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東風平佳苗編:第八話 前に進むには後悔を

 合宿が終わったその日の晩、俺はみやっちゃんから渡された新たな小瓶をテーブルの上で弄んでいた。

 佳苗に施されている惚れ薬の効果を打ち消し、気絶させる薬だ。さらに、気絶させた後はみやっちゃんが惚れ薬に関する記憶を消してくれる予定。

「……はぁ」

 深いため息が出る。

 これを佳苗に飲ませるのが、俺の望んだことのはずだ。惚れ薬を佳苗が飲んだのは事故……じゃないな、あいつが悪い。

「くそ、どうして俺が佳苗のことで悩まないといけないんだ」

 あほらしい。それならさっさと佳苗にこれを飲ませてしまえばいい。風呂上がりにいつも飲んでいるスポーツドリンクに入れて飲ませ、みやっちゃんが近くの公園に待っているのでそこに連れて行けばオーケーだ。

 テレビから聞こえてくる無神経なお笑い芸人の笑い声が耳につく。イライラして、別の番組に変えたら二メートルを超える魚が釣れていた。

「……単純にすげぇ。え、なにこれ、こんな魚がいるの?」

 興味を出して俺はそのままテレビを見ていた。

「あがったよー」

「おー……って、あああっ」

「え、いきなり大声出してどうしたの?」

 佳苗はぎょっと俺のほうを見ていた。

「嘘、もうお風呂あがったのか」

「う、うん。いつも通りだと思うけど?」

「……あの魚の大きさはしょうがないわなー」

 ああいう魚って食べたらおいしいのかな。大味だって言われるけど、食べてみない事にはわからないしなぁ。

「え? 何か悩み事?」

「まぁ、そんなところだ」

「割と、真剣そうだね……聞くよ?」

「そうか? さっきな、大きな魚が釣れていてさ、それってみんな大味って言うじゃん? でも、実際に食べてみないとわからないよなぁって……あれ? なんで呆れてるの」

「ううん、思っていたのと違う方向性だったから、つい」

 佳苗が冷蔵庫に向かったので、開けたタイミングで後ろから佳苗のペットボトルを奪い去った。

「あ、ちょっと。何してるの」

「佳苗、目をつぶってくれ」

「どうしたの?」

「頼む。言う事を聞いてくれ。このお願いを聞いてくれたら何でもしてやる」

「何でも?」

「……ああ」

 どうせ、記憶を消してもらうからな。風呂敷はいくらでも広げてやるさ。

「本当だよね?」

 おめめが怪しく光っていた。ちょっと安請け合いしすぎたかな。

「も、もちろんだとも」

 ただし、お前さんが覚えていればな。

「わかった、約束だよ?」

「おう、楽しみにしとけ」

 佳苗が目をつぶったのを確認し、彼女に背を向けてペットボトルに薬を入れようとする。

「……」

 俺は、何をしているのだろう。このまま、今の生活が好きになっているのならそれでいい気がする。何のための惚れ薬だろうか。もとをただせば、俺がわがままを通させるために準備してもらった薬だ。結果オーライなら、俺が良ければそれでいいはずだ。

「ねぇ、冬治君。まだかなー?」

「……すぐに終わる」

 ペットボトルの液体に、小瓶のそれを混ぜ込んだ。

 佳苗が勝手に俺の惚れ薬を飲んだとはいえ、かわいそうだ。惚れ薬で人生をゆがめられていることにいつか気づくかもしれないし、このまま佳苗と一緒にいれば、俺のほうが変に気遣ってしまうかもしれない。

