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真夏に降る雪 (後編)

 

 

 森の中心部へ向かって、三人は歩き続けた。

 生い茂る下草を踏み分け、木の枝を払い、汗だくになりながら木漏れ日の中を進んでいくうちに、オーリは、微かな違和感を抱き始めていた。

 何か言葉に言い表すことのできない、もやもやしたものが、静かに胸の奥に降り積もっていく。

 長い旅の途中、こうやって森の中を行くことは何度もあった。人の手によって管理された森もあれば、野獣が支配する深い森もあった。それら記憶の中の風景を踏まえて、今、目の前に展開する景色を眺めても、なんらおかしな点は見受けられない。どちらを向いても、ごく一般的な、人里近い森の風景に他ならなかった。

 なのに。オーリは唇を噛んだ。なのに、何かが違う。

 鳥の声も、虫の羽音も、踏みしめる土の柔らかさ、衣を撫でる木の葉の感触、全てが馴染みのあるものにもかかわらず、どうしても拭いきれない、違和感……。


 


 小さく息を呑んで、オーリは足を止めた。

 次いでモールが、そしてアルバも、同様に立ち止まりオーリを振り返る。


「……分かった」

「何が?」


 どこか嬉しそうにモールが問いかけてくる。オーリはおのれの手元に視線を落とした。


「無い、んだ」

「無い、って何が?」


 目の前の霧が、ぱあっと晴れたようだった。気づく、ということは、こんなにも高揚するものなのか。熱い塊が、胸の奥から一気にせり上がってくる。


「払いのけた小枝がしなって腕を打ったり、浮石を踏んでよろめいたり、羽虫に刺されたり、そんな思いもかけない厄介事に、この森に入ってから一度も出くわしていない」

「つまり?」


 モールが、話の先を促しながら、身体の陰でそっと印を結んでいる。

 構わず、オーリはモールの肩越しにアルバを睨みすえた。


「つまり、この風景は、『まがい物』なんじゃないか、ってことだ」


 狼狽の色もあらわに、アルバが一歩あとずさった。

 その隙を狙って、モールがひと息に呪文を詠唱する。

 アルバが体勢を整えようとする間もなく、モールを中心に目に見えないちからが弾け散った。


 


 


 ちからの奔流の次にオーリの身体を打ったのは、身を切るような冷たい風だった。まるで真冬の山のごとく、痛いほどに冷え切った空気が、あっという間にオーリの全身を覆い尽くした。

 吸い込んだ息のあまりの冷たさに、鼻の奥に痺れが走る。思わず口で呼吸をするも、口腔内に氷を詰められたかのような感覚に陥り、オーリは思わず息を詰まらせた。

 先刻まで汗ばんでいた肌が急激に冷やされ、身体中の筋という筋がこわばっていく。

 何が起こっているのか理解できず、半ば恐慌をきたしながら、それでもオーリは本能的に首を巡らせると、周囲の状況を確認しようとした。


 吐く息で白く霞む視界の中、ゆっくりとこちらに近づいてくるのは、アルバだ。

 震える身体に鞭打って、オーリは腰の剣に手を伸ばした。引き攣れる指に力を込め、剣の柄を握る。慎重に鞘から抜き、身体の前に構えようとした次の瞬間、あろうことかオーリは大剣を取り落とした。

 金属質な音が、耳の奥に何度もこだまする。

 あまりの寒さに、指に力が充分に入らない。まるで籠手ごと凍りはじめているかのようだ。

 慌てて剣を拾おうと身を屈めるも、その動作が自分でも馬鹿みたいにやけにのろく感じられる。


 気配を感じて見上げれば、すぐ目の前にアルバが立っていた。

 彼は、オーリを見据えたまま両手を前に差し伸べ、躊躇うことなく呪文を詠み上げる。

 絶望的な心地で歯を食いしばったオーリの身体を、温かい空気が包み込んだ。


 


 


「これほどまでとは、ね」


 いつになく厳しい声で、モールがオーリの傍に立った。


「立てるかい?」


 自分達がどういう状況にいるのか訊ねようにも、どこから問えばいいのかさっぱり解らず、オーリは剣を収めるなり無言のままに立ち上がった。どうせモールは、自分の言いたい時に、言いたいことしか喋らない。なるようになれ、と、溜め息をついてから、オーリは改めて辺りを見まわした。

