ヒーローの攻略法
代々の皇帝たちの姿絵がずらりと並ぶ回廊を歩いていたセドリック・ジャンヌ・エルメイア第二皇子は、前方からやってくる足音に、足を止めた。
等間隔で並ぶ大きな窓から日差しが差し込む広く長い廊下は、奥の方が陰っていて見えない。だが、ここは皇族のみが出入りを許される皇城の一画だ。愛しい婚約者も友人も足を踏み入れることが許されないこの廊下で、行き違う人物など限られている。
「――セドリックか」
こつ、こつ、と規則正しく響いてこちらに向かってくる足音が、二つ先の窓の陰のところで止まった。
「……兄上。珍しいですね。こんなところにおいでとは」
沈んだ気分を無理矢理持ち上げたくて、そう皮肉った。
皇族の住まいであるこの区画を歩けるのはたったの四人。自分と、皇帝であるその父親、祖母である皇太后、そしてこの異母兄だ。だがこの兄は皇太子に戻ってもこの区画には住まず、うらぶれた森の旧城ですごしている。そのことを父親はひどく気にしていた。
兄は、もう家族を許してはくれないのだろうか、と。
(馬鹿馬鹿しい)
セドリックは父親が嫌いだ。こんなに優秀なのにと嘆きながら魔王だから仕方ないと、異母兄を隠し通すことも守ることもできず、ただ周囲と皇太后に流され結局捨てた皇帝。お前が生まれてくれて助かったと兄を見捨てる理由にセドリックを使っておきながら、なのに兄ほど優秀でないことにひそかにため息を落とす、自分勝手な父親。
あの父親は、自分が兄を捨てたのではなく、兄に自分が切り捨てられたと気づきもしない。
「やっとこちらに戻られる気になったんですか? あの森のおんぼろ城を出て」
「いや、皇太后からの呼び出しだ」
「お祖母様から? これはこれは、新しい毒でも手に入ったのかもしれませんね」
祖母も嫌いだ。
妾がお前を皇帝にしてあげます。なんにも心配しなくていいのよ。そう妖魔のようにささやく理由はただ一つ。異母兄ではないから、それだけだ。セドリックはただのお人形。そのくせ兄に執着している。憎らしいあの女の子どもだと、女の争いはどこまでも醜い。
「ご愁傷様です。せいぜい殺されないようにしてください、兄上」
「すまない。僕はいつもお前に心配ばかりかけているな」
「心配? 相変わらずのんびりした御方だ。俺達は皇帝になるため争っているんですよ」
「争っているのは僕とお前ではないだろう?」
――兄、は。腹違いの異母兄のことは。
そっとセドリックは視線を斜め下に落として、吐き捨てた。
「俺と兄上ですよ。俺は皇帝になる」
「婚約者のためにか?」
「そうですよ」
誰も自分を見てくれる人間などいない。皇太子という兄代わりの役を押しつけただけ。でも努力し結果を出せばいつかは理解される、そう思ってずっと『いい皇太子』を演じてきた。本当の自分をくすぶらせながら。
そんな自分をすくい上げてくれたのはリリアだ。そのリリアが、望むなら。
「兄上だって、アイリーンがそう願うから、皇帝になるんでしょう」
かつての婚約者であるアイリーンは皇妃になりたい女だった。だから今度は自分から兄に乗り換えたのだ。それだけだ。慕っていたなんて言われても、届かなければ意味がない。
唇を噛むセドリックに向けて、兄がこつこつと音を立てて近づいてきた。日差しの下に、人間離れした魔性の美貌がさらされる。ほとんど表情が動かないのは、兄の感情が周囲の気象を変えてしまうからだ。事情が分からぬ者が見れば、感情がないのかと思うだろう。
だが、ちゃんと見ればわかるのだ。ほんのわずかに優しく浮かべる微笑とか。
「お前は本当に、意地っ張りだな。どうしたらいいのかわからないのならば、素直に相談すればいい。僕はお前の兄だ」
「……妙に嬉しそうな顔するのやめてもらえますか。今更、何をえらそうに」
「では一つだけ、忠告しておく。女の言いなりになるだけの男は、すぐ飽きられる」
何もかも見透かしたような言葉に顔を上げたが、視界は大きな掌の陰に遮られた。
頭を一度軽くなでられ、瞠目したあとでその手を振り払う。無言で睨めつけると、兄が今度ははっきりと笑う。
「明日の皇太后主催の夜会にはアイリーンもつれていく。悪さをしないように」
その時よぎったのは、リリアの言葉だった。
――セドリックは、アイリーン様を好きなんじゃないの?
「――兄上! リリアが何かたくらんでいる」
三歩ほど先に進んだところで、クロードが振り返った。
「気をつけた方がいい。……俺に言えるのは、それだけだ」
兄からの視線がいたたまれず、セドリックは早足で前に進む。奥歯をかみしめて、決して振り返らない。
皇族用の住居区画を出たところで、幼なじみのマークスが待っていた。
「どうだった、皇太后との謁見は」
「変わらず俺を皇帝に推してくださるそうだ。父上が勝手に兄上を皇太子に戻したことにご立腹のようで、もう根回しはすんでいるらしい。リリアにはあとでドレスを贈ると言っていた」
「なら安心だな。これで魔王側についている有力貴族はドートリシュ公爵家だけだ。まあ、そこが厄介なんだが……」
「……俺はアイリーンと結婚していたら、すんなり皇帝になれたのだろうな」
「まさかお前、今更未練があるとでも? アイリーンに?」
顔をしかめたマークスを、セドリックは冷静に見返した。
「ただの事実だ。ドートリシュ公爵家を敵に回すやり方は、悪手だった」
「何を言い出すんだ。アイリーンの後始末にはお前も俺もうんざりしてたじゃないか。幼なじみとはいえ、限度はある。周囲のことを考えず言いたい放題、やりたい放題で……」
そうだ。自分もマークスも、反省もしないあの傲慢な態度にげんなりしていた。ドートリシュ公爵家の強大な権力がいっそう拡大することに懸念もあった。
でも、アイリーンは妹みたいなものだからしょうがない――そう思っていたときだって、確かにあったのに。
「俺にはいいが、他の連中の前で言うと誤解されるぞ。そういう不用心な発言は控えろ。何より、リリアを不安にさせる。少し前にアイリーンが好きなのかと疑われていたじゃないか」
「……ああ、そうだったな」
しっかりしろと言って、マークスは先に進み出した。リリア達が待っているらしい。
最近、リリアの周囲には人が増えた。婚約者である自分がしっかりしなければ、あっという間に誰かにリリアをかっさらわれてしまうだろう。マークスはそれを心配してくれている。
(……リリアを不安にさせる、だと?)
アイリーンを好きなのかと言い出したリリアに、最初は自分も何か不安にさせてしまったのかと思った。だから何を言い出すんだリリア――そう、不安を取り除いてやろうとした。
なのにリリアはがっかりした顔をした。
つまらない男とでも言いたげな目でセドリックを見たあとで、そうよねと嘲笑った。
――女の言いなりになるだけの男は、いずれ飽きられる。
ゆっくりとセドリックは拳を隠れて握る。そうして、愛しい婚約者の顔を見た。
「セドリック、おかえりなさい。皇太后様、お元気だった?」
そう彼女は笑う。
彼女の言いなりになるだけの男達を、いつも通り、嘲笑い続ける。




