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迷子

ウネンが八歳の時のエピソードです。第六章の終わりまで読んでいないと、状況が分からなくてあまり面白くないと思います。

 

 

 


 

 

 畑で夕食用の青菜を摘んでいたウネンは、「おやおや」というヘレーの声を聞いて身を起こした。

 ウネンとヘレーが住む小屋の前に、小さな人影が一つ、ぽつねんと立っているのが見えた。

 手についた土を払って、ヘレーが小屋へと向かう。ウネンも手をはたいて土を払うと、ヘレーのあとを追った。


「どうしたんだい、シモン君」


 つい先日に十一歳の誕生日を迎えたばかりのシモン少年は、ヘレーのお得意さんであるミロシュ医師の一人息子だ。陽の光を溶け込ませたような金色の髪が、顔の動きに合わせてさらさらと揺れる。


「……遊びに来た」


 ウネンよりも三歳年長なことに加え、最近目に見えて背が伸びてきたこともあって、顔を合わせるたびにウネンに対して大人ぶっているシモンだったが、こうやって頬を膨らませて()ねた顔をしているところを見れば、やはり彼もまだまだ子供なのだ。


「遊びに来た? 君、一人でかい?」

「そうだよ」

「お父さんやお母さんは知っているの?」

「……知ってる」


 その一瞬シモンの視線が揺れたのを見て、ウネンは、本当かな、と小首をかしげた。

 どうやらヘレーも同じ疑問を(いだ)いたのだろう。少し悪戯(いたずら)っぽい表情を浮かべて「そういえば」と両手を打つ。


「丁度、ミロシュに頼まれていた薬が一つ出来上がったんだった。ちょっと届けてこようかな」

「えっ、ちょっ」


 覿面(てきめん)に慌て始めるシモンに対して、ヘレーは涼しい顔で問いかけた。


「君がここにいること、お父さんも知っているんだよね?」

「え、あ、……うん」

「じゃあ、私が君のお父さんに会いに行っても、何も問題ないよね」


 シモンが、あからさまにヘレーから顔を(そむ)ける。

 ふう、とヘレーが肩を落とした。


「何があったんだい?」


 ヘレーの優しい声が、木の葉擦れの音に溶けてゆく。

 長い長い沈黙ののち、シモンが渋々といった表情で口を開いた。


「……軟膏(なんこう)(つぼ)をひっくり返して……」


 話すほどに、シモンの視線は下へ、足元へと落ち込んでいく。彼の言葉を聞き()らすまいと、ウネンは慌ててその(そば)に寄った。


「ええと、ごめん、軟膏(なんこう)(つぼ)が……?」

「んっとね、シモンが軟膏(なんこう)(つぼ)をひっくり返してしまって、それでミロシュさんに無茶苦茶怒られて、それで家を飛び出してきたんだって」


 聞き取れた内容をウネンがヘレーに伝えれば、「おやおや」とヘレーの眉が跳ね上がる。


「無茶苦茶怒られた、ってことは、小分けのほうってわけじゃなさそうだね。でも、保存用の大きいほうでも、あの粘度ならそうそう(こぼ)れるようなことはないから……」

「床下の物入れから取ろうとしたから、だって」

「奥の部屋の床下収納かい? 確か、君は触っちゃ駄目だって言われてなかったっけ? 危ないものも置いてあるからって」


 ヘレーの言葉を聞くなり、シモンがまたも頬を膨らませた。どうやら弁解のしようがないようだ。

 ヘレーが「やれやれ」と苦笑を浮かべた。


「約束を破るのは、良くないなァ」


 返事の代わりに、シモンがぷいっとヘレーから顔を(そむ)ける。


「私がミロシュだったとしても、たぶん叱っただろうね。君に、約束を簡単に破る人間にはなってほしくないから」

「父さんは、僕のことなんてどうでもいいって思ってる」

「君のことをどうでもいいと思っていたら、叱りなんかしないで放っておくだろうさ」


 そう言ってから、ヘレーは小屋の扉をあけた。


「いつまでもここにつっ立っていても仕方がない。さあ、入った入った。ウネン、戸棚から固焼きパンを出しておくれ。皆でお茶にしよう」


 ヘレーが湯を沸かしている間に、ウネンは固焼きパンと木の実のペーストをテーブルに並べた。もしかしたらシモンはあっちのほうが好きかもしれない、と、椅子を踏み台にして棚の奥から木苺(きいちご)のジャムも引っ張り出してくる。