 周囲の景色は、驚くほどに一変していた。

 緑豊かな夏の森は、白と黒ですっかり塗り替えられてしまっていた。一面に霜の降りた地面から、葉を落とした木々の幹が、まるで影絵のように無言で立ち並んでいる。上空から差し込む日の光は、間違いなく夏の日差しそのものであったが、圧倒的な冷気の前に、ただ虚しく枯葉に張った氷を輝かせるばかりだった。


「いやあ、ここまで凄いことになっているとは思っていなかったから、自分の分の術に思ったよりも手間取っちゃったよ。アルバ様に施術してもらったんだね。……ありがとうございました」


 モールの言葉を受けて、オーリもアルバに礼を言った。彼の術が、あの恐るべき寒さからオーリを守ってくれているということは、なんとか理解できたからだ。

 さて、と大きく息を吐き出してから、モールが姿勢を正した。真っ直ぐにアルバを見つめ、一言一言噛み締めるように吐き出していく。


「……これはあなたの仕業ですね」


 


 静まり返った氷の森に、モールの声だけが響き渡る。


「調査のたびに原因不明といわれている――言い換えると、何も問題がない、ということ――にもかかわらず、森の奥を『危険』とみなして目くらましをかける。それも、多大な手間とちからをかけて。これが、僕が最初に気になったことだった。一体、何故、そんな無駄なことをするのか。同じ労力を費やすなら、もっと他にするべきことがあるはずだ」と、そこでモールは一旦言葉を切り、鼻を鳴らした。「要するに、あなたは知っていたんだ。ここに『危険』が『隠されている』ということを」


 ああ、とオーリは嘆息した。問題が「冷たい風」だけであるならば、そして、真に森自体に原因が見つからないのならば、立ち入りを禁ずる理由などどこにもないのだ。町の人間が騒ぐ騒がないという話も、作物の出来の如何によるわけで、目くらましの術が人々の動揺を抑制しているわけでは、決してない。

 オーリはアルバを見やった。

 アルバは表情一つ変えず、じっとモールを注視し続けている。


「目くらましを無効にさせるといいながら、あなたは別な術を僕達にかけた。意識のより深い階層に、より強いまやかしの術をね。

 僕達はさっきまで、自分が作り出した『かくあるべき森』を歩いていたんだ。だから、オーリが言ったような『思いもかけない厄介事』は起こらなかった。思いもかけない、つまり『かくあるべき』と意識されないことは、再現のしようがなかった、ってわけさ」


 そこでモールは言葉を切って、にやり、とオーリに笑いかけてきた。


「それにしても、オーリの野性の勘は素晴らしいね。よくぞ気づいてくれたよ」


 まさか、そこまで他人任せの策だったのか。そんなオーリの心の声が届いたのか、モールが小さく首を横に振る。


「いや、まやかしの正体にはなんとか気づけたんだけど、それをどこからどうやって破るか、考えあぐねてたんだ。君が綻びに気づいてくれたから、揺さぶりをかけることができた。おかげで、術を破るのも簡単だったよ」


 モールは再びアルバに向き直った。真っ直ぐに目を見つめ、静かに問う。


「このまやかしは、あなたによる『腕試し』だった。違いますか? 自分よりも腕の劣る術師を、ここに来させるわけにはいかなかった。そうですよね」


 アルバの瞳が揺れる。

 モールが深く息を吸った。


「あなたは、ここで、何をしたんですか?」


 


 気が遠くなりそうなほどの沈黙ののち、アルバが、がくりと肩を落とした。綺麗に撫でつけられていた髪は乱れ、引き結ばれた口元には深い皺が影を作っている。彼はまるでこの数刻の間に、十も老けてしまったように見えた。

 二人が見守る中、初老の魔術師はふらりと背中を見せると、そのまま向こうへ歩き始めた。ついて来いと言わんばかりに一度だけこちらを振り返り、凍りついた大地を踏みしめていく。


 大して進まないうちに、目の前が大きく開けた。

 オーリ達は、大きなすり鉢にも似た窪地の縁に立っていた。へこみの底へと向かう緩やかな斜面が、一面霜の絨毯に覆われている。恐らくここが、例の遺跡なのだろう。

 その中央に、白く輝く球体があった。

 直径は大人の背丈ほどはあろうか、陽光に煌いて見えるのは、どうやら表面に霜がびっしりとついているせいのようだ。

 術で防護されているにもかかわらず、手足を動かすたびに、身体のあちこちを冷気が舐めた。生身のままだったら、きっと一呼吸の間に血の一滴まで凍りついてしまったことだろう。もしも今この術が解けてしまったら、と考えて、オーリは身の毛がよだつ思いに襲われた。


