黄金鈴:第十話 白取スケコマッシャー
海の日、学園に通っている俺らはまだ夏休みである。
朝七時、まだ早い時間帯にチャイムが押された。うちの両親は仕事の関係いで引っ越す前の家に居る事が多い。その為、基本的に一人暮らしである。
俺以外の人間がこの家にいるわけもない。よって、チャイムの相手は俺がしなくてはならない。トイレに入っていようが、目玉焼きを焼いていようが関係ないのだ。
「おはようございます」
築数十年の扉を開けると朝日を背に立っていたのは顔見知りだった。
鈴ではない。鈴のお世話役の人達だ。
「あれ? 住良木先生……と、そっちの人は確か……」
「一樹です」
「海です」
「江利奈です」
教師が一人、執事が一人、メイドさんが二人だった。鈴のところにいる使用人さん達だ。
掃除洗濯料理洗車ペットのえさやりと言ったお世話がお仕事らしい。最近ではデバガメ根性も強くなってきているようで……鈴と一緒に居るとこの人たちが背後に控えている事が多い。
「一体、どうしたんですか?」
俺達を追いかけているときはかなりにやにやしているのだが、今日は真剣な表情だ。
「……お嬢様のお母様である黄金椎様が帰ってこられました」
それだけ言われても状況が良く飲みこめなかった。とても怖い、情報として得ているのはそのぐらいなのだ。
「説明はしてもらえるんですよね」
「勿論です。では……」
「お兄ちゃん、今日は海の日だから任せて」
そういって住良木兄妹の長女である海さんが出てきた。
「こうやって挨拶をするのは初めてだと思います。住良木海と申します」
「あ、これはどうもご丁寧に……」
深々とお互いにお辞儀をし終えると、海さんは辺りを見渡して顔を近づけてきた。
何だかいい匂いがした。鈴もいい匂いがするけれど、それより大人の匂いがする。
「実はお願いがあるのです。迷惑とは思いますが……こちらに住まわせてもらえませんか?」
「え、住む?」
「お願いします」
他の住良木さん達も、俺に頭を下げてきている。
「……良くわかりませんけど、中へどうぞ」
一体何だと他の住人達が俺達の事をみている。そりゃそうだ、執事やメイドさんに頭を下げられているんだし……仕方がないだろう。
外で話をしていたら他の人たちがなんだなんだと顔を覗かせているし、変に詮索するのも、されるのもまずい気がした。
俺を含めて五人がリビングに入るとそれなりに暑い。冷房をつけて、話を再開する。
「鈴のお母さんの話ですよね。それが何故、俺の家に住みたいと言う事になるんでしょうか」
「かなり長くて詳細付きの話と、要約したとても短い話、どちらがいいですか?」
「え? うーん……」
かなり長くて詳細付きかぁ……。
「じゃあ、長いほうで」
「デッキ、借りますね。まずは四時間にわたる長編を……」
「やっぱ、いいです。短い方でお願いします」
畏まりましたと海さんは頭を下げた。
「要約すると椎様はとても怖……厳しい方でして、機嫌が悪いとこうしてみんなで避難……ではなく、一時的に住まいを探さなくてはならないのです」
これまでは山に潜んでいたり、ビルの一室を借りて隠れていました……とは住良木兄妹からの情報だ。山に居る時は奇襲があったとか……ここ、日本だろ?