「えっとさ、変なことを聞くけどな」

「うん、何かな?」

 目をつぶる佳苗に俺は一つ聞いてみることにした。

「俺のこと、好きか?」

「もちろんだよ」

「……そうか、ありがとう」

「どういたしまして。冬治君はわたしのこと、好き?」

「ああ、好きだよ……残念ながら」

「残念ながらって、何それ」

 笑っている佳苗に、俺はペットボトルを手渡す。

「思いっきり振ってやった。これで炭酸が噴き出てべとべとだな」

「あのさ、これはスポーツドリンクだからね? 炭酸ないし」

 佳苗がキャップを外し、口にしたところで俺は佳苗に頭を下げた。

「どう、したの?」

「お世話になったな。今後は勝手に人の飲み物を飲まないようにしろよ?」

「お世話になったって……何言ってるの? さっきから冬治君が言っていること、わからないよ」

 体を震わせ、その目は金色に光っていた。青、黄色、赤色は見てきたが、金色は初めてだ。

「……さよなら、佳苗」

「うそ……何それ」

 その色が消えたとき、数秒後に佳苗は倒れた。それを支え、みやっちゃんに連絡する。

「……あ、もしもし? うん、そうそう。じゃ、これからそこへ行くから」

 こぼれた液体と、ペットボトルを片付ける。すでに済ませていた、旅行バッグを玄関近くにおいて、俺は一つため息をついた。

「思ったよりも、ここにいた時間が長かったな」

 物は少なくて、大した思い出もないかもしれないが、俺は佳苗の部屋に未練を感じてしまった。

「あほらし」

 扉を閉める。行ってきますとも言えなかった。そして、当たり前だがいってらっしゃいは聞こえない。

 佳苗を背負って公園まで行く途中、恐ろしいことに誰一人として出会わなかった。まるで別世界にでもやってきたようだ。

「……来たね」

 闇から這い出るようにして、みやっちゃんがその姿を現した。影を切り取ったような三角帽子に、深淵を宿したローブ。二つは彼女にマッチしていて、その身は暗がりで黙っていれば人に気づかれることはないだろう。

「……そこに、寝かせて」

「わかった」

 みやっちゃんに言われた場所へ佳苗を横たわらせる。

「やーれやれ、こいつめ、迷惑かけさせやがって」

 最後に、鼻をつまんでやった。幸せそうに寝息を立てているのが腹立つ。

「……本当にこのまま続けていいの?」

「あぁ、いい。佳苗が間違えて飲んだんだからな。事故だよ」

「……そう」

「やっちゃいないし、キスだってしちゃいないさ。変な同居人、その程度だ。惜しむらくは、こいつが抱えている問題をどうにかしてやれなかったってことだけどさ」

 結局、こいつは全力で走れないままだろう。そこらへんは後でみやっちゃんに相談してみようかな。知らない男子生徒がいきなり、走れるようになったか、なんて聞けないしな。

「あとでそのことを話したい」

「……わかった」

 そういった後、みやっちゃんは右手を振るう。次の瞬間にはその手に杖が握られていた。仙人が持っていそうなその節くれた杖は赤く光り、佳苗を中心に巨大な魔法陣を形成した。かなりのエネルギーを感じる。

「……終わった」

 何かが始まるような感じがしたものの、みやっちゃんは終わりを告げた。

「え、今ので終わり?」

「……記憶を奪うだけだから。何かを与えるのは大変だけど、誰かから何かを奪うのは、とても、簡単」

 それはとても怖い話だ。

「じゃあ、とりあえず佳苗を家に……」

「……大丈夫」

 そういうと、みやっちゃんは左手を振るう。たったそれだけで、佳苗の姿が消えた。

「おぅ、すげぇ」

「……部屋に寝かせておいた」

「さすが。気が利いてる」

「……それで、さっきの話は?」

 佳苗が抱えている問題についてみやっちゃんに話すと、彼女はしばらく考えていた。

「……出来る」

「お、うれしいね」

「……だけど、こっちで解決するような準備をしていいの? 冬治が直接解決したいとかは、ないの?」

 深淵を覗くような態度をいつも見せているみやっちゃんにしては珍しく、いつもと違ってその言葉には人の温かさがこもっていた。

「ないね。ないない。だって俺はもう単なる……友達ですらないからな」

 しいて言うのなら知り合い程度だ。

「……そう」

 みやっちゃんはローブの中に手を入れて、少しガサゴソして小瓶を取り出してきた。

「これは?」

「……本人が最も取り戻したいものを取り返せる薬」

「なるほど、これを佳苗……いや、東風平に飲ませれば全力で走れるようになるのか」

「……そう、本人が意識的、無意識的に最も取り戻したいと思っているものを、ね」

 みやっちゃんは前髪から覗く目で俺を見ていた。彼女の薬だから、効果抜群だろう。それは俺がよく知っているし、惚れ薬が抜群に聞いた東風平には効果絶大だ。

「……飲ませる必要はなく、相手にかけるだけでいい」

「そっか」

 どっちかと言うとそっちのほうが難しいかもしれない。ただ、相手の背後を取ってからかければそうでもないか。かけたあとはすぐに逃げればいいだろうし。

「じゃあ、これ、もらっていくよ。何から何まで迷惑かけて悪いな」

「……ううん、気にしてない。じゃあ、またね」

「ああ、またな」

 そういって、みやっちゃんは闇に消えた。

「やれやれ、俺もようやくゆっくり眠れるな」

 その日の夢はあまり、良いものじゃなかった。

 東風平の惚れ薬効果を打ち消した次の日、俺は溜まっていた夏休みの宿題を減らすことにした。

「……」

 なんとなく、誰かから連絡がないかと思っていたが、ありはしなかった。

「そりゃそうか」

 結局、夏休み中は当たり前だが、東風平から連絡なんてあるわけもなかった。あっという間に夏休みが終わり、二学期が始まる。変な心の虚無感も、一週間程度で無視できるものになってくれたからよかった。

