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静かな森の城の廊下から窓の外を眺めていたアイザックは、名前を呼ばれて振り返った。
「なんだよ、アヒル戦隊ブルー」
「誰がアヒル戦隊だ誰がブルーだ! あの忌まわしい着ぐるみのことは、今すぐ記憶から抹消しろ。……アイリーンは?」
「魔王様のところに行った。エレファスとかいう魔道士つれて」
エレファスという名前の部分でゼームスは眉をひそめた。
「そうか……大丈夫なのか?」
「アイリーンの下僕生産能力に期待するしかないだろ。で、何だよ? わざわざ声かけてきたのって、それが用事じゃないだろ」
プライドが高すぎるところはあるが、理知的で冷静な人物だ。嘆息一つで話を切り替えてくれる。
アイザックにとってゼームスはとてもやりやすい仕事相手だった。
「貴様には言っておこうと思ってな。――魔王が魔王でなくなった瞬間の話だ」
「……それ、アイリーンにしない方がいい話か」
「ああ。魔物達はすべてあの感情を共有している。命令ととるかは魔物次第だろうが、それがどう転ぶかわからないし、あの女に知らせるのも気が引けてな。オーギュストとウォルトとカイルには、さきほど話した。キース殿にも」
妥当な情報共有だろう。それをアイリーン側の自分にのみ知らせることも、ゼームスの有能さを示している。
「なるほどね。で、何があったんだ」
「――魔王が消失する寸前、たたき起こされるような衝撃がきた。あれは魔王の叫びだ」
一息置いて、ゼームスは困ったように告げる。
「アイリーン、と」
「……は?」
「名前を呼び続けていた。奪われまいと」
――アイリーン、アイリーン、アイリーン。
その呼び声を想像して、どんな顔をしていいかわからなくなる。
「アイリーンのこと好きすぎだろ、魔王様……どんだけだよ」
「それには私もげんなりしているが、最後に――アイリーンを守れ、と」
それを命令ととるならば、魔物達はアイリーンを守る。命がけで。
だがアイリーンも守ろうとする。クロードのために、魔物を。
「うわ、めんどくせぇ……」
「だろう。人間がアイリーンを傷つけたら、魔物が魔王の命令にしたがって人間を襲いかねない。それをアイリーンが止めるわけだ」
「すっげぇめんどくせえ! あーひょっとして相談はピンクとイエローとブラック? 皇帝側やあの魔道士をどうするかっていう」
現在、アイリーンを物理的に傷つける可能性があるのはそのあたりの人物だ。それに対して、魔物を刺激することなくアイリーンを守る人間が必要になる。アイザックと同じ懸念を持っているのだろう、ゼームスは頷き返した。
「そうだ。ウォルトとカイルをうまく使え。あの二人を倒せる人間も魔物もそうそういないはずだ。オーギュストも話を通したから、うまく立ち回ると思う。まあオーギュストはオーギュストで調べ物があるようだが……」
「あー、例のオークション会場にいた女か?」
「今回の一件に関係があるかどうかはわからないが、オーギュストが気にかけているし、調べた方がいいだろう。魔香を持っていた女だしな。どうせその内、あいつにも皇帝なり皇太后なりから圧力がかかるはずだ。情報を集められる内に集めた方がいい」
まったくもって同感だった。時間経過とともに自分たちは動けなくなっていくだろう。
「スピード勝負だな……ちなみにお前は、皇帝たちはどう動くと思う?」
「まず勅命違反の証拠をにぎるかでっち上げる。そして時期を見計らってドートリシュ公爵家に対する切り札として使う。今は何をしようが、舞踏会まで無視を決めこむはずだ」
「だよな。……会いに行く以外にいい策がありゃよかったんだけどな」
「だが会わなければ始まらないだろう」
舞踏会で一目惚れなんて奇跡にアイリーンは頼らない。アイザックもそれはないと思う。
「こちらはクロード様が記憶を取り戻すか、あるいは記憶がなくてもアイリーンを選ぶ、そこにしか勝算はない。それまでできるだけこちらの損害をおさえるしかないだろうな」
「――結局、あの魔道士が何者でもやることは同じ、か」
アイザックの言葉に、ゼームスが声を潜めた。
「あの魔道士に関しては魔王が信を置いた以上、魔物達は一切疑わないと思っておけ。……アイリーンも性格的に信じ抜くだろう」
「だーよーなー……俺以外に疑う奴がいるだけましか。お前が半分人間でほんと助かる」
「……まさか、そんな風に言われる日がくるとはな」
ほんのわずかに、ゼームスが笑う。そのあとで、すぐに表情を引き締めた。
「いいか。アイリーンに言っても無駄だから、貴様に言う。もし何かあったら、魔物を切り捨てろ。魔王の不在が続けば、いずれ御しきれなくなる」
「……。それはまあ、必要ならやるけど。それをお前が言うか?」
「非常に腹立たしいことに、アイリーンを守れという魔王の言葉を魔物としての部分が受け取っているのでな。さからえない」
それは違うだろうなんて、無神経なことは口にしなかった。それととゼームスはどこまでも淡泊に続ける。
「クロード様は記憶を奪われまいと抵抗していた。どうやったかは知らないが、魔王の記憶と魔力を奪った奴がいる。それも覚えておいてくれ」
「ちなみにそれ、魔道士ができるもんなのか」
「魔王の記憶と魔力を奪うなど、どんな優秀な魔道士であってもできることではない。聖剣でもあれば別だが、聖剣はアイリーンが持っているんだろう」
では一体誰がどうやってと、ここで議論しても時間の無駄だ。そうかと頷いたアイザックに、ゼームスはきびすを返してしまう。
(……あーでもこれ、絶対に嫌な予感が当たるやつだな……ドニに急がせるか)
がりがりと後ろ首をかきながら廊下を進んでいくと、化粧箱を持ったレイチェルと鉢合わせた。しょっちゅう顔を合わせているのにレイチェルはアイザックを見た途端毎回うろたえるので、ついついそれを確認するせいで目が合う。そして目が合えば、挨拶せざるを得ない。
「よ、お疲れ。アイリーンはもう行ったか?」
「はっはい。男装して……」
「またか……相変わらず迷いもせず猪突猛進っつーか悩みがないっつーか……なんだよ?」
じっとレイチェルが自分をまばたきせずに見ているのに気づいて、アイザックはまばたく。
レイチェルはにこっと笑い返した。そこにいつもの狼狽はみじんもない。
「いいえ。アイリーン様の目の下の隈を上手に化粧で隠せてよかったと思いました」
息を呑んだ。レイチェルは穏やかにそれを見つめ返す。
「身近な女性の化粧が変わったことにも気づかないままでは、クロード様にいつまでたっても勝てませんよ」
では、とレイチェルは綺麗な辞儀をして、行ってしまった。
ものすごく一方的にやり込められた気分で、呆然とする。
「いや、そもそも勝とうとか思ったことねーよ……なんだあの言い方」
俺のこと好きなんじゃないのか、とは言えなかった。言えばすねてるみたいだ。
かわりに何気なく廊下の壁を蹴る。打ち所が悪かったせいが想像以上に痛くて悶えたが、その方がすねていると認めるよりましだった。