「あの、余所様の家庭に口をはさむようで悪いんですけど……そんなに住良木さん達に辛く当たるような人なんですか?」
窓際を撫でて埃を確認する……すると、海さん達に鞭を一発入れるような着物を着た女性を想像してしまう。
意外と辛い日々を過ごしているのだろうか、そう考えていたら肩を軽く叩かれる。
「またまたー、余所様なんて言っちゃって。将来的に余所様なんて言えない立場になる予定なんでしょ?」
「ぶっ、そ、それは……」
「お嬢様泣かしたら承知しませんからね。変な事にお嬢様を巻き込まないで下さいよ?」
「すでに巻き込まれているような気がするんですけど……それで、普段から鈴のお母さんって恐い人って事ですか」
俺の言葉に海さんは首を振った。
「いいえ、普段は優しいですよ。今回は旦那様のR18指定の本がばれてしまったのが原因ですね」
「……あ、秀吉さんが酷い目にあうんですか」
住良木先生達も頷いている。
「私たちはどちらかというととばっちりですね」
「ま、いずれ旦那様もこちらにやってきますから詳しい話は……」
その時、乱暴に玄関の扉があき、初老の男性が転がり込んできた。
手には簡素な拳銃が握られていて……ところどころ怪我をしている。
「ふぅ、危なかったっ。お邪魔するよ、冬治君」
左ほおから血を流していた秀吉さんへ海さん達が駆け寄って治療を開始し始める。さすがに、すぐさま治らないので絆創膏が貼り付けられた。
「鈴のお父さん、こんにちは……」
「季吉さんで結構だよ。誰かお茶を頼む」
「はい、どうぞ」
ペットボトルに入ったお茶を一口、啜った。
「いつつ……」
「旦那様っ、他にお怪我は?」
「何、かすり傷さ」
立派なスーツには色々と傷跡があった。刃物跡が残っていたりする。背中にはナイフとか手裏剣とか、とりあえずとげとげしたものが刺さっている。
「あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。しかし、今回は危なかったな。あそこで右に飛んで居たら今頃刺さっていた……いいや、磔にされていただろうね。おっと、そんな事より冬治君、住良木達から話は聞いたかね?」
思っていたよりかなり激しい事に巻き込まれたような気がしないでもない。
「はぁ、一応は聞きました」
背中にモロ刺さってますよと言ったほうがいいのか?
海さん達がすぐさま背中に駆け寄って刺々しいものを全て取り除き始める。
「そうか……それなら、私からも改めて頼みたいんだ。当然、生活費も出すし、絶対にここがばれないように約束する……君の身の安全だって保障させていただく。この通りだ!」
「お願いしますっ!!」
住良木さん達も頭を下げた。季吉さんってこの前テレビに出てたんだよなぁ……そんな人が俺に頭を下げるなんてよっぽど奥さんが怖いんだろう。
「……いいですよ、どうせ俺の両親は当分こっちには来ないみたいですから」
「やった! ありがとう!」
季吉さんの後ろで住良木さん達が大喜びだった。晶先生なんて涙を流している。
「ところで冬治君、鈴に黙ってエッチな本を隠してはいないか?」
「は?」
言っている意味が良くわからなかった。
「怒っているわけではないんだ……鈴は小さい頃からわたしたちのやり取りを見ている。悪い事は言わない、今すぐ捨てたほうがいい」
住良木さん達も頷いていた。冗談とか、茶化すとか、そんな雰囲気じゃなくて……踏み絵に挑む信者の表情もこんな感じかな―と思いました……まる。
「それで、どうなんだ? 嘘は本当に、君の身のためにはならないぞ。あくまで、君の身を守るのはわたしの妻からだ。鈴からは……」
「こっちには無いですよ」
まだ向こうの家に残っている。こっちはこっちで買えばいいかぁと思っていたからな。
「そうか……それは良かった。住良木達、この白取家の家事は……そうだな、一樹に任せよう」
「畏まりました」
普段の秀吉さんの顔はなりを潜め、今では決断を求められるトップの表情をしていた。
「海は冬治君の護衛、江利奈はわたしの護衛だ」
「わかりました」
「はい」
「各自、連絡は怠るな。何かおかしいと思ったらすぐに連絡を入れるんだ。知っての通り、あいつは手ごわい……お前らが束になっても勝てると思うなよ」
「了解しました!」
一体これから何が始まるんだ。これはただの夫婦喧嘩のはずだろう?