 やがて、豆の茶の香ばしい薫りが部屋の中に漂い始めた。

 湯気の立つカップをテーブルに運びながら、ヘレーがシモンに声をかける。部屋の隅で不貞腐れた顔をしていたシモンだったが、存外素直にウネンの隣の椅子に腰を下ろした。

 熱い茶を冷まそうと息を吹きかける音が、パンを(かじ)る音が、しばしの静寂を連れてくる。


「君のお父さんは、君のことが憎くて叱ったんじゃないよ。むしろ、君のことを大切に思っているからこそ叱ったんだよ」


 場の空気が少し緩んだところで、ヘレーが諭すようにシモンに声をかけた。

 途端にシモンが、パンを口いっぱいに頬張ったまま、そっぽを向く。

 ヘレーは、ははは、と声に出して笑って、そうして席を立った。町に買い物に行く時にいつも使っている背負い(かばん)を手に、ウネン達を振り返る。


「ともあれ、ミロシュに用事があるのは本当だからね。ちょっと出かけてくるよ」


 ウネンの「行ってらっしゃい」の声に、にっこりと相好を崩して「行ってきます」と応えたヘレーは、ふと、何かに思い当たった表情になると、シモンの面前にぐぐいと顔を近づけた。


「いいかい、シモン君。私が帰るまで、絶対に一人で森に入らないこと。分かったね」


 いつになく力の籠もったヘレーの口調に、さしものシモンも無視をすることはできなかったようで、彼は()びついた蝶番(ちょうつがい)のようにぎくしゃくと首を縦に振った。


 


 


「僕のことを思って、なんて絶対に(うそ)だ」


 ヘレーの姿が木立の向こうに見えなくなるなり、シモンが(いら)立たしげな声で吐き捨てた。


「そんなことないよ」


 小屋の扉を閉めたウネンは、心からシモンに反論した。ミロシュがシモンを大事に思っているのは、普段の様子からも一目瞭然だったからだ。

 だが、シモンはこれ見よがしに鼻を鳴らすと、右手の人差し指をウネンの目の前に突き出してきた。


「適当なことを言うなよ」

「適当なことなんて言ってないよ」

「だって、ヘレーさんがウネンを怒鳴ってるところなんて、見たことないぞ」


 その瞬間、ウネンは空気の塊が喉の奥に詰まったような気がした。


「それは……」


 それは、シモン達とは違って、ウネンとヘレーが本当の親子ではないから、ではないだろうか。実の母親に捨てられたウネンに対して、ヘレーが必要以上に気(づか)ってくれているからではないだろうか。

 ウネンの葛藤に気づいたふうもなく、シモンは鼻息荒く両手を腰に当てた。


「勝手に床下をあけた僕が悪いのは解ってる。でもさ、理由も聞かずに怒鳴ることないだろ? 『何やってんだ!』って、見れば分かるだろ、お前の目は節穴かよ、ってんだ。だいたい、目の前にいるんだから、あんな大声出さなくても聞こえるっての。目だけじゃなく耳も悪くなったのかよ。それで、二言目が『薬は無事か』だぞ」


 ぎり、と彼の奥歯が(きし)む音がした。


「どうせ父さんは、僕なんかよりも薬のほうが大切なんだよ」

「シモン……」


 どういう言葉をかければいいのかわからないままに、ウネンは唇を引き結んだ。シモン本人が言うように、今回、彼自身に問題があったのは間違いない。だからといって、「お前が悪い」という一言で片づけてしまうことは、ウネンにはとてもできそうになかったのだ。

 沈黙が、二人の足元に降り積もる。

 と、唐突にシモンの靴が静けさを蹴散らした。目を丸くするウネンに背を向け、小屋の扉に手をかける。


「え? なに? シモン?」

「ヘレーさんは、戻ってくる時に絶対に父さんを連れてくるに決まってる。だから、その前に別の道を辿(たど)って町に帰る」

「駄目だよ! 一人で森に入っちゃいけない、って!」

「一人じゃなかったら、いいんだろ」


 自分に向けられたシモンの人差し指を、ウネンは呆然(ぼうぜん)と凝視した。


 


