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ぎょっとしたクロードの反応を嘲笑うように、アイリーンと名乗った女が優雅に微笑んだ。
「あなたの婚約者ですわ、クロード様」
「よりによってこんな痴女が僕の婚約者……!?」
ぴくりとアイリーンが眉を動かすかたわらで、クロードは手を口元に当てめまいをこらえる。
信じたくない。どうりで危険人物扱いされるはずだ。かかわってはいけないと、咄嗟に人を呼ぶための呼び鈴を取ろうとする――が、その前に呼び鈴を取り上げられた。
「無粋でしてよ、クロード様。せっかく婚約者と二人きりなのに人を呼ぶなんて」
「も――申し訳ないが、僕は君と関わる気は一切ない」
「どうしてそんな冷たいことを仰いますの?」
「僕は魔王になど戻らない。皇太子が魔王など今まで一体、どれだけ国に、民に、家族に負担をかけてきたか――」
かつて自分は魔王だったらしい。さっぱり記憶はないが、そのせいで家族はばらばらになってしまったと、祖母から聞いた。当然だろう。国だってよく混乱せずにすんだと思う。
記憶も思い出もない、名前だけの婚約者がじっとこちらを見ていた。その澄んだサファイヤの瞳からそっと目をそらしてしまったのは、罪悪感だろうか。
「――助けてくれたリリア達の苦労を、なかったことにはしたくないんだ」
「クロード様……」
「もし、君が憎からず僕を思ってくれているなら、どうか婚約の破棄を受け入れて――」
穏便にすませるための言葉は、目の前の寝台にざっくり剣を突き刺されて止まった。
「……」
「聞き流して差し上げますわ。今のクロード様はいわば病気。わたくしはあなたを見捨てたりいたしません。あなたを愛していなければ、この場で切り落としてやりましたけれども」
笑っているが冗談に聞こえなくて怖い。いや、それよりも。
「愛している……と言ったか、今?」
「言いましたわよ。あなたは記憶がないうえに色々吹き込まれているようですが、わたくしはあなたを愛しています。でなければ命をかけて会いにきたりしませんわ」
「命?」
「あら、ご存じないの? わたくし、クロード様に会ったと知られたら首をはねられてしまいますの。皇帝の勅命に背いた罰で」
一拍おいてからぎょっとした。
「み、見つかったら処刑されるということか……!? 早く帰れ!」
いくら婚約破棄する予定とは言っても、死なれでもしたら寝覚めが悪すぎる。
焦るクロードをきょとんと見たあとで、のんきにアイリーンが笑い出した。
「わ、笑っている場合か!?」
「簡単に殺されたりしませんわ。あちらだってわたくしを殺すタイミングをちゃんと計っているはずです。しばらくは大丈夫ですわよ」
「何が大丈夫なんだ!? いいか、もう僕には二度と近づくんじゃない。以前はどういう関係だったか知らないが、僕だって迷惑だ!」
「……優しいところは同じですのね」
するりと、まるでそれが当たり前のように、アイリーンの腕が背中に回った。
「よかった。ご無事で。記憶なんてどうでもいいですわ。生きていてさえくだされば、何度だって口説けるんですもの」
いいにおいが鼻孔をくすぐった。
柔らかそうな金色の髪、細い肩。抱き締めるというほど力は強くなく、頼りない。無意識でその肩に触れて、はっと我に返った。
「は――離れろ」
ぐいと彼女の体を引き剥がし、口元に手を当てる。気恥ずかしさがこみ上げた。
「じょ……女性がうかつに、男性に抱きつくものじゃない」
「……はい?」
「だ、だから、もし君が僕を愛していたとしても、婚前に破廉恥な行為をするべきではない」
突然、額に手をあてて熱をはかられた。眉をひそめると、アイリーンが首をかしげる。
「……熱はありませんわね。クロード様、実は錯乱してらっしゃったりしません? 顔が赤いですし……」
「そ、それは君が不用意に僕に抱きつくからだ。君には恥じらいがないのか!」
にらんでも、アイリーンは珍獣でも見たような顔で放心している。その反応で青ざめた。
「ま、まさか魔王だった僕は、君になにか破廉恥な行いを……!?」