戦慄する俺の腕を引いて、海さんがにこやかに笑っている。
「冬治様、これから外に出ませんか」
「え?」
まだ八時前だ。
お店なんて開いていないはずだ。
俺の考えを読んでいるようで海さんは一枚の名刺を取り出し、見せた。それに喫茶店の情報が書かれている。
「近くの喫茶店に顔が利くところがあるんです。改めてそこで話をしたいのです」
「ここじゃ駄目なんですか?」
「狭いですからね。まとめて捕らえられた時の事を考えるのなら、やはり別行動が最適です。怒りに身を任せた奥様が冬治様を襲う可能性だってあります。万が一の事を考えたほうがいいでしょう」
他の住良木さん達も頷いていた。
万が一って、何なんだよ。
既にこの時点で俺の鈴の母親に対しての想像図は滅茶苦茶になりつつあった。最初は、和服を着た気品あふれる女性と想像していた……しかし、今では随所から腕の生えた地球外生命体のイメージである。
「さ、急ぎましょう」
「あ、は、はい」
海さんの必死の形相に俺も流されてしまい、二人で外に行くことにした。
「では、変装しますね」
「変装? 俺も必要ですか?」
「いえ、冬治様は結構です。これが、私の変装です」
そういって黒のシャツに白のエプロンを一気にはぎ取った。
下に水色のシャツとジーパンを仕込んでいたのだろうか? はぎ取った衣装もどこかに消えてしまっている。
「どうでしょうか?」
「凄いですね。速着替えってやつですかぁ……」
感嘆のため息を漏らしていると少し怒った表情をされる。
「いいえ、違いますよ。似合っていますか、そういう意味で聞いたんです」
「え? あ、そうなんですか。すみません。えーっと……良くお似合いですよ」
「ありがとうございます」
目の前の海さんは水色のシャツにジーパンというラフな格好だった。
顔は思いっきり露出しているけれど、いいのだろうか?
「あの、サングラスしなくていいんですか? ばれると思いますよ」
「ああ、そうですよね。こんな美女、他に居ませんからね」
海さんってちょっと自意識過剰なのだろうか。
何にせよ、あんな変な兄(住良木昌先生)だ。嗜虐性を持っている恐れもあるし、それ以上の変わった趣味を持っているかもしれないな。
海さんが教えてくれた喫茶店までの道のりは結構ある。ここはこの人と仲良くなっておくのも悪くないだろう。
「海さんもずっと前から鈴の家に住んでるんですか?」
「お、早速調査ですか。スケコマッシャー冬治の本領発揮ですね」
軽く俺の両肩を叩き始めた。
「は? あ、いえ。俺には鈴がいるんで女性として興味があるわけでは……いたたたっ」
「……聞こえませんでした。もう一度言ってもらえますか?」
両肩を掴んだ海さんはそのまま俺を持ち上げた。
指が肩にめり込んできて、想像を絶する痛みが俺を襲う。こんな力が華奢な身体のどこに眠っているのか想像もできやしない。
「いたたたたっ、う、海さんは女性的にも魅力的ですが、あいにく、俺には鈴がいるんで!」
「んー? 聞こえませんね」
「海さんは! とっても、とっても素晴らしい女性で魅力的です! でも、俺には鈴がいるんで!」
「そうですか、それは残念ですね」
散々俺をいたぶってから解放してくれた。
くそ、やっぱり住良木先生の妹だな。
心底話しかけるんじゃなかったと後悔していたら俺の腕に海さんが腕を絡めてくる。
「お……っと、え?」
そして、豊かな胸も俺の二の腕辺りに押し付けられた。
「え、えっと、海さんこれは一体?」
「冬治様、どこを見ているんですか? 顔はこっちですよ」
「……これは一体、どういうおつもりで?」
今度こそ顔を見てから俺が尋ねると、海さんは軽く舌を出して笑っていた。
「ささやかな謝礼のつもりです。それに……」
「それに?」
「この場面をお嬢様に見られたらどうなるのかな、そんな知的探究心が働いたまでの事です」
そして嫌な笑みを浮かべるのであった。
そんな力がどこにあるのか、想像もつかないような腕力だ。
腕を組んだまま、それから歩き続けた。本当に鈴が出てこないかひやひやしている状態だ。
「冬治様」
「はい?」
「お嬢様は一途に冬治様の事を想っています。冬治様の気持ちはどうであれ、これは認めてもらえますか?今回は急ぎの用件なので仮定でも構いません」
「そうですか」
唐突に海さんが俺に鈴の話をし始めた。
鈴の俺に対する想いを聞くのはこれで二度目だけどさ、人から教えてもらうと何だか嫌だよな。しかも、急ぎの用件って……。
「今現在だとお嬢様が……冬治様に一方的に気持ちを向けておられるだけです。椎様と旦那様は夫婦ですので両想いです」
「そうでしょうね」
秀吉さんは婿養子でやってきたそうだ。
「ですが、季吉様は好色でして……椎様の留守をいい事にR18指定の本を買って部屋に隠すのです。ざっくり言うのなら椎様はこの行動がとても許せず……手当たり次第に破壊しつくします。別荘が四件、車が三台廃車になっているのです」
それは夫婦喧嘩なのだろうか?
