西牟田紗生編:第七話 お薬の危険性
紗生ちゃんが反転の薬を飲んで鏡の中の俺を粉々にしたのは気づけば数日前の出来事。問題は一つ進展したわけだ。
そして俺は今、紗生ちゃんに命を狙われている。
「くそ、マジかよ」
正確に言うと、鏡に映った俺のことを殺したいそうだ。もう、惚れ薬どころの話じゃないぞ。と言うかな、そうなるのならさ、鏡の中の俺と現実の俺ってほぼ一緒じゃん。俺に惚れてくれても良くないかなぁ。
「先輩、逃げないでくださいよぉ」
虚弱そうな見た目のくせして、その瞬発力はちょっとした化け物クラスと言っていい。屋上から飛び降りて、壁を蹴りながら移動するなんて基本的にゲームかドラマでしか見たことがない。
これだけならまだいいが、鏡の欠片を握っただけで結晶のような刃物まで作り出した。もう存在がファンタジーだ。欠片を握って剣だなんて、中学生男子大喜びだぞ、おい。
「冗談じゃないっ、こんな効果になるなんて聞いてないぞっ」
「私、気づいたんですよ。鏡の中の冬治先輩を完全に消すには……今、私の目の前にいる冬治先輩を消さないといけないってことに」
「反転の薬が本当にやばい方向に突っ走ってるっ」
学園に登校しようなんて状態ではなく、今は羽津市の山で追いかけっこだ。互いの服はところどころほつれていたり、汚れたりしている。向こうは食事を一切取らず、不眠不休でこっちを追いかけてきている。化け物……と紗生ちゃんに言ったら怒るだろうか。案外、あの子ならそれはすごいですねって笑っていそうだよ。
薬の力のせいなのか、紗生ちゃんの身体には赤いオーラがほとばしっている。本当、なんでそんなものが普通の女の子から出ているのかよくわからないよ。
おかげで、相手の位置は丸わかり。こちらの場所は見えていないわけだ。まぁ、隠れていても数時間でばれてしまうので逃げないといけない。
見つかる、紗生ちゃんの一撃を避ける、逃げる、隠れるの繰り返しだ。いい加減、疲れてきた。
「しかし、普通の女の子がこんなにもおかしな動きが出来るとは思えないんだよなぁ」
「そこですかっ」
「おっと」
つかず離れずの位置を維持していなければいけない理由の一つに、目の前の少女が信じられないことに人質を取って俺をあぶりだそうとする。これも山のほうに逃げてきた理由の一つ。普段の穏やかな性格はどこへ行ったのやら。
彼女が右手に持っている剣のような結晶は何かに刺さればその場に巨大な結晶を生み出すのでその間に逃げることが出来る。木の前に立ってぎりぎりのタイミングでよければ逃げる隙はある。
これは何かのボス戦だろうかと思ったりもする。
地面に紗生ちゃんが剣を突き立てたところで転がりながらよけ、また逃げ始める。そんな俺の傍らに、いきなり別の少女が現れた。
「……冬治」
「み、みやっちゃんか」
普段通りの物静かで、落ち着いた感じが逆に頼もしい。
「……あの子、ううん、薬の力が暴走してる?」
「見ての通りだ」
「……今は彼女を止めないと」
「手伝ってくれるか?」
「……うん」
「よっし、俺が彼女を止めるからみやっちゃんがどうにかしてくれ」
「……わかった」
首を縦に動かし、彼女は消える。俺は足を止めて走ってくる紗生ちゃんを見た。
「冬治せんぱーい」
「……はぁ、本当、申し訳ない事ばかりだよ」
加速して突っ込んできた紗生ちゃんの手首を握る。代謝はあるようで、汗臭かった。
「ぐぅっ……え、何この馬鹿力」
「死んでくださいよぉ」
信じられないことに、振りほどかれようとしていた。
「み、みやっちゃーん。そろそろやばいっぽい」
「……大丈夫」
みやっちゃんが視界の端っこで平手を重ねている。俺たちの足元からまばゆい光が広がっていった。
「あれ?」
「ん?」
気づけば俺と紗生ちゃんがいるのは喫茶店だ。見覚えがあるものの、俺たちの服装はよれよれでぼろぼろ、おまけに臭かった。
紗生ちゃんの右手には何も握られていないし、時間もあの時に戻っている。
「……あのー、なんだかとても不思議な経験をしたように思えます」
「そうかな? 多分、気のせいだと思うよ」
「でも、服もぼろぼろに……あれ?」
彼女と俺の服が瞬きするうちに綺麗になったりする。まるで魔法を見ているようだ。
「うん、俺にもよくわからないけどなんだかほっとしたような気分だよ」
俺は反転の薬がいまだにテーブルの上にのっていることに気づき、それを拾ってポケットにしまった。
「もしかしてこれ、時間がもしかしてさかのぼったとか?」
「紗生ちゃん最近疲れてるんじゃないの?」
「そう、ですかね……」
今一つ納得いっていないようだが、この反転の薬が飲ませられない以上、現状維持しかなかったりする。
