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響銅《さはり》の音

 

 

 うちひしがれるヘレーに冷笑を突き立てて、マンガスは(きびす)を返した。

 ウネンは、来た時と同じように、兵士とマンガスとともに地下(ろう)をあとにした。

 マンガスは、二つ目の採光窓の下にある扉の前で足を止めると、兵士に一言二言何かを(ささや)いて扉の向こうへと消えた。おそらくその扉が、この建物の出入り口なのだろう。螺旋(らせん)階段の外側の壁に設けられた扉は、その一つきりだった。


 


 最初の部屋に戻されたウネンは、ただ茫然(ぼうぜん)と立ち尽くしていた。

 背後の扉は、兵士によって施錠されてしまった。

 採光用の狭窓(さまど)はウネンならなんとか通れなくもない大きさだが、いかんせん床からの高さがウネンの身長の三倍ほどある。


 何もできない、とウネンは唇を()んだ。そう、何もできなかった、と。

 先刻の地下(ろう)でも、ウネンはぼんやりとマンガスの横に突っ立っているだけだった。兵士に首に剣を突きつけられていたとはいえ、声すら出せなかった自分があまりにも情けない。


 リーン……


 憎らしいほどに澄みきった音が、ウネンの()め息をかき消した。

 テーブルの上には水の入ったカップとパンの皿が置かれていたが、ウネンはとても手をつける気になれなかった。重苦しい頭を持て余しつつ、ウネンは寝台に腰をおろした。

 ふかふかの敷布に体重を預けた途端、怒濤(どとう)のごとく眠気が押し寄せてきた。

 ついさっき起きたばかりだというのに、まだ眠いなんて。頭にかかる(もや)を振り払おうとしたウネンは、眩暈(めまい)に襲われてあえなく寝台の上に倒れ込んだ。


 リーン……


 圧倒的な睡魔が、ウネンの上にのしかかってくる。

 寝ている場合じゃないのに。何かできることがあるはずなのに。か細い(つぶや)きを残して、ウネンは深い闇へと沈んでいった。


 


 


 どれぐらい眠ったのだろうか。部屋の鍵をあける音でウネンは目を覚ました。


「よく眠れたかい」


 寝起きの朦朧(もうろう)とした頭を振りつつ身を起こせば、相変わらずの仮面の男が立っていた。


「約束の時間だ。君にも来てもらうよ」


 前回と同じくマンガスと兵士に連れられて、ウネンは螺旋(らせん)階段をくだっていった。重い足を引きずり引きずり、何度も段を踏み外しそうになりながら。

 昨日にも増して身体がだるい。とにかく頭がぼんやりする。なんとかして事態を打開しなければ、と思うのだが、考えがまったくまとまらない。そればかりか、何をやっても無駄だという気分になってくる。ウネンはどうしようもないままに、ただ機械的に足を動かし続けた。


 やがて一行は、再びあの地下(ろう)の前へと降り立った。

 マンガスが扉をあけると同時に、風鈴の音が(よど)んだ空気を貫いた。


 リーン……

 リーン……


 がらんどうになったかのようなウネンの頭蓋(とうがい)で、涼しげな音色がこだまする。

 鉄格子の向こうのヘレーは、昨日に比べて驚くほど小ざっぱりとした姿になっていた。(ひげ)はきれいに()られ、沐浴(もくよく)をさせてもらったのだろうか、うす汚れてぼさぼさだった髪もきれいにまとめられている。

 思った以上に血色の良いヘレーの顔を見て、ウネンは(もや)のかかる頭の片隅で「良かった」と(つぶや)いていた。


「さて、答えを聞こうか」


 マンガスが鉄格子の前まで進み出る。

 兵士が剣をウネンの首にあてた。


「私が君の(もと)にくだれば、彼女を無事解放してくれるのか」


 ヘレーが寝台から立ち上がった。足に(つな)がれていた鎖は既に無い。マンガスとの取引がどういう結果に終わるにせよ、これ以上彼をここに拘束しておく必要はなくなった、ということなのだろう。


「ああ」


 鷹揚(おうよう)(うなず)くマンガスに、ヘレーは細身の剣のごとき視線を突き刺した。


「分かった。君の言うとおりにする。だから、彼女をもといた場所に帰してやってくれ」


 ヘレーの返答を聞くや、マンガスが皮肉混じりに口の()を上げた。


「実に模範的な回答だが……、その眼差しが全てを台無しにしているな」


 そうしてマンガスは、ヘレーをじっと見つめたまま喉の奥で小さく笑う。


「表向きは従順に振る舞うが、心までは売り渡さない、と思っているのだろう? とりあえずこの局面を乗り切って、逃げ出す機会を(うかが)うつもりなんだろう?」


 ヘレーの唇がきつく引き結ばれる。

 マンガスは完璧な笑みを浮かべて、兵士に捕らえられているウネンを振り返った。


「まあ、もしも君が首尾よく我が手から逃げおおせたとして、その時はこの子をまた捕まえてくるだけのことだ。そして文字どおり、彼女は指折り数えて君が戻る日を待つことになるだろう。最初は左足の小指、次は薬指、そして……」

「貴様ぁ……!」


 ヘレーが怒号を上げた。鉄格子に飛びつき、憤怒の表情でマンガスを(にら)みつける。

 その瞬間、マンガスの口元が歓喜に(ゆが)んだ。


「隙を得たり!」


 高らかな声とともに、マンガスはマントの下から小さな手搖鈴(ハンドベル)を取り出した。ヘレーがまたたきをするよりも早く、その(りん)をヘレーの額にかざし、強く、振る。


 リィーン……!


