りましょう? あとはクロード様はさぼっちゃえばいいんです」
「それはセドリックが怒るだろう。舞踏会で踊るのは意中の女性で――」
常識をたしなめようとしたクロードの台詞が馬車の揺れで遮られた。第三層にさしかかったせいで道が悪くなったのだろうか。だが馬のいななきと悲鳴が上がり、馬車が傾く。リリアが悲鳴を上げて抱きついてきた。クロードはそれを支えながら、傾いていく馬車の扉を蹴り飛ばした。風が入り込み、髪があおられる。
「う、う、嘘っ浮いてる!?」
「リリア、落ち着くんだ。一体何が……」
どすんどすんと、音を立てて地響きが鳴り、視界が揺れる。リリアをなだめながらクロードは身を乗り出す。そして絶句した。
目の前には空、そして眼下に見えるのは、魔物。民家ほどの大きさのある化け物が、自分達が乗った馬車を持ち上げて走っている。その周囲をカラスたちが飛び回っていた。
「な、ん……」
『戻レ、戻レ、オ前! ソレ、駄目!』
並んで空を飛びながらカラスが喋った。つまり魔物だ。魔物に囲まれているのだ。
震え上がったリリアが、クロードにしがみつく。
「ク、クロード様っ……私、怖い……!」
「待ちなさい、そこの魔物、止まるのよ! クロード様を返しなさい!」
はっとクロードは呼び止める声に視線を移す。魔物が走るうしろを、アイリーンが馬を蹴って追いかけてきていた。
「駄目なのよ! 今は駄目なの、おとなしくわたくしの言うことを聞いて!」
『ソウ! ソウ! 言ウコト聞ケ、オ前! 森、帰ル!』
『王』
馬車を持って走る化け物が、そう呼んだ。目を向けたクロードと視線を合わせ、その魔物は見た目よりずっとつたなく、つぶやく。
『助ケル。王、守ル』
自分のことだ。思わず胸を押さえた。その動作を見て、魔物が前を向く。
『人間、渡サナイ。王、悲シム』
「――アーモンド、そのまま広場に誘導しなさい! そこでつかまえる!」
『了解、了解! 第一部隊、左翼展開!』
『第二部隊、右翼ヨリ後方ヘ、我ニ続ケ!』
恐ろしく統率のとれた行動でカラスの群れが動く。ふとクロードは、魔物が走る足下に人影一つないことに気づいた。
(……まさか、彼女が指示を出したのか……!?)
かつらがとれたアイリーンは、長い髪をなびかせて馬を駆っている。そしてそのまま手綱を放し、立ち上がった。掲げた両手が輝く。
あれが聖剣だ。
その光に脅えたように魔物が加速して走り出す。追い立てているのだ。
瞠目したクロードは、美しいその輝きの背後で反射した人工的な光に気づく。鏃の先だ。まるで待ち構えたように、騎士団達が並んでこちらに矢を向けている。
気に入らない眼鏡の笑みが浮かんだのは幻影だろうか。
「駄目だ、撃つな! 僕とリリアは無事だから――ッ!」
お飾りの皇太子の命令など聞かない、誰も。
それを示すように、無数の矢が魔物めがけて放たれた。




