7月12日(月) Let love be defined
朝、駅から学校へ向かう途中、珍しい人物と遭遇する。
「あ、山中くん」
「お、おう。ストーカー野郎か」
「ストーカーじゃねえよ」
いつか薫子に絡んでいた、なんとか山くんこと山中くんだ。正直言うと、山中だか中山だか自信がなかったのだが、どうやら正解を引き当てたらしい。
面識があるとはいえ、さして仲が良いわけでもない2人は、黙り込んだまま並んで歩を進める。
沈黙に耐えかねた柊が、切り出した。
「ねえ、中山くんって、姫川のこと好きなの?」
中山くんが隣でずっこけそうになったので支えてやる。いや、山中くんだったか。
「お、おま、朝っぱらから何言ってんだよ!」
顔を真っ赤にして怒鳴りつけるものだから、全身で肯定しているようなものだ。もしかして、柊も端から見たらこれくらい分かりやすいのだろうか。
「いや、まあそれは別にいいんだけどさ、」
実際、どうでも良かった。どちらにせよ、薫子に告白する上で彼が障害になることはなさそうだった。
「『好き』って、何だと思う?」
「は?」
呆気に取られたような顔をする、山中くん。
「何って、それは、なんていうか……」
大して仲良くもない柊からの唐突な疑問にも、戸惑いながらもちゃんと考えてくれる。彼は意外と良い人物なのではないだろうか、とふと思った。
「言葉にできないのからこそ、大事なものなんじゃねえの?」
しばらく迷ったあと、自信なさそうな声で答える。
「笑顔にしたい、幸せでいてほしい、とにかく側にいたい。いろいろな言い方があるけどさ、これが『愛』ですなんて定義はないと思う。でもさ、大切なものっていうのはたいてい言葉じゃ定義できないんだよ」
顔を赤くしながら聞き取るのが難しいほどの早口で答える。
「お前だって姫川のこと好きなんだろ? ストーカーなんかしてるくらいだし」
照れ隠し半分、本当に気になるのが半分といったところだろうか真っ赤な顔のまま柊に訊いてくる。
「好きなんだと思う。ストーカーじゃないけど」
真面目に答えてくれた中山くんに、柊も正直に答える。
「だけど、好きってなんなのかがよく分からなくて。だからほんとに好きなのかどうか自信が持てない」
「自信が持てないなら、それはまだ好きじゃないんじゃないか? あいつのこともっと良く見てみろよ。気づいたら頭から離れなくなってて、自信を持って好きって言えるようになってるから」
「実感こもってるな」
本当にそうなのだろうか。「好き」の定義なんてどこにもなくて、柊もある日突然誰かのことが好きだと気づくのだろうか。では、もし「好き」でないなら、今の自分の気持ちにはなんという名前をつければいいのだろうか。
「まあ、そんなに好きでもないなら、譲ってくれよ」
誰が譲るもんか。心の中で、そう吐き捨てた。
教室に入れば、今日は土曜日以上にぴりぴりとした空気が漂っていた。授業ノートを赤シートで隠していたり、お互いに問題を出し合ったり。
「もう赤点は避けられないんだから諦めようぜ」
そう笑っている男子は前回もそう言いながら学年順位1ケタだった。釣られて談笑に興じているのは、前回のクラス最下位だ。まだ1学期とはいえ、来年の彼の進級が不安でならない。
「おはよう」
「おはよう」
昂輝に声をかけると、下を向いたままの返事が返ってきた。テスト勉強を前日に開始すると、覚えきれなくなることは前回のテストで学ばなかったのだろうか。
「柊、おはよう」
挨拶をしにくる椿は、何故か手ぶらだ。
「勉強しなくていいの?」
「それが、最近柊とかおるんに教わりながらまとめてるノートが、友達に取られちゃって……」
見れば、椿の席にはノートを中心に若干名、スクラムを組むようにして集まっていた。
「まあ、椿のノート見やすいからな」
まとめ方、色の使い分けが上手い。絵や図も綺麗に書くので、もはや出版物だ。しかも、柊と姫川の監修済み。
「そりゃ、ああならない方がおかしいか」
椿の席に群がる生徒を眺めながら、柊のノートで一緒に復習することにした。
ちなみに、テスト自体は特に特筆すべき点はなかった。所詮は暗記科目なので、勉強をきちんとしてあればたいしたことはない。強いて言えば、記述問題が少し難しかったのと、フランスの大統領の名前が答えられなかったくらいだ。
「ねえ、フランスの大統領って誰だっけ?」
テストか終わるなり、皆で答え合わせが始まる。本来なら翌日の勉強にあてるべき時間だが、気になってしまうのは仕方がないだろう。
「サルコジだよ」
昂輝が教えてくれる。なるほど、と思っていると、近くの席の女子も答え合わせをしているのが聞こえてきた。
「フランスの大統領ってオランドだよね?」
「あ、そうじゃん。私分かんなかったからロベスピエールって書いたわ」
「うちなんてエムバペって書いた」
昂輝と顔を見合わせる。そういえば、サルコジはもう辞めてオランドに代わっていたかもしれない。まあ、柊はいずれにせよ間違えていたので問題はない。