 全ての音を、さんざめく〈(ささや)き〉を、(りん)の音色が粉砕した。

 犀利(さいり)な音は、ウネンの鼓膜を突き通し、脳髄を鷲掴(わしづか)みにする。


 突然の衝撃に、ウネンは反射的に身を折った。

 (りん)が放ったちからの奔流(ほんりゅう)が、ウネンの身体に襲いかかる。内部を満たし、渦を巻き、更に(かさ)を増すその圧に、全身が今にも弾けてしまいそうだ。


 あまりの息苦しさに胸元を押さえた手が、何か硬いものに触れた。

 それは、リッテンの古道具屋で手に入れたマントの留め具だった。ヘレーが愛用していたそれを、ウネンはおまもり代わりにずっと服の胸元につけていたのだ。


 ウネンは、無我夢中で留め具を握りしめた。

 手のひらに飾りが食い込む痛みが、ウネンの意識を引き()める。

 震えるほどに奥歯を()みしめ、ウネンは脳髄にかけられた爪を一つ一つ引き()がしていった。息も絶え絶えに顔を上げれば、マンガスがウネンを見て感心したように口角を上げる。


「ほう、踏みこらえたかね。まあ、まだ一日かそこらでは下地も完璧とはならないか。とりあえず君には、もうしばらくここで暮らしてもらうよ」


 ヘレーとの取引など無かったとばかりに、マンガスが微笑(ほほえ)んだ。それから再度ヘレーのほうを振り向くと、鉄格子の鍵をあけた。


「さあ、ヘレー、行こうか。陛下がお待ちだ」

「はい」


 気持ちが悪いほどに平坦(へいたん)な声が、ヘレーの口から()()でた。


「娘さんとは、またのちほど親子水入らずの時間を設けよう。のちほど、に」

「ありがとうございます」


 深々と礼をしたのち、ヘレーはマンガスのあとについて出口へと向かった。ウネンの横を、ついと通り過ぎて。


「ヘレーさん!」


 ウネンは慌ててヘレーのあとを追おうとした。

 だが、一歩も進まないうちに兵士に腕を(つか)まれる。


「待って! ヘレーさん! ヘレーさん!」


 ウネンは必死でヘレーの名を呼んだ。兵士の手を振り払おうと、もがきながら、暴れながら、声の限りにヘレーを呼ばわった。

 無情な音をたてて、扉が閉まる。

 ウネンは呆然(ぼうぜん)と暴れるのをやめた。

 ヘレーは、一度としてウネンを振り返らなかった。振り返ろうとする素振りすら見せなかった……。


 


 どれくらいの時間が経ったのだろう。ぼんやりと立ち尽くすウネンの背中に、兵士が声をかけた。


「部屋までお送りいたします」


 初めて耳にした兵士の声は、立ち去る間際のヘレーの声のように抑揚に乏しかった。やはり彼も、ヘレーと同様、あの得体のしれない(りん)の術で意思を封じられているのだろうか。

 ウネンが返事をしないでいると、兵士がまたもウネンの腕を(つか)んだ。

 力ずくで連れていかれるのは御免だ、と、ウネンは兵士の手を振りほどいた。それから自ら率先して扉をあけた。


 先刻とは異なり、兵士は今度はウネンを引き止めなかった。部屋の壁にかかっていたランプを手にすると、黙々と階段を上るウネンのすぐ後ろを、同じく黙ってついてくる。

 かしゃりかしゃりと薄片鎧(ラメラーアーマー)が、ウネンの背後で規則正しい音を刻む。


 一つ目の採光窓の下まで上ってきたところで、ウネンは足を止めた。間を置かず後ろを振り返り、左右の壁に両手を突っ張って身体を支え、そうして思いっきり兵士の胴に蹴りを入れた!

