スナコさん、嗚呼スナコさん
縄張り意識が低く、主にチベットの標高の高い山や荒れ地、草原に巣穴を作って住む。その顔がやたらと大きいという特徴は、外敵を驚かせる為のもののはずなのに、人間から見ると何だか「渇いたサラリーマンの哀切の顔」に見えて仕方がない。清涼飲料水のCMにも出演してしまったチベットスナギツネ。
――それが今、僕の目の前にいる。ただし人間の女の子になって。自分でも何を言ってるのかよく分からない。
「そうか。そういう風に捉えられていたか」
ピクリとも表情筋を動かさない彼女は、確かにチベットスナギツネの面影がある。顔はどちらかというと四角いし、哀切の顔……というよりも、ぶっちゃけ無表情。髪の毛の上から左右に向けてにょこっと狐耳らしきものが生えてなければ、ただの無愛想な女の子にしか見えない。座ってるから分かりにくいけど、尻尾も履いているジーンズから出ていた気がする。
「人間の縄張りというものは面倒だな」
彼女はそう言って、疲れた様に息を吐く。でもやっぱり表情は変わらない。そして何故か帰らない。一人暮らしのワンルームの部屋は狭い。その中に男女がいたら意識してしまうじゃないか。彼女は一切意識していなさそうな冷静な表情だけれども。
「でも……何でわざわざ狭い我が家に来たんですか千部さん」
「敬語はよしてくれ。同じサークルの仲間、いわば同じ縄張りの者じゃないか」
確かに同じサークルだけど話した事も無いのに、飲み会の後について来るなんて、本当に縄張り意識低いですよスナコさん。会が終わった後に気分が悪そうだったから声をかけたとはいえ、本当に家までついてきて、僕はびっくりだよ。
「えっと、じゃあスナコさん?」
「名前で呼ばれると少し照れるな」
いや、全然見た目からは分からないよ! ピクリとも動いてないよね! あ、差し出したコップの水をクピクピ飲んでるの、何だか可愛い。
「しかし、本当に人間の縄張りとは面倒だ」
どうやらサークル内の女子グループに疲れているらしい。確かにあれは男から見ても大変だろうなーとは思ってた。飲み会でも静かだったし、それで疲れてたのか。人間のように(?)しか見えないけど、実はこれでチベットスナギツネらしく疲れた顔をしているのかもしれない。僕も田舎から東京に出てきて、人の多さだけでも疲れたし、チベットから来たのなら、もっとすごいだろうな。
孤影悄然という言葉が頭に浮かぶ。確か一人ぼっちで寂しい様を表すとか、この前何かで見た気がする。その言葉通りなのかもしれない。と、ちょっとだけそんな事を脳内で考えつつ、スナコさんを慰めたいとか元気づけたいと思ってる自分がいる。
――ああ、つまり僕は……
「スナコさんに好意を持っていると」
思わず声に出てしまった自分の言葉にハッとするけれどもう遅い。スナコさんはコップを持ったまま細目でじーっとこっちを見ている。――これじゃあ、下心ありありの他の男子と変わらないし格好つかないじゃないか。そんな僕を見て彼女はコップを置いて口の端を軽く上げる。そう、ほんの少しだけはにかむ様にして笑ったのだ。
「行為は駄目だが、ツガイになるか」
――待って待って! 色々すっ飛ばしてるし、突っ込むところが多すぎる! やっぱりこの狐どこかズレてるよ!
こうして大学に入学して翌月に、僕には唐突にチベットスナギツネの彼女が出来てしまったのでした。