「よぉ、冬治」

「久しぶりだな、友人」

 ハイタッチをしていたら七色がやってきた。

「おはよう、冬治君」

「おはよう……なんだ、その珍獣でも見る目は?」

「陸上部の人たちがさ、騒いでたよ? 話の中に冬治君の名前が出ていたから、こっちにくるかも」

 そういった瞬間、教室の扉が乱暴に開いた。

 よく知った巨乳三人組がずかずか入ってきて、俺の目の前までやってくる。ほかのクラスメートたちはその剣幕にぎょっとしており、七色や友人も同じだった。

「大変だよ、冬治君」

「そうだにゃ、かながおかしくなったにゃ」

「私には彼氏なんていないって……あの、冬治さん、ぼーっとしてどうしたんですか?」

 東風平の記憶を消しただけじゃ、意味ないよな。佳苗のことばっかり考えていたから、周りのことを忘れているなんて……俺、あほかよ。

「あぁ、いや、おはよう」

 特に何も考えていなかった。本当、佳苗のことしか考えていなかったからな、うん。

「のんきに挨拶している場合じゃないにゃ。かなのこと、知ってるかにゃ?」

「かな? だぁれ、それ」

 かなり棒読みになってしまったが、大丈夫だろうか。

「……どういうこと、これ」

 しましまが首をかしげている。俺の演技も捨てたものではなかったらしい。

「困ったにゃ。かなは冬治のことを忘れていて、冬治もかなのことを忘れているようだにゃ」

「これ、どういうことですか?」

「ちょっと待って、冬治君、彼女と別れたの?」

 七色が話に入ってきた。あぁ、面倒くさくなったが、俺が東風平のことを知らない体で貫き通せばいい。

「彼女? 俺の彼女は左手だけだぞ」

「いや、下ネタでぼけてるばあいじゃなくてさ。胸のうっすい陸上部の彼女がいたじゃん」

「いたっけ?」

「おいおい、マジかよ」

 ぎょっとした顔で友人が俺を見ていた。

「実はさ、なんというか、夏休み前の記憶があいまいでな。ぼやけているというか……」

「……ぼやけてる? 何かあったのかな? 事故?」

「ですかね、しまさん。もしかして、私たちのほうがおかしくなってしまったのかも。異世界に来ちゃったとか」

 ここでまちかさんがわけわからないことを言い出してくれたのでグッジョブだ。

「しかしにゃ、かなは冬治と付き合っていなければ、この前話してくれていたあれがおかしなことになるにゃ」

 あれ、あれとはなんだろうか。

「とりあえず、私たちのことは覚えてるんだよね?」

「あ、ああ。どうやって出会ったのかはわからないが、覚えてる」

「そっか、じゃあ、放課後……陸上部に来てよ。君に会わせたい人がいるから」

 佳苗に違いないだろう。

 三人組はそれ以上何も言わず、帰っていった。

「記憶がなくなったのか」

「いやなことでもあったのかね」

 友人と七色は俺の頭をぺしぺしと叩いていたりした。彼らなりに心配してくれているのかもしれない。

「変におとなしいな」

「頭ぺしぺししたらうがーってなりそうなのに」

 放課後、逃げてもいいが、怪しまれそうなのでおとなしく陸上部に行くことにした。

「冬治、変なことに巻き込まれたくないと思うかもしれないが約束はちゃんと守ったほうがいいぞ」

「そうだよ、これがきっかけで何かいいことがあるかもしれないからね。行きたくないのなら、あたしたちを倒していきなよ」

「いや、ちゃんと行くぞ?」

 俺がそういうと二人とも驚いていた。

「マジで?」

「すっぽかすのかと思った」

「あの三人組を敵に回すと面倒だからな」

 家まで特定された挙句に連行されるのが落ちだろう。

 おとなしく陸上部に向かうと、なぜか縄の準備をしている三人組がいた。

「何してるんだ、陸上部が縄を使うなんて初めて聞いたぞ。綱引きでもするのか」

「あれ、ちゃんと来てるし」

「にゃ、本当だにゃ。縄の準備が無駄になったにゃ」

「残念です。せっかく、亀甲縛りの勉強したのに」

 おとなしくここにやってきて本当に良かった。変なことになるところだった。

「それで、会わせたい人がいるってどこだよ」

「かな、お客さんだよ」

 しましまが手を叩くと、部室が開いて東風平が現れた。

「……」

「……」

 お互い、視線を交差させるが何も言わない。