「確認をしたいんだけど」
「はい」
「鏡の中の俺に、君は恋している。オーケー?」
「そう、ですね」
「殺意はないと?」
「当たり前ですよ。見ていてくださいね」
そこで相手は首をかしげて、手鏡を取り出して俺を見た。
「と、ときめきませんっ」
「え?」
「鏡の中の先輩を見ても、まったく心がときめかないんです。切なさとかも、全然ありませんっ」
それはそれでちょっと複雑だ。
「そっか……」
「あ、そういえば反転の薬を飲んだんですっけ。それがうまく作用したんですね」
「……うん、そうかも」
このまま薬のおかげにしておけばいいだろう。そう思いながら俺はコーヒーを口にする。
「ん?」
首をかしげて液体を見ると、それは紅茶だった。
俺はコーヒーを頼んだような気がするけど、どうやら店員さんが間違えたらしいな。
お店を出てから俺たちは帰路につき、曲がり角のところで紗生ちゃんがこちらにくるりと向き直った。
「冬治先輩、これまでお世話になりました」
「……いいや、俺の責任だからね。迷惑をかけてしまって、本当に、悪かったよ」
彼女に対して頭を下げた。こうやって、本気で謝罪するのは生まれて初めてだ。
「頭を上げてください、冬治先輩。とても貴重な体験でした。普通に生きるだけじゃ味わえない事でしたから」
「でも」
「でもじゃないですよ。いいじゃないですか、冬治先輩が償ってくれたのを一番近くで見ていたのは私です。私に申し訳ないなって思うのなら、私の言う事を聞いて頭を上げてください」
そういわれては頭を上げるしかない。
目を輝かせる紗生ちゃんはまぶしい。得難い体験を彼女は出来たのだろう。俺のほうはこれで彼女とおさらばかと思うとちょっとだけさみしかったりもする。
「だから、そんな体験をさせてくれた冬治先輩の恋を応援しようと思います」
「……え?」
「南山葵先輩に一服盛るんですよね、惚れ薬を」
「……まぁ、最初はそのつもりだったよ」
「手伝いますよ」
「そ、そう?」
「はい」
「あの……俺が言うのもなんだけど、薬の力で相手の心をどうにかするのはどうかと思うんだ。もう薬は使わないよ」
こりごりだ。自分より非力な女子生徒に追い掛け回されて山の中でスリリングな鬼ごっこを楽しむなんてさ。
そういう体験は一度でいい。本当、最後のあれは危なかったな。
「じゃあね、紗生ちゃん」
「はい、今日は楽しかったですね」
「はは、それはよかった」
いろいろと肩の荷が下りた。
そう思うのと同時に一抹のさみしさを感じるのはなんでだろうな。
こうして、紗生ちゃんを巻き込んだ惚れ薬の事件は幕を閉じた。結局、解決してくれたのはみやっちゃんで、素人がどうこうするよりプロに任せた方がいいという結果が俺の中で生まれつつあった。勿論、動くのも悪くないし、紗生ちゃんほどではないだろうが興味深い体験をすることもできたからな。
「なぁ、冬治。お願いがあるんだけど俺の右手を引っ張ってくれないか」
「あぁ? ほらよ」
惚れ薬事件が終わって数日後、俺はいつもの日常を取り戻していた。
「右手を引っ張ったら何か起こるのかよ」
「次元跳躍する」
「は? お前さんが?」
「いや、この世の誰かが……例えばそう、こんな風に」
そういって両手を広げて床で飛び上がり、片膝をついた。
「はっ、ここはっ。俺は確か、北海道の最南端にいたはず」
ややこしいな。北海道の最南端か。どこだ、そこの地域は。
「お前さん、恥ずかしくないのか。この年齢にもなってそんなことを言って……」
「何言ってんだ。お前、ドラマを見たことあるか?」
「あるけど。それがどうかしたのか」
「あんなもん、ごっこ遊びだ。自分じゃない誰かになり切って、カメラの前で言葉を口にしているだけだろ」
それは極論ではないだろうか。
「だがな、大人のごっこ遊びで視聴率を取るんだぜ? 野球中継も一緒だ。ガキでもできる遊びで観客から金をとっている……そうだろう?」
「それとお前さんの恥ずかしいポーズと何か関係があるのか」
「ない」
「それならあっち行ってろ」
手で払うが、やつは動じなかった。大空に舞う白鳥のように両手を広げて片膝を立てたままだ。
「最近元気ないじゃんさー。友達としてはそんな元気のないお前を気遣いたいんだ」
「そそ、マジそれね」
そういって今度はあほ女がわいてきた。俺の目がおかしくなっていないのなら窓の外から現れた気がする。
「紗生から聞いたけど、問題も解決したんだって?」
「……まーな」
「ははーん」
俺の言葉に何かあたりを付けたようで、いやらしい笑みを浮かべる。
「紗生と会えなくなったからさみしいんだ?」
「……」
「あ、ちょ、無言で窓に引きずるのはやめて。このままおとなしく従ってたら窓から捨てられそう……只野、助けてー」
