56.アルバイトの報告【咲良視点】
咲良は目を覚ますと、いつもと違う部屋の様子に驚いて飛び起きた。
(そうだ、実家へ帰って来たのだった)
もうすっかり学生寮に馴染んだ咲良にとって、懐かしいはずの実家も、妙によそよそしい。それでも、しばらくこちらで過ごすうちに馴染んでしまうのだろう。
昨日、保護者会が終わった両親と共に自家用車で帰省した咲良は、車の中での両親、特に母親の雰囲気を思い出し、少々げんなりとした。その前夜に共に食事をした時の両親は、機嫌が良く穏やかな雰囲気だったのに、一日経った車の中はとても残念な雰囲気だったのだ。
昨日の自宅へと帰る車の中で、咲良はその日開催された保護者会の話題を出した。
「お父さんはね、27年ぶりに大学の同級生と再会できて嬉しかったみたいよ。特にマドンナと会えたから」
真っ先に答えた母親の言葉と雰囲気に、咲良は驚いた。
「いやいや、俺は交流会で卒業後音信不通になっていた学生寮の仲間の一人と再会できた事がとても嬉しかったんだ。マドンナはその友人と結婚していたんだよ」
父親は焦ったように言い訳するが、ますます母の不機嫌を煽っているようだ。しかし、咲良は両親の話に出てきたマドンナと言う言葉に引っかかった。
「ええっ! 入学式の時に話していた皆の憧れのマドンナ?」
「そうそう、憧れのマドンナに会えて、お父さん鼻の下伸ばしていたのよ」
咲良の問い掛けに答えたのは、又もや不穏な空気をまとう母親だった。これは触れてはいけない話題だと気付いた咲良は「そうなんだ」と一言返すと、その後は後部座席で寝たフリをした。そしてそのまま自宅に着くまで爆睡してしまったのだ。
(お母さんでもやきもちとか焼くんだ)
咲良から見た両親は、普通に仲の良い両親だと思う。それでも咲良の前では、父母と言う立場が前面に出ているので、二人の間に男女間の恋愛的な感情の有無なんて考えたことも無かった。
咲良が初めて父親からマドンナの話を聞いた時も母親はニコニコとその話を聞いていたのにと、昨夜の母親の言動と比べて、ゲンナリとしたのだ。
思い出の中の憧れの人の話なら許せても、現実に目の前に現れた憧れの人は許せないのか。
母親の心理に思いを馳せ、自分だったらと考えてみる。
例えばそれは、王子の元カノの神埼茉莉江に会ってしまうようなものか。
高校時代は遠くから見つめているだけだったから、王子と茉莉江は理想的なカップルで、焼きもちを焼く事すらおこがましいと思っていた。
でも今は?
ここまで考えて、咲良はハッと我に返り、自分の中に生れた不穏な考えを全否定した。
(いやいやいや、無いでしょ。私達は仮のお付き合いなのに、本当の恋人のように焼きもちを焼くなんて)
それにしても、と咲良はもう一度両親の事へと頭を戻す。あの雰囲気の両親に、アルバイトの話をしていいものか。一応両親からお小遣いを頂いている手前、急に出費が多くなると気付かれてしまうだろう。母親は案外目ざといものだ。夏休みは自宅にいるから、常に母親の目はあると思った方がいい。
それに、夏休みはお出かけも多いから、洋服も買いたい。せっかく手にしたアルバイト代を気持ちよく遣いたい。
咲良は思案の末、とりあえず服を着替え階下のリビングダイニングへと向かった。恐る恐るドアを開けると、中から楽しそうな声が聞こえ、少々緊張気味だった咲良は拍子抜けした。
「おはよう」
挨拶の声をかけると、朝食を食べていた二人がこちらに笑顔を向けた。
「おはよう、咲良」
両親の穏やかな笑顔を見た咲良は、自分が考えすぎだった事を心の中で反省した。
ちょっと鼻の下を伸ばした父に、母はわざと嫌味を言ったのだろう。今年銀婚式を迎える二人には、こんな事では揺るがない絆があるのだ。
咲良は安心したように微笑み返すと、アルバイトの事を話そうと決めた。
「お父さん、今日仕事だよね? 出かけるまで、まだ時間ある?」
「ん? どうした? 何かあるのか?」
「ちょっと話したい事があるの。いいかな?」
「10分ぐらいなら大丈夫だけど、今じゃないとダメなのか?」
「咲良、お父さんが帰ってきてからじゃダメなの?」
朝の忙しい時間帯に突然言い出した咲良に、母親は戸惑いながら口を挟んだ。しかし、いろいろ訊かれたくない咲良は、短い時間に一方的に報告する方が良いと判断した。
「すぐ済むから……」
先延ばしして、いつまでも話すタイミングを計るのは苦手な咲良は、結局早く済ませたかったのだ。
ダイニングテーブルの母親の隣の椅子に座った咲良は、父親を真っ直ぐに見た。
「あのね、事後報告になるけど、私アルバイトをしているの」
