北村孝乃編:第八話 本物へ
目が覚めたら理想の場所に行けたらよかったのにそうそううまくはいかない。目が覚めたらそのままの場所だった。保健室ですらなかった。もしくは美少女の膝の上ではないのか。待遇の改善を要求するぞ、おい。
「あ、起きた。ちゃんと記憶、ある?」
「ありますよ」
当然ながら俺の顔を見ていたのは亜美先輩だ。思いのほか痛いぐらいの力で人差し指をほっぺにねじ込んでいる。そろそろ血が出るんじゃないのか、これ。
「じゃあ、私の彼氏の名前、言ってみてよ」
「天道寺時雨先輩」
「あれ、教えたことあったっけ?」
「あはは、やだなぁ、割と有名じゃないですか」
どっと冷や汗が出ながらのこの対応。我ながらほめてやって伸ばしていきたい。
「そうかな?」
「そうですよ、ええ」
なんだろう、まるでカマかけられたような気分だ。必死にごまかしてみたが、冷静に考えてみると孝乃先輩が私の彼女だ、なんて言いださないところを見るとみやっちゃんが惚れ薬の効果を消してくれたんだろう。
本当に消えたかどうかを確認するのなら孝乃先輩を連れてくる必要がある。亜美先輩と孝乃先輩の仲が以前のようになったはずだが、元の二人の仲がどの程度なのか俺は知らないので判断しようがない。変に試してみることもない。おとなしく孝乃先輩に直接聞いたほうがいいだろう。
「どしたの、難しい顔しちゃって」
「いや、何でもないです。そろそろ俺、帰ります」
「あ、そう?」
携帯で先輩とやり取りしてもいいが、今日はやめておこう。また明日にでも聞けばいい。亜美先輩に別れを告げて、俺はそのまま下駄箱を通り過ぎ、校庭をつっきる。
自分がこれからどうすべきなのか、タイミングを見ようかと考えているときだ。すぐさまなんというか、心の内を伝えるのも微妙かなぁと思ったりする。
まー簡単に言うとへたれた。いざってなるとだめになる。
「あ」
「ん?」
そんな俺の心はとっくに誰かが見抜いていたのかもしれない。素晴らしい配置で帰路に孝乃先輩が待ってくれていた。いや、そもそもだ、孝乃先輩は俺に対して一人で帰るといって帰ったではないか。それが腕組みをして校門に背中を預けていた。なかなか様になるようなものだったが、あまりにも意思が弱すぎるんじゃないのか。
「あの、先輩」
「な、なによ」
「校門前で待っているのって恥ずかしくないっすか?」
「そりゃあ、恥ずかしいよ」
「ですよね」
「うん」
「じゃ、また明日」
「またね」
何の変哲もない健全な男女のやり取り。今度ひとけのないところでうひひひ、なんて助平な考えではないさわやかな風が一陣拭いた。
「ちょっとまったぁ」
「んがあっ、ちょっと、襟首つかむんなら一声かけてくださいよ」
縄紐ぶらりとつるされた人のような気持になりつつも、逃げられないことを悟った俺は先輩のほうへと向き直る。
「逃げない?」
「逃げません」
「負けない?」
「ま、負けません」
「じゃ、じゃあさ。この前あんたが言っていたことの続きをさ」
今時これまた珍しい右手と左手の人差し指の腹をつつんと合わせてもじもじする。それでまた内また気味にもじもじとするもんだから俺も隙をつくのもばからしくなった。
「あれ、冬治君じゃん」
そして背中から亜美先輩が声をかけてきた。
「あ、残念。ここで時間切れです」
「ぐあああああ」
両手を上げて指をぐねぐねさせ、どういう表情をしたらいいのかわかっていない孝乃先輩。目の前にいるのはあの亜美先輩だ。
驚きから若干の恐怖が入り混じってきたところで俺を盾にするよう隠れた。
「あれ、何、なんでこんなに恐れられてるの?」
「え」
「んんー? 何か悪いこと、したっけ」
俺に言うでもなく、かといって自分に言い聞かせているようにも見えない。首をかしげるでもなくその瞳は虚空へと示される。
何かを思い出しそうな感じがする、そんな目をちらりとしてみせたわけだが、機先を制する者がいた。
