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特訓

第八章の始まる二週間前のエピソードです。

 

 

 大きく振り広げられた腕が、しなやかな指が、青空を背景に弧を描いた。その動きに(いざな)われるようにして、風が草原を走り抜けていく。

 草の波を満足そうに見送って、モウルが両腕を静かに身体の脇に下ろした。それから彼は、ちらりと傍らに視線を投げた。

 モウルの左側には、ウネンが立っていた。真っ直ぐに背筋(せすじ)を伸ばし、目をつむって、両手の指を胸の前で組み合わせて(たたず)んでいる。


 きっと今、彼女は、〈(ささや)き〉とやらを感じているところなのだろう。二人から少し離れた岩棚にもたれながら、オーリはそっと目を細めた。誰かが魔術を使うたびにウネンが感知するという声ならぬ声――〈(ささや)き〉。それが一体どのようなものなのかオーリには見当もつかなかったが、きっと彼女が呪符を扱えるようになるための手助けにはなってくれるに違いない。

 そう、まさに今、ウネンはモウルに呪符の使い方を教わっているところなのだ。

 真剣な表情で言葉を交わし合うモウルとウネンから視線を外し、オーリは右方――北の方角――に目をやった。緩やかな谷を挟んだ向こう、幾重にも重なる木々の緑を、更にその彼方を(にら)み据える。


 ヘレーを北へと駆り立てたものが、オーリやモウルが想像したとおりのものならば、事態は容易には収まらないだろう。ヘレーを見つけて話を聞いて「ハイ終わり」といかないのは当然のこと、恐らく多少の荒事も覚悟しなければならないはずだ。となると、ウネンには、極力自分で自分の身を守れるようになってもらう必要がある。

 そんなわけで、クージェの王城を旅立って以来、オーリは(じょう)術をモウルは呪符の使い方を、時間を見つけてはウネンに手ほどきしていた。丁度今日は、同道の商人に北隣の町までの護衛を頼まれたせいで、出発予定の午後まで時間がぽっかりと空いたため、町外れの原っぱで呪符の特訓と(あい)成ったのだ。


「じゃあ、もう一回いくよ」


 (わず)かな(いら)立ちを含んだ声が、オーリの耳朶(じだ)に引っかかる。

 ウネンが、また、祈るように両手を胸の前で組み合わせた。モウルの術に意識を添わせ、魔術の『尻尾』を(つか)む練習をする、ということらしい。

 モウルが再び右手を振り上げた。彼が立っている場所を起点として、気持ちがいいほど均衡のとれた真円の波が草むらを走る。


「もっと意識を研ぎ澄ますんだよ。余計なことを考えない」


 苦みを増したモウルの声が辺りに響き渡り、ウネンがびくりと肩をすくませた。

 オーリは大きく息をつくと、二人の(そば)へと寄った。


「少し厳しすぎやしないか」


 オーリが言い終わるよりも先に、モウルが(やいば)のような眼差しで振り返った。門外漢が余計な口出しをするな、と言わんばかりの表情を受け、オーリは一度唇を引き結んでから、「その、なんだ、言い方が」とだけ付け足した。

 ふん、と、モウルが鼻を鳴らす。


「お優しいオーリくん、彼女の(じょう)術の腕前はさぞかし上達したんだろうね」


 嫌味を(したた)らせるモウルの(げん)に、さしものオーリも不愉快さを()み込みきれなかった。何より、ウネンの努力そのものを(わら)われたような気がして、オーリはモウルを威圧するようにして胸を張る。


「ああ」

「それなら、今度野獣退治の依頼でも受けたら、彼女も一緒に連れて行く?」


 オーリが言葉に詰まった隙に、モウルは更に言い募った。


「実戦で使えなきゃ意味がないんだよ。それに、仮に彼女がめきめき(じょう)術の腕前を上げたところで、この体格じゃ子供相手にしか通用しないだろ」


 そんなことはない、と反論するも、モウルは一向に聞く耳を持たない。


「腕の長さを考えてみたまえよ。どんなにわざを磨いても、越えられない壁ってのはあるんだから。ならば、なんとしてでも彼女には呪符を使えるようになってもらわないと。そのためには多少教え方もきつくなるさ」