「妻が病にかかったのだ。不治の病だ」


 唐突に、アルバが話し始めた。


「彼女を失うぐらいならば、このまま時よ止まってしまえ。私はそう願った」


 アルバの声は、あくまでも平坦だった。だが、握り締められたこぶしが微かに震えているのを、オーリは見逃さなかった。


「時は、決して止められない」


 冷ややかな声に、アルバも、オーリも、思わずモールを見やった。


「時を司る神なんていない。何故なら、神もまた、時に縛られた存在なんだから」


 そうだな、と、アルバが溜め息をついた。


「時間そのものを操られないのならば、せめて彼女の時を止めたかった。まもなく訪れるその時を、少しでも先送りにしたかった。

 そんなある日、私は仕事で訪れた隣国の王宮の書庫で、一冊の古い本を見つけた。そこには、こう書いてあった。『全ては流転する。なぜなら、ヒトも、動物も、物も、全てその内部に時を刻むちからを有しているからだ』と」


 アルバの口元から、歯軋りの音が聞こえたような気がした。


「その『ちから』さえ奪い取ってしまえば、彼女の時は止まる。そう考えた私は、死に物狂いでその『ちから』を司る神の真名(まな)を探した。何度も試行錯誤を繰り返して、そして遂に一つの呪文を編み出した……」

「まさか……!」


 モールが血相を変えて氷の球を振り返る。

 アルバはゆっくりと頭を横に振った。


「違う。彼女ではない」


 安堵の溜め息を漏らすモールに、アルバは寂しそうに微笑んだ。


「編み上げた呪文の効果を見るために、私はここへやってきた。城の厨房で捕まえた鼠を持って」


 そうして、アルバは両手を大きく広げた。ぐるりと周囲を見渡し、見たまえ、と胸を張る。


「その結果が、これだ!」


 悲痛な叫びが、オーリの胸を打った。


「術をかけ終わるなり、鼠は塩の柱と化し、粉々に砕け散った。石の台も、土も、落ち葉も、設定した効力範囲内にあった全てのものも同様に微塵となった。そして、凄まじい冷気を吐き出し始めた……。

 なんとかして術を解除しようと頑張ってみたが、ことごとく失敗に終わった。もう私にできることは、この森を封印し、これを鎮めることができる者が現れるのを待つだけだった……」


 全てを語りきって、アルバが力無くうなだれる。

 ふう、と息を吐き出して、モールが両手を腰にあてた。


「神の真名を知ったところで、こんな大ごとな呪文、普通なら簡単に編めるはずがないんですよ」

 もう一度嘆息してから、呆れ顔をそっとおさめて、言葉を継ぐ。「だが、あなたはやり遂げた。素晴らしい才能をお持ちだったんですね」


 アルバが驚きの表情で顔を上げた。


「その証拠に、あなたは、ここ、ひとけの無い打ち捨てられた遺跡を実験場所に選んでいる。術の危険性をどこかで予見していたのでしょう?」

「君は……?」

「あなたが読んだのよりも、もっともっと古い書物を、読んだことがあるんです。魔術とは違う(ことわり)を記した、失われた文明の書物を、ね」


 モールは、淡々と語り続ける。


「この世に存在する物質は全て、目に見えないほど小さな要素が幾つも組み合わさってできている。それら小さな要素達は、それぞれ目に見えない範囲で常に動いている。熱を発している。その動くちからを取り上げるということは、熱をも奪うということに他ならない」


 その本は、オーリも以前見たことがあった。彼らの里に脈々と伝わる、門外不出の、何代も写本を繰り返した書物。大昔、先祖達がこの大地に降り立った時に、神々の怒りに触れて奪い取られた叡智の残滓。尤も、その内容の大部分は、オーリにはさっぱり理解できなかったわけだが。

 だが、モールは違った。

 オーリは、熱弁をふるうモールをじっと見つめた。彼なら、「この世の(ことわり)」を、いつの日か解き明かすことができるかもしれない。そうして、誰もが夜の闇に怯えずにすむという楽園を、この地に再び……。


