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この世界は、アイリーンが前世でプレイした乙女ゲームの世界だ。
などと正直に説明して信じる輩がいたら、まず医者に連れて行くべきである。それくらい滑稽な話だ。だからアイリーンはそのことを口にしない。たった一人、自分と同じ記憶を持つ相手をのぞいて。
(そもそも、こうして生きている以上、ここは現実だもの)
だがしかし、ゲームの設定は現実としていきている。前世の記憶を取り戻して以降、アイリーンは二度ほどそれを体験した。
アイリーンを悩ませるゲームの名前は『聖と魔と乙女のレガリア』。大雑把な設定とストーリーのわりに、声と絵の力で人気を博したシリーズだった。本編としてナンバリングされているものと、それらのFD。移植にリメイク、前世のアイリーンが死んだあとにも発売日があった気がする。
その中の元祖となる1の悪役令嬢にアイリーンは生まれ変わった。ゲームどおりの時間軸であればもう死んでいるキャラだ。だがアイリーンは、自分の死因になる1のラスボス魔王クロードを攻略することでその運命を回避した。まるでクロードとの間に愛がないかのような説明になってしまうが、そんなことはない。
現実はこうだ。
「色々熟考した結果、僕達の間にはもはや言葉などという無粋なものは必要ない、という結論に達した」
魔王の執務室、足を投げ出して横になれる長椅子にアイリーンを押し倒したクロードが、優しい微笑を浮かべている。そしてアイリーンは、その胸を両手で押し返していた。
「ク、クロード様。わたくしはお互いの理解のため話し合いは必要だと思います」
「話し合いより理解が深まる愛の手段がこの世には存在する」
「お、怒ってらっしゃるんですよね、わかりました! わたくしが悪かったですわ。クロード様にお知らせする時間がなかっただけで――」
「時間がなかった? ゼームス? お前が僕に報告した内容は?」
「王に知らせるべきと具申しましたが、黙っていろとアイリーン様に脅されました」
「ゼームス、裏切ったわね! クロード様に知らせたのはあなたでしょう!」
怒りにまかせて起き上がろうとしたが、クロードに上から押さえこまれた。
その力は決して強くなく、乱暴でもなく、何もかもが優しい。
「僕が君をどんなに大事にしているか、体でわかってもらいたいと思う」
ただ目が笑っていないだけで。
「こ、こここ婚姻前です! そもそもこんなところで節操がなさすぎます!」
「さっき寝室に誘ったら拒んだのは君じゃないか。ならここしかない」
「ひ、人前です! オーギュストもゼームスもウォルトもカイルもアイザックまでいるんですのよ! 上に立つ者としての威厳をお考えになってください!」
「わかった、全員さがらせよう」
「それもだめです、待ってくださ――ひっ!」
がぷ、と耳朶を噛まれた。一気に赤くなった耳に、クロードがささやく。
「さあ、まずは人前に出られない体にしてしまおうか」
心の内で絶叫したアイリーンは、ばたばた足を暴れさせながら恋人の怒りを鎮める策を提案する。
「ひっ……膝枕をしますから、クロード様!」
「灯りは消そうか。それともつけたまま?」
「ひ、膝枕だけではなくいってらっしゃいのキスもおつけします!」
「つけたままか。大胆な君もいい」
「まだ駄目なんですか!? で、ではお忍びでピクニックはいかがでしょう。クロード様、お忍びお好きでしょう? この間は忙しいと断ってしまいましたし……っ」
「そういえばそうだった。野外も僕は大歓迎だ」
「ちがっ……わ、わかりました、クロード様を一日中見つめる日を作ります!」
アイリーンの胸元のリボンをくわえたクロードが止まった。慌ててアイリーンはクロードの下から抜け出す。そのはずみでリボンがほどけてしまったが、かまってなどいられない。逆転の好機を逃してしまう。
「一日中、クロード様だけを見つめます。最近お仕事でゆっくりできませんでしたもの」
「……」
クロードが起き上がり、艶っぽく黒髪をはらって、考えこむ仕草をする。
アイリーンは必死でまくし立てた。
「その日は仕事も何もせず、ただクロード様のおそばにいますわ。他のものに目を向けたりなどいたしません」
「――もし、僕以外のものに目を向けたら?」
「えっ」
止まった瞬間にクロードがこちらを向いたので、アイリーンは拳を握った。
「そ、その時は罰として、クロード様にキスをしますわ! 頬とか額とか、唇以外で!」
「……。それを君は約束できるのか?」
「約束します! 決して裏切ったりしません」
「……ならいいだろう」
ほっとしたのもつかの間、クロードの唇に深い笑みが浮かんだ。
「恥ずかしがって目をそらし、言われるがままに口づけをする君はさぞ可愛いだろうな。とてもとても楽しみだ。泣こうがわめこうが、逃がしはしない」
「詰んだな……」
アイザックのつぶやきが聞こえたが、その日がくるまで深く考えないことにした。許されたのだからそれでいいと割り切り、急いでリボンを結び直して、しゃんと背筋を伸ばす。
「それよりクロード様、ご報告がありますの」
「まだ他にも何かしていたのか? 事と次第によっては続きを再開する」
「違います何もしてません! クロード様に目通りを願われただけで……一応聞きますけれども、お知り合いではありません……わよね?」
そう言ってアイリーンは、執務室の中央に立っている黒フードの青年を改めて見た。
足を組み替えたクロードが、首を横に振る。
「初対面だ。……また珍しいものを拾ってきたものだ。魔道士だな。名は?」
「エレファス・レヴィと申します。クロード・ジャンヌ・エルメイア皇太子殿下」
闇オークションの会場から強制転移で魔王の執務室に移動させられたにもかかわらず、エレファスは落ち着いた様子で恭しく一礼した。