「しかし」

「それとも、僕の代わりにオーリが教えてくれるとでも?」

「待って、待って!」


 先ほどからおろおろするばかりだったウネンが、ここでようやく二人の間に割り込んできた。オーリとモウルを交互に見上げて、「二人とも落ち着いて」と全身で訴えかけてくる。


「オーリの気持ちはとても(うれ)しいけど、ぼく、別にモウルのこと厳しいなんて思ってないから!」


 それならいいんだ、とオーリが言葉を収める傍ら、モウルが、ついとウネンから視線を()らせた。


 


 


 岩棚の前に戻ったオーリは、ウネンが真剣な表情で精神統一している様子をじっと見つめていた。

 モウルの教え方が悪いとは、オーリも思っていない。現にオーリも彼の指導のおかげで呪符を使うことができるようになったのだから。だが、オーリが呪符の使い方を教わった時は、モウルにはもっと余裕があった。「駄目でもともと」と笑えるほどの、気持ちのゆとりがあったのだ。

 チェルナの王都クージェを発ってから一箇月。何事もなければ、二週間もかからずにラシュリーデン領に到達できるはずだ。あの辺りは、昔からあまり治安がよろしくない。きっとモウルは、国境を越えるまでにウネンに呪符を使えるようになっていてほしい、と考えているのだろう。


 渋い表情で腕組みをするモウルの視線の先、ウネンがゆっくりと身体の前へと両手を伸ばす。

 オーリは静かに息を吐き出した。それから、そっと眉間の(しわ)を緩めた。彼女が「大丈夫」と言うのだから、それを信じてやらなくてどうするんだ、と。


『そうだね。たとえるなら。布地にうっかり織り込まれてしまった髪の毛を、指先で探り出し、爪でそっと摘まんで静かに引き抜くような』


 魔術について語る楽しげなモウルの声が、オーリの脳裏に(よみがえ)る。

 オーリには魔術の気配を読むことなどできない。〈(ささや)き〉とやらも聞こえない。それでもあの時、彼はモウルに手を引かれるようにして、虚空を探る指の腹に(かす)かな引っかかりを感じとることができた。恐らくはウネンも今、真っ暗闇の中、有るか無きかの気配の揺れを頼りに、モウルの立つ地平へと必死に手を伸ばしているところなのだろう。


「少し休憩しよう」


 モウルの声を合図に、ウネンが向こうの木陰へとよろよろと歩いて行った。枝にぶらさげていた水袋を取り、木の根元にぺたりと座り込む。

 と、傍らに派手な()め息を聞いてオーリが目を向ければ、モウルがぐったりと岩にもたれかかるところだった。

 オーリは前方へと視線を戻した。

 水を飲み終えたウネンが、「よいしょ」と腰を上げた。再び枝に水袋を引っかけ、懐から呪符を取り出す。モウルが戻ってくるまで自主練をしようというのだろう。

 思わずオーリは、ちらりとモウルを見やった。


「休憩って言ったんだから、僕は休憩するよ」


 にべもない言葉に、オーリの口からつい吐息が()れる。

 ウネンはといえば、オーリ達を気にするふうもなく、呪符を顔の前に掲げたままじっと目をつむっている。

 ふと疑問を覚え、オーリは再度モウルに目をやった。


「あいつは、なんでいちいち額に呪符をひっつけるんだ?」

「ああすれば術が発動し(やす)くなる、って教えたから」

「そうなのか」


 そんなこと俺の時は教えてくれなかったな、とオーリが心の中で(つぶや)いた時、モウルが事も無げに「いんや」と首を横に振った。

 驚きのあまり、オーリは二度三度とまばたきを繰り返した。


「違うのか?」

「残念ながら、そんな話は聞いたこともないね」

「でたらめを教えたのか?」


 一体何故、とオーリが眉をひそめれば、モウルがすうっと目を細めた。


「律儀に毎回ああやって僕の言いつけを守ってるの、実に健気だよね」

「お前……」


 オーリは奥歯をきつく()み締めた。何の実効性も無い身振りを、言われるがままに無邪気に繰り返すウネン。そんな彼女のことをモウルは陰であざ笑っていたのだ。

 胸の奥にむかつきを覚えると同時に、全身が一気に熱を帯びる。込み上げる怒りのままに、ウネンを止めに行こうとした瞬間、モウルが「特に、さ」と言葉を継いだ。


「あの、いっぱいいっぱい、って感じが、さ。見てて飽きない」

「はァ?」


 ()頓狂(とんきょう)な自分の声に自分で驚き、オーリは思わず右手で口元を覆う。大きく息を吸って、吐いて、なんとか呼吸を整えてから、彼は恐る恐るモウルに問いかけた。