 


 夏を名残惜しむかのような陽光も、生い茂る木々の陰ではなりを潜めるしかない。森に足を踏み入れた途端、ひんやりとした風がウネン達を包み込んだ。

 頭上で、足元で、緑の葉々がさやさやと(ささや)く。

 この時期、下草を踏むたびに立ちのぼる草の()(かす)かに甘い香りが混じるのは、丸い形をした落ち葉のせいだと以前ヘレーが言っていた。このにおいがもっとはっきりと判るようになれば、木の実の収穫の季節がやってくる。


「ウネンもさ、こんな森の中にずっと引き籠ってなくて、たまには町に出てきたらいいんだ。イェゼロにはウネンと同い年の奴も沢山いるんだからな」


 先ほどまでとは一転して、シモンはすこぶる上機嫌だった。ウネンの知らない名前を幾つも上げては、「こいつは少しお節介な奴」「こいつは話の分かる奴」と寸評を付け加えている。

 ウネンは適当に相槌(あいづち)を打ちながら、「どうしよう」と心の中で何度も頭を抱えていた。

 ヘレーにああ言われた以上、シモンを一人で行かせるわけにはいかなかった。しかし、この森に腰を落ち着けて二年と少し、ヘレーがウネンを町に連れていくことは一度として無かったし、そもそもヘレー自身もミロシュを訪ねる以外で町に出ることが(まれ)だったから、ウネンにとってイェゼロの町は、近くにありながらとても遠い存在だったのだ。


「まァ、多少性格の悪い奴もいるけどさ、僕の妹分だ、って言ったら、皆、優しくしてくれるって」


 生返事を口にしつつ、ウネンはますます眉間に(しわ)を寄せた。今考えなければならないのは、ウネンに友達ができるかどうかということよりも、どうすればシモンがミロシュと仲直りしてくれるかという大問題についてなのに、と。

 そうやってどれくらい歩き続けただろう。大人が二人向かい合ってダンスしているような大きな木が、ウネンの右手にまた見えてきた。――そう、また。再び。

 間違いない。ここは、さっきも通った場所だ。

 ウネンが息を()むのとほぼ同時に、シモンが愕然(がくぜん)と足を止めた。


「ここ、さっきも通ったよね」


 シモンからは、何の返事も返ってこない。


「もしかして、迷った、とか?」

「……こっちだ」


 ダンスの木の手前側で、獣道が右手奥へと分岐していた。シモンはそちらに向かって進む向きを変える。


「ねえ、本当にこっちで合ってるの? 戻ったほうがいいんじゃない?」

「森の中の一地点を探すよりも、森を抜けるほうがずっと分かりやすいだろ。もうお昼をとっくに過ぎているんだから、太陽の方角に行けば町に出る」


 なるほど、シモンの言うとおりかもしれない。確かにウネン達の住む森は、イェゼロの町の東側にある。このまま西へ向かって進めば、必ずどこかに出ることができるだろう。

 気を取り直して、二人は再び下草をかき分け歩き始めた。頼りなげな獣道、行く手を阻む小枝を折り、茂みを渡る(つる)を踏みつけ、傾きゆく太陽を目印に、歩く、歩く。

 だが、二人の探検はやがて無情にも行き詰まりを迎えた。一際密に枝を絡ませる深い茂みに、行く手を完全に塞がれてしまったのだ。


「……どうしよう」


 シモンの口から、か細い声が()れた。

 ウネンは、奥歯をきつく()み締めた。ヘレーの言いつけを守って大人しく小屋で待っておれば、との後悔の念が、みぞおちの辺りを締めつける。


「やっぱり、戻ろうよ」

「戻る、って、どうやって?」


 蒼白(そうはく)な顔のシモンに問われて、ウネンもまた全身から血の気が引いたような気がした。

 振り返った先は、小さな広場のようになっていた。ぐるりを緑の壁に囲まれた、森の中の小部屋。(かげ)りゆく日の光はウネン達のところには届かず、鬱蒼(うっそう)と絡まる木々の枝葉は驚くほど(くら)く、二人が通ってきたはずの道などどこにも見当たらない。

