北村孝乃編:第九話 ぐいぐい、いや、ぐんぐん引っ張られてる
うつらうつらとしていた頭をどこかにぶつけることもなく、かといって首がもげることもなく、覚醒したときに感じる首が外れたような感触で目が覚めた。体の自由がきかない。
「あれ?」
首をかしげ、はて、ここはどこだろうかと思っていると自分が縛られていることに気づいた。
「え?」
「あ、冬治気付いた?」
そこにいたのはあの若干怖い感じの孝乃先輩だ。にこにこしていたが、やはり目が笑っていない。薄暗闇の中にかすかに見えるは机だ。ということは、学園なんだろうか。
「ごめんねぇ、逃げられると困るし、断られるのも嫌だから縛っちゃった。
「は?」
気づいたのだが、俺は半裸だ。そして、先輩は体の線が見えそうなシャツを着ていた。
「あたしが、あたしだけが冬治のこと幸せにしてあげるから」
「って、言われたところで目が覚めたんだ」
「よかったな、夢で」
ほのぼのとしたようすで友人がもそもそとパンを食べる。俺もおにぎりをほおばった。
「え、何? じゃあ、最近の冬治の調子が悪かったのって愛されすぎてたからってこと?」
「いやそれとはまた別なんだけどさ、一応、孝乃先輩がらみだった」
「はぁ、んで、今度は愛が重いと?」
「そういうわけでもないんだよなぁ」
キスされた時のことが頭に残っているだけだと思うんだけどうまいこと脳みそが誤変換をたたき出してくれたらしい。灰色脳細胞はだめだな。
「でもさー、好きって言われたら男子なんて女なら何でもいいんでしょ?」
七色がちうちうとジュースを吸い終えてそういった。しばし、男二人で目配せして先に友人が口を開く。
「そりゃまぁ、そういうわけでもない」
「へぇ、あんたにしちゃ意外な答えね」
「誰だっていいというのなら俺には年齢問わずいろんな彼女がいるさ」
そうかもしれんが、現実にはゼロだからな。
「本能はそうかもしれないが、理性はそうでもない。今後のことを考えて本能をごまかし、宥め、もっといい結果が待っているとささやくのさ」
こればっかりは男も女もそうかもしれないが、後がないと思った時点で理性と本能が妥協するとでもいうのだろうか。
「んで、冬治のほうは?」
「答えるも何も、孝乃先輩がいるんだし誰でもいいってわけじゃないぞ。孝乃先輩じゃないと、ダメだ」
「いうねぇ」
「面白くないねぇ」
途端に興味を失ったのか、各自残りの餌を異に詰め込み始める。
「しかし、スケベな夢でも見るもんかと思えばホラーよりか。一昔前に流行ったヤンデレかね」
「はは、たまたまそういう夢を見たんだよ」
「んじゃ、あれも?」
七色が指さす先には廊下で俺のことをにらんでいる孝乃先輩だった。
「ほほぅ、こりゃ、あれだ。おらぁ、詳しいんだ。ありゃ、間違いなく冬治が七色と話している姿を見てやきもち焼いてるんだぜ」
うひひと笑った後、俺の腹を人差し指ですいすいとなぞる。
「そして、ぐさぁだ。ヤンデレだから」
「そうじゃない……と、言い切れない自分がいる」
「ありゃりゃ、かわいそうに」
合掌し始めた二人を無視して俺は孝乃先輩のもとへと向かった。
「どうしたんすか?」
「あ、あのねぇ、あんた。さっきの夢の内容、大きな声で話しすぎよっ」
「え?」
どうやら全部お耳に届いていたようだ。こりゃあ、怒られるわ。
「聞いてたんですか」
「聞・こ・え・て・き・た・の!」
一語区切りは小気味よい調子で俺の耳を殴打してくれた。おこっていらっしゃる、俺の彼女様が。
「そりゃその……えっと、すんませんでした」
今回ばかりは素直に謝るに限る。大地を敬い、海を奉る。荒ぶる魂鎮めることこそ重要なのだ。
「おひるごはん、食べ終わったの?」
「え? ま、まぁ」
「じゃあ、ちょっとついてきて」
ご機嫌をこれ以上損ねるわけにもいかず、先輩と一緒にいたい俺は周囲のこいつ、この後さされるんじゃないのかという若干の期待を無視して教室を後にした。