「……ウネンを馬鹿にして喜んでいるわけじゃないのか」

「君は一体、僕のことをどういう人間だと思っているのかな」


 失礼な、と唇を(とが)らせて、そうしてモウルは底意地の悪い笑みを口元に浮かべた。


「それに君も、ああやってる彼女を見て『可愛らしいな』って思ってただろ? 同罪だよ、同罪」


 オーリは反射的に息を()み込んだ。慌てて反論を試みるも、言葉が喉につっかえて、しわぶきばかりが()()でる。

 ようやく(せき)が落ち着いたところで、オーリは深呼吸を一つした。背後の岩に寄りかかり、「お前なあ」と恨み節を口にする。いつの間にか、腹の底で煮えたぎっていたはずの怒りはすっかり冷めてしまっていた。


「しかし、でたらめだと知ったら……、あいつ、怒るぞ……」


 やはり、今からでもウネンに本当のことを教えに行ったほうがいいかもしれない。そう思い返して身を起こしたオーリを、いつになく真剣なモウルの声が引き止める。


「でたらめとは限らないさ。ああいうふうに、頭脳に一番近いところの肌で直接呪符を感じることで、意識を集中し(やす)くなるかもしれない」

「なるほど」

「ホント、君らは(ぎょ)(やす)いな……」


 ぼそりと付け加えられたモウルの言葉に、オーリは思いきり目を()いた。


 


 


 休憩を終えてからというもの、モウルの指導は更に熱が入ったものとなっていた。呪符の特訓にここまでまとまった時間を取れたのは初めてだったから、余計に気持ちが(はや)っているのかもしれない。焦りを含んだモウルの声を聞くたびに、オーリは、これもウネンの身を案じてのことだから、と自分に言い聞かせ、傍観者に徹しようと努めていた。


「ああもう、そうじゃないってば。もっと肩の力を抜いて、胸の奥とか頭の後ろから手を伸ばす感じで……」

「そんな感覚的で観念的なことを言われても、どうやったらいいのか分からないよ」


 度重なるお小言に耐えきれなくなったか、とうとうウネンが不貞腐れた表情でモウルを(にら)みつけた。

 対するモウルも負けず劣らずの不機嫌顔で、ウネンに覆いかぶさるように身を乗り出す。


「君は魔術を〈(ささや)き〉で捕捉できるんだろ? じゃあ、それに合わせて君のほうから何か働きかけることもできるはずだ」


 その一瞬、モウルの瞳に切々たる懇願の色を見とめ、オーリは知らず歯を食いしばった。


「君には素質が有るはずなんだよ。この、魔術の気配どころか場の空気を読むのすら苦手なオーリだって、簡単な呪符なら使えるようになったんだから。幸い君は〈(ささや)き〉とやらを感じることができる。なら、あとはただひたすら試行錯誤あるのみ、だよ」

「だから、その試行錯誤するのにも、試してみた結果がきちんと正確に把握できない状態だと難しいわけで」

「そのあたりは、もう自分の直感を信じるしかないよ。『考えるな、感じろ』ってやつだって言ったろ」

「それは解ってるし、これでも頑張ってるつもりなんだよ」


 オーリには、モウルの思いが痛いほど理解できた。だが、同時に、ウネンの気持ちも同じぐらいかそれ以上に分かる。

 オーリは意を決した。傍観者の席をあとにし、(にら)み合う二人の前に立つ。


「お前は、口笛は吹けるのか?」


 唐突な問いかけに不思議そうな顔をしたものの、ウネンは素直に「うん」と(うなず)いた。


「吹けるよ」

「どうやって吹けるようになった?」

「なんか、見よう見まねでフーフー頑張ってたら、ある日突然、(かす)れてはいたけどピーって音らしきものが鳴って、それを手掛かりにヒューとかヒョーとか試しているうちに、段々まともな音が出るようになってきて……」