「いや、マクロンだから」
脱力した様子で薫子が呟いているのが聞こえた。
その日の放課後は柊の質問教室が盛況だった。というのも、翌日に数学Aの試験が控えていたからだ。今回の範囲は場合の数で、問題のパターンによって解法が大きく異なるために、苦手としている人が多い。
箱を区別する問題と区別しない問題の違いだとか、両端に大人が来る並べ方だとか、各パターン何人にも解説するので、いい加減教科書なしで完璧に解説できるレベルになっていた。
ちなみに、最近薫子が柊とたまに話すからだろう、果敢に薫子に話しに行っては黙殺される男子もちらほらいた。見てて少し優越感はあるのだが、薫子に冷たくあしらわれて柊をにらみつけるのはやめて欲しい。別に俺は何もしてない、と声を大にして主張したい。
一方、女子からは面白がるような視線と、応援するような生温かい眼差しと、半々くらいだった。いろいろな人に勉強を教えてやったりしているおかげで、クラスの中での柊の好感度は低くないのだ。もしかしたら、薫子に彼氏ができれば彼女のファンが他の女子に流れるという打算もあるのかもしれない。
とまれ、女子たちの暗黙裡の協力のもと、今日も柊と薫子の2人で鍵を返しにいく流れになりそうだった。女子の団結の前に、異を唱えられる男子がいるはずもない。ところが、そんな流れが読めない人物が一人だけいた。
「捕まえた! 椿ちゃん最近先に帰っちゃうんだもん。ひどいよ」
見れば、椿の手首をがっちり掴んでにこにこしている。その口元が蠱惑的で思わず視線を持って行かれる。その隣で椿は顔をひきつらせていた。
「さ、今日は三人で帰るよ!」
内心、どうしてそうなるんだよ、と突っ込んでいないのは、教室中で彼女だけだっただろう。
「結局さ、数学ってパターンの暗記だよね」
駅への帰り道、椿がうんざりしたようにつぶやく。
「確かにな」
柊の言葉に、姫川が驚いたようにこちらを見る。
「へえ。柊くんのことだから『数学は論理だから、暗記じゃないよ』とかいうと思ってた」
「いや、確かに本来はそうだよ。でも、自分で考えられることには限界がある。それに、人によって向き不向きもある」
数学は、人間が初めて生まれた頃から、少しずつ進化してきたものだ。生まれて16年かそこらの若造が自分の考えだけで追いつけるほど、甘くはない。
「だから、先人が発見した『定石』を覚えるのも悪くないさ。もちろん大切なのは定石をどう使うか、そこから何を読みとるか、ていうことだから、暗記だけでは上手くいかないけどね」
「結局、どういうこと?」
分かるように伝えたつもりが、椿には伝わっていなかったらしい。
「数学は論理的に自分の頭で考える学問だけど、その基礎の部分は多少の暗記した方が効率が良いってこと」
「ふうん」
自分で振った話題の割に、あまり興味はないようだった。
いつも通り、改札を抜けたところで、姫川と別れる。
「なあ、椿」
珍しく会話を切り出したのは、柊の方。
「『好き』ってどういうことだと思う?」
椿は表情を変えずに柊をじっと見つめる。椿が何を考えているのか、柊には分からない。
「いきなりどうしたの?」
そう訊ねる椿の眼は、柊の心の奥まで覗き込んでいるようだった。
「自分の気持ちが、分からないんだ。異性への『好き』と、友人や後輩への『好き』はどう違うんだろうって。本当に姫川のことを異性として好きなのか、自信が持てないんだ」
椿は無表情のままで、うんともすんとも言わない。沈黙に耐えきれず、話を続けた。
「椿なら、人を好きになることをどう定義する?」
少し考え込むような仕草をしてから、椿は答える。
「ごめん、私にも分からないや。私恋とかしたことないし」
前方、窓の外を眺めながら、明るい声で答える。
「そっか」
それきり、会話が途切れる。
ガタン、ゴトン。
沈黙の中、規則正しい電車の音がやけにうるさく響く。
「ねえ、」
そう切り出す椿の顔は、LeFtの帰りに見た顔。覚悟を決めたような、真剣な眼差しだ。
「それが分からなくなったのって、梨紗ちゃんのせい?」
訊かれるだろうと予期はしていたが、実際に訊かれると素直には答えづらいものだ。それでも、
「うん」
誤魔化すわけにはいかなかった。これ以上自分を、他人を、だますようなことをしたら、本当に自分を見失ってしまいそうだったから。
「かおるんと、梨紗ちゃんと、どっちが好きなのか分からないの?」
「ううん。どっちも好きなんだ。でも、『好き』の種類が、違う気がする。どうしたら、それが『恋』だって自信を持って言えるんだろう」
彼女はうーん、と考え込むように目を閉じ、下を向く。
ガタン、ゴトン。
今度の沈黙は長かった。椿は目を瞑ったまま一言も発せず、電車の音だけが耳に障る。このまま最寄りまで無言のままなのだろうか、と思ったときだった。
「あのね、私の『好き』、聞きたい?」