 焦りが喉元へと込み上げてきて、冷や汗が一気にふき出した。どうしよう。どうすればいい。半ば恐慌をきたして立ち尽くすウネンの耳に、(かす)れた声が飛び込んでくる。


「……ちょっとぐらいは心配したらいいんだ、って、思って」


 シモンが、足元を見つめながら静かに息を継いだ。


「僕がいなくなって、言い過ぎた、って気がつけばいい、って思って……」


 ウネンは言葉も忘れて、シモンの顔をじっと見上げる。


「やっぱりお前のことが大切なんだ、って思い直してくれないか、って……!」


 悲鳴にも似たシモンの叫びが、葉擦れの音に()み込まれていく。

 次の瞬間、緑の壁の向こうのほうで、がさがさと何かが下草をかき分ける音がした。

 音は、みるみるうちに、真っ直ぐウネン達のほうへと近づいてくる。

 野獣だ。野獣に違いない。ウネンとシモンが絶望の声を上げるよりも早く、木の葉を蹴散らし、ヘレーが茂みから姿を現した。


「ウネン!」


 大きく肩で息をしながら、ヘレーはウネンの名を呼ばわった。ウネンが今まで聞いたことのない、抜き身のごとき鋭い声だった。

 ホッとするよりも何よりも、あろうことか、恐怖、がウネンの思考を塗りつぶした。心の奥底に押し込めていたはずの幼い日の情景が、まなじりを()り上げて手を上げる母の顔が、視界いっぱいに大写しになる。ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません、幾度となく夢中で言い重ね、身を小さくして嵐が過ぎ去るのを待ち――


「無事で良かった……」


 ――身体を包み込む温かさに、ウネンは我を取り戻した。

 目の前にヘレーの胸があった。ヘレーがウネンを抱き締めていた。

 頭を抱えていた両手をそっとほどこうとして、ウネンは、自分の指先が小刻みに震えていることに気がついた。

 そっとヘレーの腕に触れば、ヘレーもまた震えているようだった。自分の手が震えているからそう感じるのかもしれない、とウネンは考えた。


「君が無事で、ほんとうに、よかった」


 よかった、よかった。ヘレーが震える声で何度も繰り返す。ウネンは心を込めて「ごめんなさい」と(つぶや)いた。


 


 


 ややあって、草むらをかき分ける音とともに、今度はミロシュが茂みから飛び出してきた。一拍遅れて、ゾラがそのあとに続く。

 シモンの姿を認め、ミロシュが唇を引き結んだ。両のこぶしをきつく握りしめ、大きく息を吸いこんだところで、なんとゾラがミロシュを制して前に出た。

「あ? おい?」と驚くミロシュを一顧だにせず、ゾラは一直線にシモンの前に来ると、やれやれとばかりに両手を腰に当てる。


「あなたね、最後までよく聞かずに飛び出していくんだもの。いい? あの時お父さんはね、『薬()無事か』って()いてたのよ」


 母が語った内容がすぐには理解できなかったのだろう、シモンは面食らった顔でひたすらその場に立ち尽くす。

 ゾラの言葉を受けて、ミロシュが腕組みをして胸を張った。


「お前が無事なことなんざ、ひと目見りゃ分かったさ。だから、薬はどうなったか()いたんだ」


「俺の目は節穴じゃないからな」と鼻を鳴らすミロシュに対して、「自分の息子が誤解したことに気づいていなかったんだから、節穴でしょ」と即座にゾラが(くぎ)を刺す。


「シモンを制止するためだ、っていうのなら、大声を出すのも解るけれど。でも、今回はそうじゃなかったでしょ。既に()()()()()()()()のことを叱るのに、あんなふうに怒鳴る必要なんて何もないじゃない。自分の思いどおりにならなかったからって、(いら)立ちをそんなふうに発散させるのはどうかと思うわ」