 完全に想定外の出来事だったか、はたまた意志封じの術の影響か、兵士は防御一つとることなく、悲鳴も上げず、背中から暗闇へと落ちてゆく。


 ウネンは即座に体の向きを戻し、階段を駆け上がった。

 何度も眩暈(めまい)を覚えて倒れかけるも、そのたびにウネンは気力を振り絞って体勢を立て直し、上へと進む。


 外に(つな)がる扉は施錠されていた。その他の内側の壁にある扉も同様だった。何かどこかに逃げ道はないだろうか。ウネンはひたすら上り続ける。

 ウネンが閉じ込められていた部屋への入り口を通り過ぎて、更に螺旋(らせん)を一周ほど。ウネンの行く手に扉が立ち塞がった。ここが階段の終着点なのだ。

 疲労のあまりその場に崩れ落ちそうになりながらも、ウネンは扉の握りに手をかけた。


 扉に鍵はかかっていなかった。ウネンは無我夢中で扉をあけた。

 (まばゆ)い青空が目の奥を射た。次いで、新鮮な空気が塊となってウネンの顔面にぶつかってくる。明るさに目が慣れるのを待つのももどかしく、ウネンは外の世界へ一歩踏み出した。


 そこは塔の屋上だった。ウネンの立つ位置からは空しか見えぬ、高い、高い、塔だった。

 ウネンは屋上の(へり)に駆け寄った。胸壁から身を乗り出して、周囲を見渡す。


 左方すぐの所に大きな石造りの建物があった。屋上ではためく旗に、王冠をかぶったヒグマの紋章を見て、ウネンはここがヴァイゼンの王城であることを確信する。

 右手には、こんもりと茂る緑の木々。視線を正面へと向ければ、城壁の前に大きな(うまや)が見える。そして城壁の向こうには町が――〈内側の町〉が広がっていた。


 ウネンは再び第一城壁の内側へと目を戻した。(うまや)とこの塔の間には倉庫か何かの小さな建物が二つ。更に視線を手前へ、塔の真下へ向ければ、(はる)か下方に塔の入り口と、そこに至る階段が見えた。


 塔の入り口から真上に向かっては、等間隔で採光窓が穿(うが)たれていた。背の高い大人ならば、その採光窓と壁の凹凸を足がかりにして、ここから逃れることができるかもしれない。

 しかし、ウネンの体格では、とてもそんな離れ業は望めなかった。おのれの背の低さを心の底から呪いながら、ウネンは次なる手を模索する。


 (うまや)に出入りする人影を見て、ウネンは唇を引き結んだ。ここからなら、思いっきり大声で叫べばあそこにいる人々に声が届くかもしれない。マンガスが他人の意志を封じる術を使っているということ、ウネンを(さら)いにマンガス本人が直々にやってきたことを考えると、城にいる全員がマンガスの味方だというわけではないのだろう。ならば……。


 いざ、と胸一杯に息を吸い込むなり、ウネンは喉元に違和感を覚えた。大声を出すどころか息苦しさに襲われ、胸壁に手をついて何度もむせる。

 (せき)を繰り返すうちにまたも視界がぐらりと揺れ、再びの眩暈(めまい)がウネンから平衡感覚を奪った。


「安心したまえ。君はまだ殺さない」


 背後からマンガスの声が降ってくる。

 ウネンは朦朧(もうろう)としながらも後ろを振り返った。


「さっきのヘレーの様子を見る限り、君には、まだ当分は生きていてもらったほうが利があるようだからね」


 逆光となったマンガスの(おもて)で、仮面の(ふち)がぎらりと光る。

 また、何もできなかった。悔しさと腹立たしさを両手に握り締めたまま、ウネンは意識を失った。


 


 


 重い(まぶた)を開けば、闇に沈む半円形の天井が見える。

 これが夢だったら良かったのに、と、絶望的な心地でウネンは寝返りを打った。

 塔の屋上でマンガスは、「君は()()殺さない」と言っていた。つまりそれは、用済みになり次第ウネンを始末するつもりでいる、ということに他ならない。ぼくは殺されてしまうのか。まるで他人事のように、ウネンはぼんやりと考える。


 リーン……


 ふと、オーリ達はどうしているんだろう、とウネンは口の中で独りごちた。きっととても心配してくれているんだろうな。そう素直に思えたことに、ウネンの胸の奥底が(ほの)かに温かくなった。たぶん二人は、必死になってウネンの行方を捜してくれていることだろう。せめて、ヘレーさんが王城に捕まっているということだけでも彼らに伝えられたらいいのに。そうウネンが()め息を吐き出した、その時。


 リー……


 何の前触れも無く、風鈴が沈黙した。

 完全な静寂が、部屋の中に降りる。

 ウネンはそろりと寝台の上に身を起こした。

 うるさかった〈(ささや)き〉がやんだことで、頭の中の(もや)がほんの少しだけ薄くなったような気がした。


 唇を引き結ぶと、ウネンは慎重に立ち上がった。身体は相変わらずだるいままだったが、気力を振り絞って狭窓(さまど)のある外壁へと近づいてゆく。


 この塔の外壁は、壁の中をくり抜くようにして通っている螺旋(らせん)階段の分だけ厚くなっているため、より多くの光を室内に入れるべく、狭窓(さまど)の室内側は四角いラッパのように大きく広がった形状をしていた。その、窓に向かって斜めに切られた(くぼ)みの下に立ち、ウネンは(はる)か頭上の狭窓(さまど)を見上げる。


「……誰かいるの?」


 (かす)れた声が喉に貼りついて、満足に(しゃべ)ることすらできやしない。

 それでも、ウネンの問いに対して静かな声が返ってきた。長い旅の間にすっかり耳慣れた、オーリの声だった。


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