「冬治よ、少し待つのです」
そういって今度は友人が天使のような表情を見せてきた。
「話だけは聞いてやろう。なんだ」
「恋をするのならもっとおっぱいが大きくてアダルティな雰囲気の女性を狙おう」
「はぁ?」
「窓の外を見ろ。次が体育の女子。あれさ、先輩だけどよぉ……あの尻、たまんねぇだろ。おっぱいなんてすっげぇ揺れてるぜ……あ、やめて、無言で落とすのはやめて。貧乳派ね、知ってたよ。だからやめよう、落ち着こう」
抵抗されているうちに七色は俺の手から逃れ、したり顔をしている。
「あのね、冬治。紗生のほうも会えなくてさみしいって」
「……え、マジで?」
俺はつい反射的に七色に詰め寄ってしまった。
「う、そ……いや、その表情の落差わろえるじゃあん、わろえーる……あだだだ、本気で窓から捨てようとしないで」
「ちょっとー、教室の窓はゴミ箱じゃないけど?」
騒いでいたら南山さんがやってきた。俺の手から逃げた友人が彼女の影に隠れている。七色もまた、隙をついて南山さんの後ろへと逃げ込んで縋り付いていた。
「やーん、助けて。冬治が捨てようとする」
「本当本当、びっくりしちゃったわーん」
「だ、そうだけど、どうしてそうなったの?」
話自体は聞いていないらしい。ま、俺らの話を真面目に聞こうとしているクラスメート何ていないな。
「こいつらが俺をからかうから」
「……どんな感じで?」
「うーんとねぇ、冬治のお気に入りの後輩に会えないっていうところを馬鹿にしてやったら急激に怒った」
七色がそういうと、南山さんはくるりと俺に背を向けた。
「そういうのは一番やっちゃだめだから。捨てていいよ」
「協力感謝」
「あ、ちょーっとまって。今の冬治に冗談通じなっ……」
「やばい、こいっ……片手で握ってきてるのに、本気でけりを入れても全くダメージを与えられていなっ……」
ごみを分別した後、俺はぼろ雑巾になった七色が動き出したのを見てちょっと聞いてみることにした。
「なぁ、七色」
「ひっ、追撃はここらのしまでは禁止だから」
「するわけないだろ。一つ聞きたいんだが、紗生ちゃんは俺のこと、怖いだとかなんとか言ってなかったか?」
俺のこの言葉に苦笑していた。
「……薬を使うような人間に対してそう思っていても不思議じゃないけどね」
周りにクラスメートがいると言う事もあって、薬としか言わなかったがそれでも十分聞かれたらやばい話だ。
「ま、紗生はそんなこと言ってなかったよ」
「そ、そうか。そりゃよかった」
「こりゃ完全にほのじ?」
「……そういうわけじゃねぇよ」
「素直になればいいのに」
「なるもなにも、俺は別に紗生ちゃんのことを……」
「私がどうかしたんですか?」
「うおっ……」
俺はびっくりして二階の窓から飛び降りてしまった。
「あー、びっくりした。紗生ちゃんがいきなり出てくるから驚いちまった……どうした、お前さんたち」
クラスメートが教室に戻ってきた俺を見て驚いているように見えた。
「今さ、飛び降りなかった?」
「気のせいだろ。窓から飛び降りたように見えて、廊下に瞬間移動しただけだ」
「嘘だろお前、病院に行ったほうがいいんじゃ? 噂じゃ屋上から飛び降りて走り去ったっていう生徒がいるけど、それもお前じゃないのか?」
「窓から飛び降りた人間が無事なわけないだろ。幻でも見たんだよ」
「そうかなぁ、信じられないぞ」
誰も信じていないようだが、そんなことはどうでもいいんだ。
「それより紗生ちゃん。今日はどうした」
「あ、え、えーと、冬治先輩がどうしているかなって」
「俺は元気だよ」
「そうみたいですね。窓から飛び降りてもぴんぴんしてますし……」
「それは幻だと思う」
「だと信じたいですけどね」
ちょっとだけ俺に疑惑の視線を向けたが、七色が一つため息をついた。
「紗生―、冬治ってば紗生と一緒にいる間にあんたのことが……」
意地悪するやつの背後に瞬間移動し、口を抑え込む。
「むぐぐ……」
「あれ、今瞬間移動しなかったか?」
「人間は瞬間移動できるように出来ちゃいないぞ、友人」
「……そうだよな」
首をかしげる友人はまぁ、いいとして、余計なことを口にしようとした七色はしめ落としたい気分になった。
「あのー、冬治先輩。怖い表情してますけど虹さんはなんって言おうとしたんでしょう」
「紗生ちゃんが可愛いって言おうとしたんだろ、な、そうだろ?」
七色を開放してにらみつけるとうんざり顔で返された。
「そういうことは言えるくせして……ま、冬治がそれでいいのならいいんじゃないの」
俺が紗生ちゃんにそんな気持ちを抱けるわけもない。何せ、彼女には悪いことをしちまったからなぁ。




