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「――クロード様に会わせることはできないって、どういうことですの!?」
「アイリーン、皇帝陛下の前だ。わきまえなさい」
父親――この場合は宰相というべきだろうか。ルドルフの指摘に、アイリーンは立ち上がりかけていた膝を慌てて床につく。
うつむいた先には赤い絨毯。その先、階段を登った上の豪奢な椅子には、皇帝が座っている。
ピエール・ジャンヌ・エルメイア皇帝。クロードとセドリックの実父は、そのどちらとも似ていない顔立ちをしていた。だが厳格な顔つきと威厳は、エルメイア皇国という大国をおさめるにふさわしいものだ。
その皇帝直々への目通りがかなったのは、ルドルフに手回しを頼んだからだ。あるいは、皇帝にも一応、情けというものがあるからかもしれない。
「ドートリシュ公爵令嬢。そなたの立場は考慮したいと思っている」
「でしたら……!」
「だがこれは決定事項だ。余の息子、皇太子クロードは記憶も魔力も失い、魔王ではなくなった。これは、あれが本当に皇帝になるための、好機だ」
ぐっとアイリーンは唇をかみしめた。
(クロード様は優秀だわ。もし魔王ではなくただの人間だったら、何の苦もなく皇帝になっていたでしょう。でも……!)
彼は魔物を愛した。守ろうとした。人間に、家族に切り捨てられても、何も恨まず、ただ魔物達と穏やかにすごすことを選んだ。そんな人だから、尊敬した。
「魔物から切り離し、養生させる。人間としてやり直させるのだ。それが不服か?」
「では、魔物達はどうすればいいのです? クロード様を慕い、守ってきた魔物達は」
「――そなたはクロードをわざわざ魔王に戻そうというのか? 魔物への肩入れがすぎる」
「わ、わたくしは魔物に一方的に肩入れするつもりはございません! ただ、クロード様が魔王だったという事実を」
「それはそうかもしれない。だが、だからなんだ? 魔物共に息子を返せというのか」
なんの情もない言葉に、アイリーンは怒りを呑み込んだ。
(落ち着け、落ち着いて……! とにかくクロード様に会うのが先決よ)
昨夜未明、クロード・ジャンヌ・エルメイア皇太子が皇城の皇族住居区画で腹部を刺されたおれているのが発見された。凶器は不明で、犯人どころか侵入者の痕跡すらわからないが、傷は浅く、命に別状はなかった。
しかし、目を覚ましたクロードは、自分の名前も覚えていなかった。
アイリーンがルドルフを通じて知ったのはたったそれだけだ。
自分が皇城にあがり、話を聞いてくる。落ち着いてゼームスやキースに従うように――そう伝言してアーモンドは帰した。こういう非常事態に頼れる人間がいるのはありがたい。レイチェルに頼んで、アイザック達全員にも招集をかけてある。そしてルドルフに頼み込み、朝一での皇帝謁見の許可をもぎ取ったのだ。皆、自分の報告を待っている。
何もわかりませんでしたでは帰れない。
いや、わかっていることはあるのだけれど――それはあくまでゲームの話だ。
「皇帝陛下、よろしいですかな。父親としての疑問なのですが」
「なんだ、ルドルフ」
「私の娘や魔物達と接触することで、クロード皇太子殿下の記憶を刺激し、魔王に戻したくはない。故に皇帝の許可なく殿下と会うことは許さない――というのは、わかりました。ですが娘との婚約については今後、どのように?」
はっとアイリーンは顔を上げた。クロードとアイリーンの婚約は政治的な意味がある。ただでさえ、セドリックの横暴による婚約破棄でドートリシュ公爵家は一度恥をかいた。二度目の婚約破棄は、ドートリシュ公爵家を敵に回しかねない。
それをわかっているのだろう。皇帝も嘆息する。
「今すぐ破棄を言い渡す気はない。……時期と理由は最大限配慮しよう」
「待ってください、それは婚約を白紙にするということですか!?」
「アイリーン。何度も言わせるものではない。皇帝陛下の御前だ」
柔らかく、だが威圧感をもってルドルフが言い含める。宰相のはからいに満足したように、皇帝は大きく頷いた。
「そなたの気持ちはわかる。だが、クロードには記憶がないのだ。再考させる機会を与えたいというのは親心だ。人間になったならば、引く手あまただろうしな」
まるで魔王だったからアイリーンしか選ぶ対象がいなかったような言い方だ。
(しかもクロード様に会えないまま再考ですって!? 破棄させる気満々じゃないの……!)