「そんな人間、いるんですかね」
「現実に居たら大変な事になるでしょう」
冗談です、そう言ってくれるのだろうか……そう思っていた俺の淡い期待は彼女の言葉に打ち消された。
「椎様、そして旦那様の会社……黄金薬品会社では人体強化の薬も作っているのです。お嬢様が椎様と旦那様の愛の結晶であるのなら、椎様が作り出した薬は……そうですね、旦那さまへの想いの結晶でしょうか。一人で薬を研究し続けた椎様はその薬を一切のためらいなく、ご自身の体に投与されました」
「あの、それが浮気とかそう言ったものを許さない薬なんですかね?」
副作用で凶暴になったのだろうか?
「いいえ、本来は季吉様を看取る為に長生きする薬なのです。椎様は身体が弱く、日光に長時間当たっていると体調を悪くされておりました。お医者様も子どもを産めば危なくなると秀吉様に告げておられました」
なるほど、それで鈴のお母さんは……薬を投与したのか。
「薬のおかげで椎様は見違えるほど元気になられました。椎様がご自身に投与されたのはもう数十年前……ちょうど、鈴様と同じ年ぐらいだと聞いております」
「それだけ聞くと一途な女性のいい話ですね」
「そうですね、まさか副作用であんな風になってしまうとは……思いもしませんでした」
あんな風っていったいどんな風だ。
俺の顔にその言葉が出てたのか、震える手を押さえて海さんは続ける。
「……そうですね、私達が実際に椎様の副作用を見たのはお仕え初めて数年が経った日の事でした。その日は、秀吉様の部屋を片付けていたらR18の本が出て来ましたので……奥様に、椎様に報告したのです」
「……」
俺は黙って続きを促すことにした。
「みるみる椎様の顔が変わっていきました。それはもう、般若のごとき表情でしたよ。秀吉様をすぐさま、探しに行きまして……途中ぶつかった壁が壊れるなんて現実にあるのかと悪夢にうなされた事もあります」
空恐ろしい話である。
「……げんこつで、地面を割るんですよ。あんなの、人の頭に当たったらどうなるのか、容易に想像付きますって」
成るほど、秀吉さんが必死になって逃げるわけだ。
「それ、普通の人間死ぬんじゃないんですかね? 季吉さんはこれが初めてではないんでしょう?」
俺が尋ねると海さんは苦笑していた。
「旦那様はこれがやめられないんだと言っていました。椎様は先ほども言った通り、元来体の弱い方でしたからね。椎様の愛情を感じる一番の方法だと集中治療室で息を吹き返した時、教えてくれました」
ああ、やっぱり秀吉さんも普通の人間なんだな。というか、遠慮ないな……。
「季吉さんは命をかけて鈴のお母さんをからかっているんですね」
「そうだと思います。これも一つの愛情表現なのでしょう。椎様が生き続けている事、それがあの人の喜びなのですよ。私たち全員が秀吉様側についても中々守りきれませんからね。逃げてる時の秀吉様は生き生きしてますよ」
本当、変な性癖の人だ。
そろそろ喫茶店に着くと思っていたら、携帯電話が鳴りだした。俺の物ではなく、どうやら海さんの携帯のようだ。
携帯を耳に当てて、彼女は何やら数度、言葉を交える。
電話を切って、俺の顔を見た。
「……緊急の集合がかかりました。まだ、冬治様は大丈夫だと思いますのでここから避難しておいてくださいね。
「避難? どこに逃げればいいんですか」
「学園方面へ向かってください。まぁ、逃げる必要もないと思いますけどね。念のため、ですよ」
「わかりました」
携帯電話やら一番近い病院を教えてもらうと、海さんが黙りこむ。
「どうかしたんですか?」
「冬治様」
「何でしょう」
「また、こうやって腕を組んで、恋人ごっこしましょうね」
未だに腕を組んでいたのを思い出した。
「いや、さすがに鈴に悪いんで」
「やらないとお嬢様に言いつけますよ」
「うっ……そ、それでも駄目です。まだ、俺は鈴とは何でもないですけど」
「そうですか。ま、ちょっとからかっただけですよ」
性質の悪い人である。
「ちょっと、残念ではありますが」
「え?」
「いえ、何も。それでは、お気をつけて」
恭しく俺に礼をした海さんはそのまま走り去った。
俺は、夫婦喧嘩に、いいや、お互いの愛を確認する騒動に巻き込まれたのだろうか?