「ごめん。その、びっくりしちゃっただけだから」
「あ、そうなの」
「うん、うん。本当、本当にそれだけ……です」
なぜ、敬語なのかという考えをするまでもなく、ああ、この人は一派いっぱいなのだという理解が深まり、余裕のない人を見れば人は余裕を持ってしまうものだ。
「じゃ、またね」
「あ、うん」
「さようなら」
先ほどのやり取りではなかったが、ごく自然に亜美先輩は帰っていった。
「……帰りましょうか」
「……うん」
また誰かが来てはかなわないと、俺と孝乃先輩は一緒に帰ることにした。どういう流れでそうなったのか知らないが、俺の裾をちょこんと握っていたからか、そのまま手を引っ張って帰る。
まるで幼子のような先輩を引いていて、そのおとなしい態度になかば悪くないなと思っていた。そんな隙をさらしてしまったわけではないけれど、俺の手をくいっと先輩がひっぱった。
「わっ」
「え」
想像以上の声が出て、驚きとしか言いようがない一言。周りに俺たち以外がいなかったおかげで恥ずかしい思いはせずに済んだ。
「どうしたの?」
そして孝乃先輩が純粋に心配してくれている目線を向ける。申し訳なさをごまかそうと考えたが素直に言うことにする。
「びっくりしました」
「あ、うん」
どうしてだか僕ちん知らないと、わからないふりをしてみるが、このままこれで返してしまってはとてももったいない気がしてならない。
「それで、どうしたんですか」
トイレですか、なんて無粋なことをいうわけにもいかない。おとなしいからと言ってからかってやろうという心は捨ててみる。
「ちょっとさ、カラオケにでもいかないかなって……どうかな」
「行きましょう」
俺は先輩の手を引いて歩きだした。相手はどうやら緊張しているようでしっとりと手が汗ににじんでいる。
「あ、ちょっと待って」
「え」
またも立ち止まって孝乃先輩がハンカチを取り出して俺と先輩の間にくさびを打つよう、取り出したそれを挟み込む。
「汗ばむ後輩の手が気になったわけじゃないよ」
「は、それは孝乃先輩の手が汗ってるんじゃ?」
「あ、汗ってるって何よ。日本語は正しく使いなさいよね」
「汗がにじんでますよね」
「だ、だから何っていうのよ。男なら気遣って舐めてみなさいよ」
すごいことを言い出したぞ、この先輩。
「せめて、そこはその……気づかない振りしなさいよ、ならまだわかるかもしれません」
「く、くぅ……」
苦々しげな表情となったので俺は手を挙げてハンカチのにおいをかいでみた」
「ふんふん、いい匂いがします」
「なっ……あんた、変態じゃないの。いきなりにおいかぎ始めるなんて」
顔を真っ赤にしてあわあわと、それでいて繋いだ手を放そうともしない。
カラオケについてすぐさまいつものように役割分担を終えると先輩は黙りこくり、さりとてこちらから話せるような雰囲気でもなかった。
「お持ちしましたぁ」
間延びしたバイトの女の子がジュースを置いて行った時も、興味が鎌首もたげたらしく猫の目をしながらもおとなしく帰っていく。
「……られた」
「え?」
去り行く尻を横目にしたところでようやく先輩が口を開いた。が、見事に聞き逃す。まさか尻を見ていましたなんて言えるわけもなく、黙る。
「ふられたああああ」
天を仰ぐように頭へと手を持って行ったのもつかの間、すごい勢いで俺の胸倉をつかんであげた。
「でもね、いっそ清々しいの。なんでかしらね……あんた、なんでちょっと嬉しそうなのよ?」
横目で見たお尻がよかったというわけもなく、すべては孝乃先輩が切り出したタイミングが悪いのだというわけにもいかない。
「驚いて思わず口角あがっちゃっただけです」
「そ、そう。あ、ごめんね」
「い、いえ」
俺から手を放し、先輩は機械をいじくった。そして流れるメロディをバックにマイクを握りしめ歌い始めた。
それから好き放題、のどをつぶす勢いで歌い終えてマイクを置く。タンバリンを持たずに歌を聴いていた俺へ、先輩は向き直った。
