6月29日(火) 慣性の法則、あるいは惰性の法則
翌日の放課後は、椿が部活でいなかったため、姫川と2人で自習だった。
「柊くん、ちょっと良いかな」
姫川は先日のゴタゴタ以来「柊くん」呼びが気に入ってしまったようだ。柊にも「薫子」と呼ぶよう提案してきたが、丁重にお断り申し上げた。
「運動方程式って加速度は出てくるけど速度は出てこないよね。力と速さって関係ないの?」
少し的を外してはいるが、答える価値のある質問だ。得てして良い質問とは、真理を突いた質問ではなく、自分が何が分かっていないのかをはっきりさせた質問のことだと柊は考えている。
「ニュートンの法則の1番最初って覚えてる?」
「えっと、慣性の法則だっけ。確か、力を受けなければ、物体は静止してたら静止したまま、運動してたらその速度で運動を続ける」
「そうそう、完璧。つまり、力さえ加わらなければ『運動のしかた』は変化しないんだよね。もちろん実際には摩擦とか空気抵抗みたいな力が必ずかかっちゃうから、身の回りではそういうことって起きづらいんだけどね」
「『運動のしかた』って言うのは速さのこと?」
「速さというか速度だね。高校の物理では、方向まで含めた速さのことを速度って言うことになってる。例えば北西に毎秒5メートルとかね。だから速度が変わらないって言うことは、速さの絶対値だけじゃなくて、運動の方向も変わらないって言うことを示してる」
「えっ、速さと速度って違うの?」
「高校物理だとね。じゃあ、次は、加速度って何だったか覚えてる?」
「それは覚えてる。1秒間あたりにどれくらいのペースで速さが変わるかっていう量だよね」
「よく覚えてるね。それも正しくは速さじゃなくて速度なんだけど、さっきも言ったとおり速度って言うのは『運動』を端的に表す量だよね」
「じゃあ、加速度って言うのは『運動』の変化ってこと?」
「その通り。さっきの慣性の法則も考え合わせると、運動方程式って何を言ってるかというと、『力が加わったらそれに比例して運動も変化しますよ』っていうことなんだよ」
そう言いながら、ゆっくりと黒板の方へ歩み寄り、チョークをとる。
「だから、どうして速度が登場しないのか、という質問に立ち返れば、それはこの方程式が速度の『変化』――同じことだけど数学の言葉を使えば『微分』――に注目した式だからだよ。でも、その瞬間ごとの変化を積み重ねていけば、速度を計算することもできる」
「この式はどういう意味なの?」
「力を積み重ねると速度が計算できますよって書いてある。そんな風に一瞬一瞬の出来事をを積み重ねる計算のことを、積分って言うんだ」
そう言いながら柊は、黒板に矢印を書き足す。
「微分積分って何か聞いたことあるよ。こないだ読んだ短歌集にあった気がする」
「微分積分子らは解きおり、だね。こんな風に、ごく短い瞬間の変化の割合を計算する微分と、瞬間の出来事をたくさん積み重ねる積分っていうのは、物理に必須の道具なんだ。というか、物理の計算のためにニュートンは微分積分を考え出したらしいよ」
「微分積分考えたのもニュートンなんだね」
「あ、そこは断言すると、きのことたけのこみたいな宗教戦争になるから、考えたうちの一人っていう言い方が正しいかな。因みに俺はライプニッツ派」
「何派とかあるんだ」
「そんなわけで、物理って何かの変化に注目して考えることって多いんだ。実際、速度って位置の微分だし、加速度は速度の微分だからね」
「そんなふうに考えると、数式ってただの計算じゃなくて意味があるんだね」
「そうだよ。数学なんて所詮物理のための言語に過ぎないんだから」
「言語? 数学が?」
「そうだよ。物理現象を、簡潔に、正確に記述するための言語。式変形とか展開とかっていうのはあくまで『論理』であって、式の意味をきちんと読み取っていれば、日本語や英語を読み取るのと大して変わらない。数学とか物理が苦手って言ってる人の大半は、論理的な思考が苦手か、そもそも何も考えずに機械的に済まそうとしてるか、どちらかだと個人的には思う」
「な、なるほど……」
「状況に応じて、日本語と英語と数式を使い分けながら文章を作れるようになるのが理想的なんじゃないかな」
久し振りに姫川の分かったような分からないような微妙な顔を見た。
「とりあえず、最初の疑問は解決した?」
「うん、それは大丈夫。ありがとう」
ふと時計を見て、自分が30分以上語ってたことに気づく。自分の好きな話題になると、相手の様子も見ずにいつまでも語ってしまうのが柊の悪い癖だ。またやってしまった、と反省しつつ、勉強に戻ることにした。
「姫川ってどうして今学期こんなに物理頑張ってるの?」
駅までの帰り道、ふと気になって訪ねてみる。
「それはほら、私前回学年2位だったじゃん? それも1位の人に13点も水を空けられてて、どこでそんなに差がついたんだろうって思ったら、物理で27点も差をつけられてたわけ」
「なるほど。それで物理を頑張ってその1位の人を抜かそうとしてるわけだ」
「まあそうね」
「1位の人」とは当然ながら柊のことである。平均38点の物理基礎で1人だけ100点を取れば、総合1位にもなる。
「つまり俺は敵に塩を送ってるわけだ」
「まあそうね」
「……教えるのやめようかな」
「そんなぁ。私たち友だちでしょ?」
姫川が上目遣いでそんな台詞を吐く。口の端がつり上がっていることから、明らかに計算であることが分かる。それでも可愛い、以外の感想が湧いてこないのが惚れた弱み、というところだろうか。
「はぁ……。仕方ないなぁ」
そんな会話を交わしながら、いつも通り改札で別れ、エスカレーターでホームまで下る。
「私たち友だちでしょ、か」
自嘲気味な笑みを浮かべながら、姫川の口まねをしてみる。1週間前まで口を聞いたことすらなかった身としては、喜ぶべきなのだろう。クラスの男子なら、飛び跳ねて狂喜乱舞するところだ。だが、柊はそれが嬉しいとは思えなかった。
力を加えなければ、物体は等速で、同じ方向へ進み続ける。この性質を慣性、または惰性という。自分と彼女の関係はどこへ運動しているのか。本当はどこにたどり着きたいのか。それが分からないほど愚かになることはできなかった。
その日は結局、家ではテスト勉強ははかどらなかった。机に向かっていても、姫川から連絡が来たりしないか気になってしまい、5分に1回くらいのペースでスマホを確認してしまう。
いっそ柊から連絡をしてしまおうかとも思ったが、試験勉強の邪魔になるかもしれないと思うと、それも憚られた。結局それ以上の勉強を諦めて布団にダイブしたのは、1時過ぎ。朝は6時半には起きることを考えると、そこそこの夜更かしになってしまった。
なお、お気づきかとは思いますが、本文中で言及している短歌は俵万智さんの『サラダ記念日』から引用しています。