他の家の、しかも、後輩の家の夫婦げんかに巻き込まれるなんて早々ないだろう。
命をかけた、夫婦喧嘩か。
「……俺は嫌だなぁ」
たとえ、結婚してもそうなるのだけは絶対に避けたい。
海さんが俺に学園の方に逃げろと言ったので大人しく学園側へとやってきた。
念のためだと言っていたし、いきなり襲われる事もないだろう。それに、こちらの方は家の周辺よりお店とかが多いのでやばいと思ったら人ごみに逃げればいい。
曲がり角を曲がると、一人の女性がいた。
「……鈴、じゃないな」
鈴によく似た女性だった。和洋折衷な服を着ていて、その人だけ他の次元の人みたいな……何だろうか、はっと我に帰るような恐怖と、美しさを持つような女性だ。
ああ、わかった。
この人からはすぐに逃げたほうがいい。凄く、気が立っている。魔王が居たら多分、こんな感じ。
相手は俺の事を知らないようだし、このまま道に迷った風に後ろを向いて逃げる事が出来れば……何とかなりそうだ。
深呼吸を二回ぐらいして振り向こうとすると、背後から声が聞こえてきた。
「あれ? 冬治さん?」
「……え?」
どうやら店から出てきたらしい俺の後輩、黄金鈴。
しまった、背後をとられた……命が縮まった気がしてならない。
目の前で誰かを待っていた様子の女性は俺の事を見て、次に鈴を見た。
「鈴ちゃん、お知り合い?」
「はい。この人が冬治さんです」
俺の前へと鈴がやってくる。おかげで、背後に逃げることは可能だ……しかし、今度は逃げる事が精神的に不可能になったりしている。
いきなり逃げるなんてどうかしている。それに、鈴とは仲良くしているし、住良木先生の話も聞いている……進んで嫌われる努力をしなくてもいいだろう。挨拶は大切だしな。
「えっと、初めまして。白取冬治です」
目の前の女性は間違いなく、鈴のお母さんだ。
季吉さんに比べればかなり若い気がするが、それも薬の影響だろうか?
下手すれば鈴の歳の離れたお姉さんでも通用すると思う。
「わたしは鈴の母親、椎と言います」
でも、妙な話だ。
てっきり魔王か悪魔か、アサシンみたいな姿を想像していた(雰囲気は常人のそれではない)。目の前の女性が季吉さんのような屈強そうな男性をどうにかできるようには見えなかった。
見た感じは華奢な女性なのだ、それでも、住良木先生達、そして秀吉さんが怯えるのもわかる気がする……怒らせたら恐そうだ。そして、今はかなり怒っている状態だ。
「貴方は……鈴ちゃんの想い人だそうね?」
つくづく、鈴の身内は鈴の想いを勝手にしゃべるのが好きらしいな。
「お、お母様!」
「あらあら、まだそう言った間柄ではないのね。ごめんなさい、鈴ちゃん」
どうやらお母さんはそうではないようで、先走っただけのようだ。
「ごめんなさい、忘れてあげて」
「はぁ、わかりました」
俺が彼氏だったらまた違うやり取りがあったのだろう。
「まんざらでもなさそうね」
「それはまぁ……」
でも、完全に外堀は埋まっているようだな。
「季吉さんは冬治君についてどう言っていたの?」
秀吉、という部分に愛憎が込められていたのを感じた。言霊なんて信じてないが、あってもいいんじゃないかなー……そう思わせてしまう程の力を持っていた。
「お父様は構わないって……言ってくれました。きっといい夫になると……」
顔を真っ赤にしてはにかむ鈴に母親である椎さんはほほ笑んでいる。
「もし、俺みたいな、その言葉がついて居たら今頃冬治さんは病院行きね」
にこやかーに笑って俺を見た。
ネズミってさ、猫に追い詰められたらこんな気持ちになるのかな……。
「お、お母様っ。冬治さんがびっくりしてますよ。言ってないんですから!」
「あら、そうね」
「事情を知らない人が聞いたら何の事だかさっぱりですよ!」
すまん、鈴……そっちの状況は詳しいんだ。というか、巻き込まれてる状態だ。
「とりあえず、後は鈴ちゃんが待つだけね」
「はい……冬治さん、お願いしますね」
そう言って俺の方を見てきた。うう、喋り辛い……。