「オーリ。関係の無い話は、あとにしてくれないか」


 一段低い声で(とが)めるモウルを右手で制しながら、オーリは話を続けた。


「俺が呪符を使えるようになった時も、そんな感じだった」


 ウネンが、そしてモウルが、あ、と目を見開く。


「目を閉じて、織物に交じった髪の毛を探すように、とお前は言っていたな。何度も何度も細い繊維や糸くずを摘まんでは、これではなかったか、と、次を探り続けて……」

「要するに、いきなりきちんとした術をひっぱり出そうとせずに、最初のうちはヒューとかヒョーとか試してみろ、ってこと……?」


 考え込むウネンを、モウルが()め息とともにねめつけた。


「だから、僕はさっきからずっとそう言ってる」

「うん……よく考えたらそのとおりだね。ごめんモウル。でも、ヒューとかヒョーってのが、なんだかとても()に落ちて」

「じゃあ、僕なんかじゃなくて、説明の上手なオーリに教わりなよ」


 実に大人げない調子で、モウルがウネンからぷいっと顔を(そむ)ける。

 オーリは内心で頭を抱えた。そこは、自分の至らなさを反省するところではないのか、と。

 これで話を終わらせておくつもりだったが、仕方がない。オーリは深く嘆息した。そもそも、先刻からのモウルの不躾(ぶしつけ)な態度を考えれば、多少の反撃は許されるだろう。


「口笛も、最初のきっかけまでが一番難しいからな。どんなに『理屈は解ってるんだ』と息巻いたところで、ただひたすら『見よう見まねでフーフー』するしかない」


 モウルが覿面(てきめん)に頬を引きつらせる。

 オーリは、何も見なかったふりをして、ウネンに語り続けた。


「暇さえあれば唇を(とが)らせてフーフーやってれば、そのうちにできるようになるだろう。上手くいかないからって癇癪(かんしゃく)を起こすのも有りだ。夜中に突然『口笛が吹けるようになったよ!』と他人を(たた)き起こしに来ない限りは、な」


 オーリが話し終えるなり、ウネンが目をしばたたかせた。瞳をぐるりと巡らせたのち、ちらりとモウルに視線を投げる。

 伝わったか。オーリは笑みが(こぼ)れぬように、今一度唇に力を込めた。


「もしかして、それって……」

「あくまでも、たとえ話だ」

「なるほど、たとえ話ね」


 そうか、そうだ、と二人で(うなず)き合っていると、モウルが苦々しげに舌打ちをした。


「そうかい、そうかい。そういうつもりなら、君ら二人で勝手にすればいいさ! 僕はもう知らないからな!」

「たとえ話だと言っただろう。なんでお前が怒るんだ」


 途端に、モウルが口をあんぐりとあけて固まった。

 (ぎょ)(やす)いと思っている人間に、逆にモウルのほうが(ぎょ)されたのだ。さぞかし悔しい思いをしているに違いない。オーリは密かに溜飲(りゅういん)を下げる。


「オーリ……、お前……」


 歯ぎしりの音が聞こえそうなほど奥歯を()み締めるモウルに、ウネンが遠慮がちに声をかけた。


「あのさ、モウル」


 モウルが、無言でウネンのほうを振り返った。


「ぼく、なんとか『フーフー』を頑張ってみるから、また『ヒュー』や『ヒョー』って音が出るようになったら見てくれる?」


 一呼吸、二呼吸。しばしの沈黙を経て、モウルがこれ見よがしな()め息を吐き出した。

 ほんの一瞬だけ、ぎろりとオーリを(にら)みつけてから、モウルはウネンの正面に向き直る。


「音階を気にするよりも先に、まず『ピー』って音を出さなきゃいけないだろ」

「あ、そうだった」


 やれやれ、とモウルが肩を落とした。小さく鼻を鳴らして姿勢を正し、右手を空へと差し伸べる。


「モウル?」

「方向音痴が何人集まったところで、目的地に無事到着できるはずがないんだよ。これ以上無駄な時間を費やすわけにはいかないだろ」


 モウルが話し終わると同時に、風が彼の周りで渦を巻いた。

 ウネンが、両手を組み合わせて目をつむる。

 オーリは二人の邪魔にならないよう、再び岩棚の前へ戻っていった。

 

 

 

    〈 了 〉


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