なんといっても魔王だ。だがアイリーンの方が、のろのろと首を横に振った。
「い、いえ……まだ口づけもしておりませんが……」
「そ、そうか……よかった。何かしていて婚約破棄はさすがに無責任だからな……」
ほっと胸をなでおろすと、がしっと両肩をつかまれた。
顔をあげると、鬼のような形相が鼻先まで迫ってくる。
「そ、そうですわよね……っ冷酷無比を気取る愛に飢えた孤独と悲哀漂う実は純情魔王、思い出しましたそんな設定でしたわ! 魔王っぽいところを削除したらこうなるんですのね、うかつでした。なんてこと……!」
なんのことか問い返したかったが、鬼気迫る相手の眼差しに呑まれて口が動かない。
「わたくしが主導権を握れる! 今すぐに! お持ち帰りしたい……!」
「こ、断る! も、もう君に話が通じないことも主導権を握られてはいけないことも、よくわかった……! 今すぐに帰ってくれ! 人を呼ぶぞ、本気で!」
「あら、そうしたら私は首と胴体がさようならですわね。そうなってもよろしいの?」
「どうして僕が脅されるんだ……!?」
まったく聞く耳をもたない彼女は再度抱きついてきた。柔らかい感触に悲鳴を飲みこむ。
「だ、だからそういうことはやめて欲しいとっ……!」
「どうしましょう楽しいですわ! まあまあお逃げにならないで、体が覚えているかもしれません。以前のクロード様はわたくしをこれ以上なく愛してくださいましたもの」
「さ、さっき何もなかったと君が言っただろう! 僕は何もしてないはずだ!」
「ぬけぬけと、ご自分の顔を鏡で見ておっしゃって」
「だからどうしてそこで顔なんだ!?」
「楽しんでおられるところ申し訳ないですが、もうそろそろ警備の巡回時間のようです、アイリーン様」
突然割り込んできた声に、ぎょっとした。
部屋の出入り口に立った黒いフードの青年らしき者が、苦笑い気味に告げる。
「あまり迫りすぎるのも、問題ですよ。クロード様がお気の毒かと」
ここまで手引きした彼女の仲間だろう。同情されてしまった。
「しょうがないわね。残念ですが今日はここまでですわ、クロード様。またきますわね」
「二度とこないで欲しい」
「またきます」
これは絶対くる。処刑がかかっていようと必ずだ。ぞっとした。
「あ、そうそう。ちょっと失礼しますわね」
「は? ――った、何をする!」
唐突に横髪を二、三本、ぶちっと引き抜かれた。驚くクロードに、笑顔が返ってくる。
「お土産ですの。大事にしますわね」
なんの土産なのかは怖くて聞けなかった。
「では帰りますわね。でもクロード様、最後に一つだけ。浮気はだめですわよ?」
「浮気?」
「どうせ新しい婚約者を選べとか言われてるんでしょう。他の女にうつつを抜かすなんて許さな――」
「君は馬鹿なのか?」
アイリーンがぱちりとまばたいた。
どこか子どもじみた仕草を、ついうっかり可愛いなどと思わないよう、にらみ返す。
「僕は今、皇太子としてやっていけるかどうかで手一杯だ。そんな余裕などな――ッ!?」
頬にちゅっと音を立てて唇が押し当てられた。真っ赤になったクロードは、ぱくぱくとあえぎながら言葉を絞り出す。
「な、何を……っ」
「それでこそわたくしの愛するクロード様ですわ。わたくし必ずあなたの心を射止めます。何度でも、ですわ。覚えてらして」
人差し指で胸をつき、勝ち気に微笑んだ女はきびすを返す。
「また会いにきますわね。待っていらして」
テラスへ従者を連れて向かった背中は、騎士服なせいか妙に男らしい。呆然としている間にその背は、ひらりとテラスを飛び越えてしまった。
もうここは二階だとか色々考えるのも疲れたクロードは、がっくりとうなだれる。
「なん……なんだ、彼女は……あれが僕の婚約者……!?」
何度でも必ず恋に落ちたら、それはただの運命ではないか。
(いや、それはない。絶対ない。たとえ、あ、愛しているというのが本当だとしても、あんなつつしみのない……)
ああ、でも頬に触れた唇は柔らかくて甘そうだった。ぼんやりそう思ってから真っ赤になったクロードは、頭から布団をかぶって寝台の上で丸くなる。
まだ自分は具合が悪いに違いない。