連れてこられたのは空き教室。来年あたりに部室に使用されるらしい。
「鍵をかけてっと」
「え? なぜかけるんですかね」
「そりゃあ、見られたら困るし」
じりじりと寄ってくる先輩に俺は黒板側へと後ずさる。夢に似たような光景だが、運がいいのか悪いのか、縛られてないし、先輩はシャツ姿でもない。
卑猥な妄想の入り口で現実につかまり、俺の胸に先輩が顔をうずめる。
「はぁぁぁ」
一方的に孝乃先輩が抱きしめるような感じで、俺はセミにしがみつかれた木のような気分になった。悪くない女子の香りが鼻をくすぐるが、だきしめて好き勝手するとなんだかもう、ダメになるまで落ちてしまいそうだったので今は自重しておいた。
現状の孝乃先輩は俺がちょっとでも口を滑らせると何でもしてくれる状態だ。縛ってくれと言えば、やってくれるだろうさ。
「あのー、孝乃先輩。つかめましたか?」
「う、うーん。何となく」
なぜ、俺がそうしないのかはちゃんと理由がある。どうにも俺の彼女様は形というか、そういうのを気にするタイプらしい。
ちょっと話は戻り、それこそカラオケボックスでキスをした後、激しい後悔に孝乃先輩は打ちひしがれていたのだ。
「や、やってしまった。手をつないで、告白したのはよかったけれど段階踏んでなかったっ」
「は、はぁ」
なんというか、見るも無残な俺のふやけた表情はそんな孝乃先輩で頭が再起動。激しいタイプなんだなと好き勝手思ったところで首をかしげる。
「段階?」
「そう、段階。仲良くなって手をつないで」
「はい」
「告白されて」
「あい」
「抱きしめあって」
「はぁ」
「キスをして……」
「……?」
「それで、その、と、とにかく、キスより先に抱きしめあわなきゃダメだったの。うー、これじゃまるで身体目的みたいじゃないの」
孝乃先輩から不埒な言葉が聞こえてきた気もするが聞こえないふりしておしぼりで顔を拭いておくことにした。健気な犬のようであったと孝乃先輩には口が裂けても言えない。
若干錯乱気味、暴走をにおわせる孝乃先輩の話をまとめるとそのままだ。順序を踏みたかったらしい。
ただまぁ、抱きしめあってというのならまた抱きしめあってキスすりゃいいんじゃないのかといったが、それは違うということだ。
「過程じゃないの、目的なの」
「よくわかりません」
「あたしもわかってない」
本人がわからないのなら他人がわかることはあるまい。あったとしても本人が納得できなければ無理だろう。
つまるところ、キスまでは至らないが、抱きしめたいらしい。
キスをした次の日から、孝乃先輩は俺を誘ってはいろいろと試していた。もちろん、キス無し、お触りなしと聞く人が聞けば誤解を招く内容だ。
ただもう、蛇の生殺し状態。本人に自覚はないのだろうが、的確に男の心をくすぐってくる。だから、我慢できなくなったら拘束をほどき、俺が両手をぶんぶんとふりたくる。
「きょ、今日はもうやめましょう」
「え、もう?」
感づかれたらやばいのだ。もう行きつくところまでこの孝乃先輩は俺を案内してくれるだろう。根がまじめなだけにそっち方面の勉強を本格的に初めてきそうである。
導かれたくなければ、相手を導くしかない。やられる前にやれの精神は今こそ、孝乃先輩にヤられる前に生かさねばなるまい。
「それより、今度の土曜日、デートに行きましょう」
「ん、デート?」
話を逸らすにはうってつけの話題。今日は木曜日。目的地はすぐそこの話ならば変でもないし、これは元から考えていたことだ。
「じゃあ、買い物にでも行く?」
「いや、遊びに行きましょう」
わりかし、というか偽っていたころから二人でよく遊びに行っていたので今更感がある。
「水族館へ、行きましょう」
「あのね、知っての通りこの街には水族館ないわよ」