椿はゆっくりと瞼をあげた。その目には涙が浮かび、何かと闘っているようだった。
「うん、教えて」
柊の返事に、椿がおもむろに口を開いた。
「私の『好き』はね、相手の幸せを願えること。たとえ自分が辛い思いをしたとしても、相手が嬉しければ自分も嬉しい。それが、私の『愛』の定義」
言わんとすることがよく分からない。いや、一つだけ仮定を置けば、完璧に説明が付くのだ。しかし、その仮定はあまりにも、あまりにも――
「――なあ、椿」
「それ以上聞かないで」
柊の言葉は、ぴしゃりと遮られる。
「聞いても誰も幸せにならないから」
その瞳に浮かぶのは諦めか、哀しみか。いずれにしても、ふふっと笑ってみせる口元とひどくアンバランスに見えた。
「好きな人の幸せが、私にとっての幸せだから。だから、私よりも幸せにできる人がいるなら、私じゃなくていいんだよ。それが私の『好き』だから」
思い出したように、語尾にスタッカートを込めて、微笑む椿。
「だから、柊も自分の『好き』を見つけて、追いかけなよ」
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。柊を苛立たせているのは、電車の音なのか、それとも馬鹿みたいな速さで鼓動する自らの心臓の音か。
「言わないって、決めてたのになぁ」
彼女の口から漏れた呟きは、電車の音に紛れて聞こえなかった。聞こえなかった、ことにした。
疲れ果てて家につき、ベッドに倒れ込む。椿の告白の衝撃は大きかった。今まであれだけ近くにいながら、彼女がどんな思いをしていたのか、分かっていなかった。否、分かろうとして分からなかったのならまだ良い。だが柊は、分かろうとすらしなかったのだ。椿の泣きそうな笑顔が、自己嫌悪に形を変えて、心にちくちくと突き刺さる。
しばらくベッドにうつ伏せなっていると、ドアがノックされた。思わず身構えたが、今日のノックはやる気のない適当な2回ノック。これは楓のノックだ。
「お兄ちゃんのカノジョが来たよ!」
「カノジョじゃねえよ」
吐き捨てるように言葉を投げつけ、階下におりる。玄関には、思った通り梨紗が立っていた。
「こんにちは、今日も来ちゃいました」
てへぺろ、という効果音が聞こえてきそうだ。梨紗から紙袋を受け取ると、柊の手にその重さがずっしりとかかる。
「今日はチェリーパイ焼いてきました。そろそろご飯どきだと思うので、後で夜食にでも召し上がって下さい」
柊の手にずっしりとかかる重さは、チェリーパイだけのものではない。これはきっと、「好意」の重み。これも、今まで感じたことのないものだ。彼女がどれだけのものを柊に与えてくれていたのか、どうして気づくことができなかったのだろう。
柊は、たぶん浮かれていたのだ。かぐや姫様と少しずつ距離を縮められたことや、後輩から告白されたことで、自分が偉くなったように錯覚していた。コレクターの如く好意を蒐集して、悦に入っていた。その気持ちの中に、梨紗のように純粋に相手を思う気持ちがあっただろうか。椿のように、自らの心を殺す覚悟があっただろうか。
「好き」が分からなかったのは、当然だ。与えられるものに舞い上がり、何一つ、与えようとしなかったのだから。大切な友人に、あれほど苦しくて辛そうな顔を向けられるまで、相手の胸の内を想像しようとすらしなかったのだから。
梨紗から受け取った紙袋を玄関に置いて、梨紗を家まで送る。と言っても、隣なので徒歩10秒ほどの距離だ。その間に、彼は伝えるべきことを端的に伝える。
「明日はなにも持ってこなくて良いよ」
「分かりました。そう言われてしまったら、仕方ないですね」
あっけらかんと聞き分けの良い返事をする梨紗の笑顔が、先ほどの椿と重なって柊の心を苛む。
「彼女気分、もう一日味わえると思ったんだけどなぁ。告白、上手くいくと良いですね」
どれだけの意志があればこんな気丈な台詞が吐けるのだろう。大事な後輩にこんな悲しい笑顔を強いているのは、紛れもなく柊自身の咎なのだ。
「梨紗」
「はい」
梨紗の家の前で向かい合う。四日前よりいくぶんかスリムになった月が、梨紗の顔を美しく照らす。その瞳をぬらす涙から、目を背けることは許されない。
「俺のこと、好きになってくれて、ありがとう。告白してくれて、ありがとう」
「はい」
梨紗の眼窩から溢れ、頬を流れ落ちる涙を拭ってやる権利は、柊にはない。頭を優しく撫でてやることさえ、今の柊にはできようのないことだった。
「最低だな、俺」
そんな言葉が口から飛び出すのは、梨紗を泣かせた罪悪感からだろうか。それとも、脳天気に彼女の気持ちを受け取り続けてきた自分への自己嫌悪からだろうか。梨紗が家に入るのを見送り、1分間ほど棒立ちしたあと、重い足取りで自宅へと帰った。
その日は試験勉強も手に付かず、夕飯の味もよく分からなかった。だけど、部屋に戻って食べたパイは、なぜか塩辛く感じた。