「はァ!? なんだって!?」

「ほら、そうやって、すぐに大声を出す」


 冷ややかにゾラに返されて、ミロシュが慌てた様子で口元を右手で覆った。


「今のも、驚いただけなら『なんだって?』は余計でしょ。問い(ただ)したいって言うのなら、怒鳴る必要はないし。不本意なことを言われて腹を立てたんじゃないの?」


 妻が繰り出す容赦のない追及に、ミロシュは一度は何か言いかけたものの、そのまま口をぱくぱくとだけさせて黙り込んでしまった。

 ヘレーに(うそ)を見抜かれた時のシモンと同じ顔だ、とウネンは心の中で感心した。親子なんだなあ、と。


「いや、しかし、床下の件は、あれは」

「シモンが私達との約束を平気で破る子だと思っているの? 道理の分からない小さな子供の頃じゃあるまいし」


 すっかり狼狽(うろた)えていたミロシュが、ゾラのこの言葉を聞いて、ふっ、と真剣な表情になった。しばしおのれの足元に目を落とし、唇を引き結び、深呼吸一つ、シモンの正面に向き直った。


「そうだな。確かに、俺は、お前が俺の言いつけを守らなかった――俺の期待が裏切られた――という事実()()()()に腹を立てていたような気がする……」


 ミロシュの眉が、そっと緩められた。


「どうして、勝手に床下をあけたんだ」


 今度は、シモンが姿勢を正す番だった。一瞬だけ視線を周囲に彷徨(さまよ)わせ、それから大きく息を吸いこんで、ミロシュの顔を真っ向から見つめる。


「診療机の軟膏(なんこう)がなくなってきているのに気づいたから……」


 ゾラが、あらあら、と手を口元に当てた。


「お母さん、昨日の夜、腰が痛いって言ってたから、お母さんが気づく前に、さっさと薬を補充しようと思って」


 息を継ぐと同時に、ほんのひととき(まぶた)をつむり、それからシモンは強い眼差しで父母を交互に見た。


「だって、床下から重いものを持ち上げるなんて、物(すご)く腰に悪いじゃないか」


 シモンの言葉が終わりきらないうちに、ミロシュがシモンの肩を抱え込んだ。目を白黒させるシモンの頭をくしゃくしゃと乱暴に()でて、「悪かったな、シモン」と絞り出す。


「でも、これからは事前に相談してくれよ。約束、ってのは、片方が勝手にどうこうしていいもんじゃないからな」

「……ごめんなさい」


 シモンの声が、(かす)かに震えている。

 ミロシュは、顔面をくしゃくしゃにして笑うと、今ひとたび息子の肩を抱き締めた。


 


 


 


 夕闇に追い立てられるようにして、ミロシュ一家は町へと帰っていった。

 夕飯の準備をすべく(かまど)の火を(おこ)しながら、ヘレーが事も無げに口を開いた。


「私が君を叱らないのはね、叱る必要がないからだよ」


 青菜を切っていたウネンは、昼間に(いだ)いた疑問を言い当てられたことに心から驚いてヘレーを振り返った。

 やっぱりね、と言わんばかりの表情が、ほどなく悪戯(いたずら)っぽい笑みに代わる。


「もっと私を困らせてくれていいんだよ。そうしたら、ミロシュと『最近子供が生意気でなあ』って()ねたふりをして酒が飲めるから」


 冗談めかせた言葉に思わず笑みを浮かべかけたものの、森の中でのヘレーの様子を思い出して、ウネンはぎくしゃくと(うなず)いた。あの時、ウネンが過去の恐怖に襲われていたのと同じように、ヘレーもまた、何か(ひど)く切羽詰まった表情を浮かべていたからだ。

 ヘレーさんに、もう二度とあんな顔をさせたくない。

 ウネンの思いを察したのか、ヘレーが「君は、優しいな」と笑みを浮かべた。


「それと――」


 何かを言いかけたヘレーの瞳が、その刹那、急に深みを増した。まるで森の奥にある泉のように、底を見通せない、深い、(あお)

 ヘレーが唇を引き結んだ。それから、そっと息を吐き出した。


「――私がいない時に、勝手に森に入っては駄目だ」


 それは、喉の奥から無理矢理絞り出したようなかすれ声だった。

 ウネンは思わず息を()んだ。


「駄目だよ。絶対に」


 ヘレーの口調は、すぐにいつものものに戻っていた。いつもの声、いつもの笑顔。

 ウネンはホッとして「分かった」と大きく(うなず)いた。

 

 

 

    〈 了 〉


【注】叱る際に声を荒らげることによって、理解力が及ばない幼児等に、叱られる原因となった物事の危険性や重要性を伝える、という意図を否定するつもりはありません。

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