「ある場所へ、遠出すればいいじゃないですか。行くまでだって一緒だから、楽しいですよ」
「あ、でもあんた今月厳しいって言ってなかったっけ?」
「う……」
そうだった。確かに今月はちょっとした出費が重なったり、孝乃先輩と遊びに行った際、割と食べたり飲んだりが多かった。一人暮らしをしているということもあって、そういうのはきっちりしておかないと両親に心配をかける。開き直って金を無心するわけにもいかないなぁ。
「水族館に行きたいのなら、また今度にして土曜日はあたしの家にしましょう。雨が降った日に来たっきりで、あれ以降家の中に入ったことはないでしょ?」
「はい、んじゃそうします」
そういえば孝乃先輩の母親のほうは詮索するのが割と好きそうな感じだったし、突っ込んだことを聞いてくるかもしれない。ぼろを出さないように考えておいたほうがいいかも。そう思ってしまうのは考えすぎだろうか。
「ところで孝乃先輩、受験勉強ってどんな感じなんですか?」
「ん? え?」
なんだか反応が微妙だった。
「いや、だから、大学受験のための勉強ですよ。ほら、先輩って塾も家庭教師も、かといって朝早く学園に行ったり、放課後残ってまで何かしている印象がないものですから」
「あのね、冬治。そういうのをあんたは心配しなくてもいいの」
きりりと顔を引き締めて、俺に向き合った。その瞳の中の輝きは惚れ薬を使おうなんて人間のものとは違っていた。
「あ、さすがっすね」
「……あたしね、今が楽しいからそれでいいの」
「いやー、その考えはダメなんじゃ」
「え、何よそのいい方は。あんたもあたしといてうれしいでしょ? 勉強なんてしていたらあんたといられないじゃない」
あの孝乃先輩がここまでスパッと言い切ってくれるのはそりゃうれしいんだがなんだか間違った道へ向かおうとしているんじゃないのか。
ここはびしっと彼氏として進言しなければ。遊び惚けて怒られて、恋愛が原因だったといわれては悲しいことになる。
「今は勉強、一年たてば晴れて大学生。遊べるじゃないですか」
「そうしたら今度はあんたが受験生じゃないの」
「あ……大丈夫です。俺はなんとかしてみせますから」
「今のあたしと同じ状況ってこと、気づいてなかったわけ?」
大学進学せず、そのまま就職という方法もないわけではないが、行けるのならやはり、大学まで行っておきたい。もしも今後、この仕事がやりたいとなって就職時に有利に働くのならそれに越したことはないだろう。働くための間口を広げるための必要な要素の一つだ。
だが、今は俺のことより孝乃先輩の受験勉強が先だ。
「わかりました、俺も物分かりの悪い男じゃありません。条件を提示しましょう」
「条件? 何、冬治が何かしてくれるわけ?」
「孝乃先輩が勉強をしている間、ずっと後ろで応援してます」
「邪魔になる」
すっぱりばっさり切り捨てられて俺は、第二条件を交渉手段に用いる。
「夜食だけを持っていきます」
「なぜ、夜食限定なのか。しかも、わざわざ持ってきてくれるってわけ?」
「いや、宅配業者に依頼します」
「それ、あんたに頼む必要性ゼロじゃん」
ダメだったので仕方がない。
「いいでしょう、そこまで強硬に言われるのならわかりました、孝乃先輩のお願い事を一つ聞きます」
ぴくりと、孝乃先輩の口元が動いた。
「……え? 本当?」
「はい、ただこれは孝乃先輩がちゃんと勉強をした場合ですよ」
「冬治、後で無しだって言っても言うこと聞かせるからね?」
「望むところですよ」
「そう、それなら今日はおとなしく帰って勉強するわ」
売り言葉に買い言葉、孝乃先輩が勢いというか、そういうところがあるからな。継続する能力がちょっと低めっぽいが思い切りはいい。
ああは、言ったが、俺にとってもプラスになるお願い事をしてくるに違いないねと俺は一人、去り行く先輩の後姿を見ながら不敵に笑ってみせるのだった。