ふむ、とルドルフは少し考えこむ仕草をした。
「ですが皇太子に婚約者がいないのはまずい。早急に対処が必要ですな」
「でしたらわたくしのままでいいでしょう、お父様!」
「アイリーン。僕はね、お前を甘やかす気はまったくないんだよ」
殺気立つ娘の視線に嬉しそうに頬を染めないで欲しい。
(お兄様達に言いつけるわ必ず……お母様にもよ! 喜ばれる気がするけど!)
それともアーモンドあたりに言いつけて頭をつるっぱげにしてやろうか。
「具体的に案はございますか? もしよろしければ、私から」
「それには及びませんよ、ドートリシュ宰相。妾に案があります」
しゃらん、と鈴のような声が響いた。軽い足音と上等な衣が、大理石の床をすべる。皇帝が目を丸くした。
「母上! お加減はよろしいのですか」
「今日はずいぶんいいのよ、ピエール。初めまして、あなたがアイリーンね?」
玉座に向かう道の途中で首をかたむけられ、慌ててアイリーンは頭を下げた。
「こ、皇太后陛下におかれましては、ご機嫌うるわしく」
「ふふ。若くてかわいらしいお嬢さんね。うらやましいわ」
ご冗談を、と言いたくなるのをこらえた。
(噂には聞いてたけど……この方がララ・ジャンヌ・エルメイア皇太后陛下……!)
齢六十を超える皇帝の実母が、少女のように微笑む。いや、ようなというのは正しくないかもしれない。その容貌は、瑞々しい少女そのものだ。
しみもしわもない白磁のような肌、ふっくらとした愛らしい唇。つややかな髪が、さらりさらりと歩くたびに流れる。東洋系の顔立ちに合わせているためか、衣装は簡素だ。だが精緻な刺繍とレースを組み合わせた最上級の絹が、ほっそりした肢体を際立たせている。
一見するとアイリーンよりも年下に見える皇太后は、軽やかな足取りで皇帝にのみ許された玉座をのぼり、そして息子よりも幼い顔で皆を睥睨した。
「妾主催で、一ヶ月後に舞踏会を開く予定があるの。招待状ももう出してあるわ。皇国中のご令嬢達が集まるでしょう。可愛い孫のお妃を選ぶには、いい機会だと思わなくて?」
「それはそれは、手回しがいい――いやまったく皇太后陛下の政治的手腕には毎度頭が下がります。その招待状が我が家に届いていないことも、偶然ではないのですかな?」
「まあ、きっと手違いね。でも今更招待状が届いても、そちらには迷惑でしょう?」
古狸と女狐の穏やかな笑い合いを、皇帝の咳払いが遮った。
「――これで問題はないな。今までご苦労だった、アイリーン・ローレン・ドートリシュ。思えば、お前があれを皇太子に引き戻したことも、運命だったのだろう」
「お待ちください、皇帝陛下! わたくしはまだクロード様の婚約者です!」
「思い出も記憶もなく、会ったこともない、ね」
紅を引いた唇で、皇太后が笑う。
「あの子のことは、妾もピエールもぞんぶんに気にかけましょう。セドリックとリリアも献身的に世話もしています。仲よくやっているようよ。異母兄弟とはいえ、皇族の仲がいいのは心強いこと。何も心配することはありません」
「せめて一度会わせてくださいませ! わたくしは本当にクロード様がご無事なのか、記憶喪失なのかも確認できていないのです。なのに……」
「お前、あの子を愛しているというのであれば、引くところではなくて? 見苦しい」
「お祖母様! ひどいことをアイリーン様におっしゃらないで!」
突然謁見の扉を開いて現れた二つの影に、ララが目を瞠る。
アイリーンは振り返り、顔をしかめた。
(出たわね……!)