「えっと、こちらの方は?」

 黙っていても埒が明かないので、三人に名前を聞くことにした。

「わたしの名前は、東風平佳苗。君は?」

「俺は四ヶ所冬治だ」

「二人には走ってもらおうと思って」

「走る?」

 てっきり、いろいろと聞かれるかと思ったが予想だにしないものだった。

「そそ、全力で走っていれば思い出すこともあるかもしれないし」

「あのな……」

 佳苗は全力で走れないだろと言おうとして、口をつぐむ。俺はこいつのことを知らない……振りをし続けなければならない。

 全く、ある意味罪ってやつかねぇ。罪なんざ感じる必要ないって言うのに、佳苗のやつは忘れているからうらやましいよ。俺も、みやっちゃんから都合の悪いことを忘れられる薬を処方してもらおうか。

「負けたらジュース一本おごりね」

「はぁ? やだよ。どうして俺が走らないといけないんだ」

 とりあえず、東風平の近くにいるのはやめておいたほうがいい気がする。

「じゃあ、冬治君だけ勝ったら私たちの誰かのおっぱいを揉んでいい権利を進呈しよう」

「……え、やるや……いや、やめとく」

 そういって俺は背を向ける。

「彼女もいないのに、普通の男子生徒ならこの条件、乗るよね」

「そうだにゃ」

「ですね。あたしたちの知っている冬治さんなら、乗ってますよ」

「もしかして冬治は何か知っていて、乗れない理由があるのかにゃー……にゃーんて、思っちゃうかもしれないにゃ?」

「それなら条件を変えろ。全員の胸を揉んでいいのなら走ってもいいぞ」

「よくばりさんだにゃ」

「でも、いいですよ」

「終わった後にやっぱり無しはないからな」

 この間、ずっと無言の東風平が少し怖かった。

「位置について」

 スタートラインに立って、俺は走る先を見る。全力を出したら佳苗には楽勝だろう。

「よーい」

 しかし、よく考えてみればこれはチャンスだ。ポケットの中にみやっちゃんから渡された薬が入っているので、これを佳苗にかければこいつは全力で走れるようになる。段取りをどうしようか考えていただけに、この状況は願ったりかなったりじゃないか。

「どんっ」

 佳苗が俺より先にスタートする。クラウチングスタートに対し、俺はスタンディングだ。勝つ必要はない勝負だし、俺は自分の目的を達成できさえすればいい。どうせ、勝ったところで約束は反故にされるんじゃないのか。

 先行する相手より少しだけ前に立ち、俺はさっそく液体をかけてやった。

「うわ、なにこれ」

「……よし」

 かかったのを確認したのち、やっぱり勝った後の条件がよかったので勝つことにした。

 佳苗をぶっちぎって勝利し、唖然とする三人の前にやってくる。

「死力を尽くしてやったぞ。さぁ、順番に揉ませろや」

「い、いやいや、冬治君。彼女がいるのにそれはおかしいんじゃないの?」

 しましまが軽く俺から離れていく。

「ははは、何言ってんだ。やーっぱり触らせる気、ないんじゃねぇか」

 馬鹿だな、俺は。わかっていても佳苗を振り切って忘れたかったのか。

「普通に考えて浮気はダメにゃ」

「浮気も何も、俺に彼女なんていないっつーの」

「あの……でも」

「でも? 何。まちかさんから揉ませてくれるわけ?」

「やっぱり、かなさんは冬治さんの彼女じゃないでしょうか。すごい顔で、こっちに走ってきてますよ」

「……え?」

「冬治君っ」

 そういって、憤怒の形相で佳苗が走ってきた。トップスピードのまま、俺へと飛びついてくる。

「お、おい、危ないだろ」

 避けるわけにもいかないので、佳苗を抱きとめる。

「そんなことより、やっぱり大きな胸のほうがいいんだ? 小さくたっていいっていってたじゃん」

「あぁ? だってよ、あっちが触っていいって言ってたんだぜ。お前さんも聞いてたろ」

「彼女がいるのにひどいじゃん。触ってくれないくせに」

「……あれ、佳苗。ちょっといいか?」

「何?」

 きょとんとする佳苗に俺は確かめてしまう。

「俺はお前さんの……なんだ?」

「彼氏でしょ」

 その言葉に、俺は固まってしまった。

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