ここは空気を変えねば面倒になることは必須だ。単なる世間話をしているだけなのに何故だか人だかりができつつある。
「えっと……お二人は買い物中だったんですか?」
話をそらしたほうが精神的に、この町の空気的に良さそうだ。
「ええ、家族水入らずで」
「あれ? 季吉さんも来るんですか?」
来るんですか?そう言おうとしたら目の前の女性から日常では味わう事ができない、素っ裸でサバンナを歩くような感覚を教えられた。
大気が揺れて、悪寒が走る。足がすくむなんて日常生活じゃ滅多に起きない感じだろう。
「今、お母様とお父様……喧嘩しているんですよ」
「ええ、そうなの。困った人でね、ちょっと浮気性のある人なの。一体、どこに逃げ込んだのかしら」
今頃、季吉さんはくしゃみをしている事だろう……俺の家で。
「本当に、困った人だわ」
そういってよよよと泣き崩れた先の標識を握り潰した。
語弊があるな。ちょっと握っただけで千切れたのだ。
「……す、鈴は身体が弱いけど、椎さんは強いんですね」
話には聞いていたし、信じていないわけでもなかったんだ。それでも、実際に見てみればわかることだってある……あんなの、人間が何とかできる代物じゃないぞ!
「冬治さんには話していなかったもしれません。実は、お父様とお母様の家は薬品会社で…売ってはいないんですけど、お母様の趣味で色々な薬を作っているんですよ」
「へ、へー……そうなんだ」
海さんに説明してもらった通りだ。
「恥ずかしいけど、季吉さんの最期を看取る為には長く生きなくてはいけないというちょっと青い考えで、ね。元は身体が弱くて余命だって残り少なかった。こうやって、鈴ちゃんとお話なんて想像できなかったわ。ううん、それどころか鈴ちゃんだっていなかったかも。だけどね、薬の使い過ぎで鈴ちゃんに……影響が出てしまっていたのね」
薬をある程度使った後に妊娠が分かったそうだ。
妊娠以降は当然使わなかったそうだが、もし、続けていたら鈴が…恐ろしいほどの強さで生まれてきた事だろうと椎さんに言われた。
「わたしのせいで鈴ちゃんに辛い思いをさせてしまって……申し訳ないわ」
「お母様、でもそのおかげで冬治さんに出会えましたから」
「そう言ってくれると救われるわね」
子供の事を本当に想っていると、あんなに優しい笑顔が出来るんだろうなぁ……。
「お母様っ」
「鈴っ」
母と娘が抱きしめあっているシーンだけは共感できるけどさ、視認できる程のどす黒いオーラは一体誰に向けられているのでしょうか。
数分抱き合って、二人は離れた。
「鈴ちゃん……この後は冬治君と一緒に遊んで来なさい」
「えっと、でもお父様探さなくていいの?」
やっぱり、探している途中だったんですね。
「大丈夫よ。あとはお母さんが探すから。冬治君、鈴ちゃんをよろしくお願いします」
そういって深く頭を下げられた。
「あ、はい」
「きちんと挨拶に来てくれる日を楽しみに待っていますよ」
椎さんはそれだけ言い残し、行ってしまった。
「……眼科行くかな」
俺の目が正常ならば、ビルの上に飛び上がった気がする。周りの人達の数人がみたようで、目をしきりにこすっていた。
「あ、あの、冬治さん……これから一緒に遊びに行きませんか?」
鈴はさっきの出来事、殆ど自分の想いを告げられたと思っているから顔を真っ赤にして俺を誘ってくれていた。
鈴には悪いが……俺の興味は今時点ではそっちに向かっていなかった。
「それはいいんだが……あのさ、一つ、聞いていいか?」
「はい、なんでしょう」
「……夫婦喧嘩って、椎さんと季吉さん、するのかな? 二人ともそんな感じには見えないんだけどさ」
あくまで俺は知らないという前提で、話をしなくちゃいけないのだ。念には念を押しておくべきだ。
鈴は俺の言葉を聞いて何やら先ほど見た気のする黒―い、オーラを出したような気がした。
「……鈴?」
「冬治さん、浮気は……いけない事ですよ?」
それ以上、恐くて聞けなかった。