「原子における全ての運動が静止すれば、理論上、その温度はマイナス二七三度となる。奪い取ったちからが、あの力場を構成するのに使われているとしたら、ちからを解放しない限り、永遠に絶対零度が続く、というわけか……」

「おい」


 オーリの一声で、ようやくモールは我に返った。呆気にとられているアルバに、ばつの悪そうな笑みを向ける。


「ああ、すみません。まあ、要するに、術を解除しない限り、この状況がずっと続く、ということです」


 ずっと続く、という言葉を聞き、アルバの瞳に絶望の色が入る。それから彼は、必死の形相でモールに取り縋った。


「お願いします! どうかこの術を解いてください! 貴公ならできるのでしょう?」


 アルバを助け起こしながら、モールは口角を上げた。


「僕()なら、ね」


 


 モールは、気合いを入れるように袖まくりをしてから、オーリを振り返った。


「さて、オーリ、剣を貸してくれるかい」


 オーリが黙って差し出した剣に、モールがそっと手をかざした。楽器を爪弾くかのように、軽やかに指を動かして、歌うように呪文を奏でる。


「さ、これであれを真っ二つに切り捨ててくれ」

「お前がするんじゃないのか」


 どうせこんなことだろうと思ったよ、とオーリはこれ見よがしに肩を落としてみせた。


「力仕事は君の担当だろ。僕は援護にまわるから」

「何が援護だ」


 憮然と相棒をねめつけるオーリの前に、アルバが立った。そして、深々と頭を下げる。


「どうか、よろしくお願いいたします」


 憔悴しきった顔を直視できずに、オーリは僅か視線を外した。妻の病気、術の暴走、その対処、……きっとこの数ヶ月、彼には心休まる日は無かったに違いない。

 オーリは自分の手元に目を落とすと、静かに口を開いた。


「ちから持てる者には、それ相応の義務が生じる。俺はただそれを果たすまでだ」


 それは、小さい頃から彼らが言い聞かされ続けてきた言葉だった。失われた(ことわり)を秘匿する一族の、業ともいうべきもの。オーリは、それを今また改めて自身に言い聞かせる。

 息を呑む気配を感じ、オーリは顔を上げた。

 アルバと、正面から目が合った。

 愕然と見開かれた目が切なそうに歪んだかと思えば、やがてアルバは決意を込めた眼差しで、大きく力強く頷いた。


 


 


 静寂の中、オーリは氷の球と対峙した。

 魔術の防御を突き抜けて、うねるようにして襲いかかってくる圧迫感。

 オーリは胸一杯に息を吸い込んだ。両足をしっかりと踏みしめ、心持ち腰を落として、両手で大剣を構える。


 


 気合とともに、銀の刃が閃く。

 次の瞬間、球のあったところから、凄まじい風が周囲へと吹き出した。

 無数の氷片が光線を描き、氷土や礫すらもが矢のように飛散する中、青白く輝く魔術の盾がオーリの身体を危難から護る。


 


 


 


 風がおさまり、広場は静けさを取り戻した。

 降りそそぐ夏の日差しに、霜はゆっくりとその透明感を増さらせ、やがて雫となって、そこかしこで宝石のように輝き始める。

 と、まばゆい光の粒が、辺りにはらはらと舞い降りてきた。

 先刻の突風で巻き上げられたのだろう、小さな小さな氷のかけらが、まるで雪のように、青空を背景に降ってくる。


「結局、何が墜落した跡だったんだろう……」

「さあな」

「柱や壁が残ってた、ってことは、やっぱり、シップとか、せめてプローブとか……」

「なんにせよ、今回のことで全部粉々になってしまったみたいだがな」


 事も無げなオーリの声に、モールが特大の溜め息をついた。失意を振り払おうとでもいうかのように、二度三度と首を横に振って、もう一度大きく息をつく。


「あーあ。酒場の親父に、何て報告しよう……」


 オーリは、なおざりに「さあな」とだけ返してから、モールの傍らで力無くへたり込んでいるアルバを助け起こした。


「あれ? 『さあな』って、なんで他人事?」

「酒場にはお前一人で行けばいいだろう。俺は、この人と城に帰るから」

「ずるいぞオーリ」


 ふん、と鼻を鳴らすオーリの肩に、氷の結晶がふわりと乗って、……溶けていった。

 

 

 

    〈 了 〉

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