「おねがいがあるの」
にゃん〇ゅうみたいな声で言われて吹き出しそうになったがこらえた。
「あたしのこと、好き?」
唐突に踏み込んできた孝乃先輩に俺は一つ、ため息をついた。
「切り込んできますね」
「今のあたしにはもう、怖いものなんてなぁにもないのよ。あの人への思いはあこがれだったと気づき、あんたに揺さぶられてこっちだって悶々としてた」
そ、そうなのか。それはちょっと悪いことをしたのかもしれない。
「あたしが好きだというのなら、キスしよう?」
「え、あ、え?」
どうしてそうなるのか。まるで酒にでも寄ったかのような目で俺を見る。抗うには少しきつめの色気、そして覚悟が見えた。
「何かの踏ん切りやらないとあたしさ、ダメなのよ。つーか、知っての通り惚れ薬を使っちゃうような人間だし、偉そうにあんたに説教を垂れたって、告白して振られたその日のうちにあたしの好きで好きで仕方ない後輩をカラオケに連れ込んじゃうような嫌な奴だもん」
「別に好きで好きで仕方がないってわけじゃないんで……いや、そうっす。その通りです」
何も考え任せ、勢い任せの末にここへ至ったわけではないのだろう。話があるうちは聞こうじゃないか。切って捨てるような口調をしていそうな人なのに、割かしこの人は話を聞いてくれる人だ。
「でもね、こういう勢いでもないとあんたのほうから告白受けて、はいって言っちゃったら……いや、絶対に言っちゃうもん。そうしたらあんたがいろいろとあたしに気遣うようになって、なんというか、引っ張ってもらうようになったらなんだかそれはそれでいや。あんたのこと、あたしが引っ張っていってあげたい」
なかなかすごいことを言わせてしまった。
「冬治って結構ちゃらんぽらんしていそうなくせして気づかいしている部分が多いし。一緒にいてあたしが……なんだろ、あたしは、あんたといられて自分がどういう人間なのかって教えてもらった。こういう自分がいるんだったって」
その眼にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「それと、今日は時雨君に告白したんだけど、それって付き合ってくださいとかじゃないの」
「ん? どういうことです?」
「だからその、憧れてましたって言ってきたの」
理解するのに少々かかったが、あなたのことが好きですといったわけではないらしい。あこがれていたと伝えられたほうはどう返答するのだろうか。
「なんていわれたんですか?」
「うれしいよって」
ある意味、告白成功したのか?
「最近すごく明るくて、意見を口にするように変わったよねって。それと、昔は獲物を陰から狙う蛇のような視線を感じていたって言われた」
あの時雨先輩とやらは人を見る目があるのやらないのやら、後一言余計だ。事実だけどさ。
「うまく説明できていないかも。えっと、その……だから、だからあたしと……キスして、いや、させてください」
顔を真っ赤にして、お願いされた。時機を見て、もう少し孝乃先輩が落ち着いてからと考えていただけに俺のほうも内心溺れ気味だがここまで度胸を見せてもらったのだから。
「えっと、はい。その、こちらもお願いします」
なんというか、正直しまらない返答をしてしまった。
俺の返答を聞くや否や、下げていた頭を上げて俺の両肩をつかんだ。
「ひっ……」
「はぁ……はぁ、も、もうダメ。ダメって言ったってするからね?」
うまいたとえが出てくる頭でもない俺だが、欲にまみれて女子を見る男子がそんな感じかもしれない。年頃にありがちな異性への興味が暴走気味のそれがこの孝乃先輩に当てはまるんじゃあないかと思った
引き気味の俺へと迫る孝乃先輩は、それはそれは、脳裏に刻み込むような姿であるのは間違いなかった。いやはや、まさかなすすべなくされるがままになるとは夢にも思わなかった。