「ええっ、咲良。あなたそんな事、一言も言っていなかったじゃないの」
驚いた母親が真っ先に口を挟んだ。
「良いじゃないか。もう大学生なんだから、アルバイトぐらい皆しているだろう? それで、どんなアルバイトをしているんだ?」
母親と同じように最初は驚いた顔をした父親は、すぐにニコリと笑って賛同した。そして、やはりアルバイトの内容について説明しないといけないのかと、咲良は覚悟を決めた。
「あのね、飯島先生の資料の整理のアルバイトなの」
「飯島先生? って……まさか、飯島彼方の事か?!」
父親は、最初首を傾げていたが、思い当たると驚きの表情で声を上げた。
「え? ええっ? 飯島彼方って、あの若くて、イケメンの、保護者会で講演した、作家の先生?!!」
母親は驚きながら興奮したように叫ぶ。
「そう、作家の飯島先生」
「さ、咲良、どうしてそんな大先生の資料の整理なんかする事になったんだ?」
父親の問いかけに、さて、どこまで話せば良いものかと咲良は思案する。
「先生の大ファンだって言ったら、資料の整理をお願いできないかって……。あっ、もう一人一緒にアルバイトをしている人がいるんだよ。だから、大丈夫」
何が大丈夫なんだと、言ってしまった後で咲良は自分に突っ込む。しかし、アルバイトの初日に王子に言われた事を思い出したのだ。
『いくら憧れの作家に資料の整理を頼まれたのだとしても、男性のマンションへ一人で来る事に戸惑いを感じなかったの?』
『やはり女性は男性と二人きりになる時は、常に危機意識を持っていないとダメだよ』
独身男性である飯島の元でアルバイトをする事を、親はどう思うのか。
それも、同級生男子と二人きりで……。
(この部分は絶対に言えないけど……)
「そ、そうか。良かったな。頑張ってQ大へ入った甲斐があったな」
父親は戸惑いながらも、喜んでくれているようだ。
「アルバイトって、場所は大学内?」
母親は少し思案した後、具体的な詮索を始めた。
「ううん、先生の作家の方の仕事場」
「仕事場って、自宅なの?」
「ううん、自宅は別みたい」
「じゃあ、マンションか何か?」
「そう、だけど……いつも先生は仕事部屋にこもりきりで、私達は資料部屋で仕事をしているの」
「先生って、まだ若そうだし、独身よね? そんな所へ出入りして、大学で問題にならない? 大丈夫なの?」
「一応、贔屓していると思われるといけないから、内緒にしておいてくれって言われているけど……。それより、お父さん、出かける時間じゃないの?」
咲良は母親の突っ込みから逃れたくて話を変えた。戸惑い顔で妻と娘のやり取りを見ていた父親は、咲良の言葉に我に返った。
「そ、そうだ。もう時間だから行くよ。話の続きは又帰ってきてからにしよう」
「話はこれだけだから、気にせず会社へ行って来て、お父さん」
咲良は報告完了とばかりに、笑顔で父親を送り出す。
「まあ、今は時間がないから仕方ないわね。あなた、急がなくちゃ」
母親は小さく溜息をつくと、夫を送り出すために立ち上がった。
「それで、飯島先生は近くで見てもイケメンなの?」
咲良と母親は玄関で父親を見送った後、もう一度ダイニングへ戻ると、母親がニンマリとして尋ねた。
先程の話しの続きを問い詰められたらどう逃れようかと思案していた咲良は、母親の問いかけに、ガクリと脱力した。
「なあに? お母さん。訊く所、そこ?」
「良いじゃないの。こんな地方ではお目にかかれない程のイケメンだもの。さすが都会ね」
「私なんて、飯島彼方があんなに若くて、おまけにイケメンなんて、イメージ狂っちゃったわよ」
咲良は母親の言い分に呆れたように溜息を吐くと、入学してすぐに飯島の外見の真実を聞かされた時のショックを思い出し、ぼやいた。
「ええっ?! 咲良はどんなイメージを持っていたの?」
「ん……落ち着いていて、真面目な雰囲気で、優しいおじ様って感じかな? ほら、高校の時の校長先生みたいな感じ……」
咲良の言葉に、母親は校長の顔を思い出したのか、「ああ」と言うと、「咲良って意外と渋好みなのね」と付け加えた。
咲良は不本意な母親の感想に、内心ガッカリしたのだった。
何とかアルバイト報告を終えた咲良が、兄への口止めを忘れた事に気付いたのは、母親もパートに出かけ、自宅に一人きりになった頃だった。
(やっぱり夜にもう一回、アルバイトの話をしないといけないのか……)
下手な事を口走るのを恐れ、朝の報告でアルバイトの件は終わりにしたかった咲良は、大きく溜息を吐き、自分の間抜けさに呆れた。




