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夏八木千波:第二話 窓を出てすぐそこ

 夏八木千波は俺の部屋の窓から見える距離にいつだっている。向こうのカーテンが開いていれば、部屋を覗き放題、覗かれ放題だ。

 これってプライバシーの侵害じゃないかしら。

「兄さん」

「なぁに千波ちゃん? あらやっだぁ、今日もなめまわしたいぐらいかわいいかおをしているわねん」

 にこっと微笑んでみる。

 俺の言葉を聞いて普段無表情の千波のまゆ毛が斜めになった。

「兄さん! 女言葉を使うのはやめてください! 幼少のころを思い出します!」

「そいつは失礼した」

 千波の口調がちょっとでも強くなったら限りなく赤信号に近い黄色信号である。彼女を怒らせると現状でも頭があがらないのに土下座させられる勢いになり、ご機嫌取りに財布が軽くなる(しかも、満足しなかったら更に機嫌が悪くなる)のだ。

 しかし、千波よ。なめまわしたいは突っ込みを入れろ、それと、幼少のころに何かあったのかよ。俺のほうには記憶がないぞ。

「それで、どうした? 何か用か」

「用がないと兄さんって呼んじゃいけないんですか」

 初々しいカップルみたいなことを言いやがる。ふふふ、かわいい奴め。

 まぁ、あいにくとこれはさっきのことでごきげんを損ねてしまうとこうなってしまうからな。逆に機嫌がいい時だと割と過剰なスキンシップをしても喜んでくれるから感情の差が激しい子なのだ。

「今度は無視ですか」

「悪い悪い」

「兄さんがそうやって同じ言葉をつづけるときは軽く流そうとするときです」

 こっちも向こうを知っているが、あっちもこちらのことをよく知っているようだ。

「いやー、すまん。単純に千波の顔を見ていたらテンションが上がってきただけだよ」

「……本当でしょうか?」

「これに関しては嘘じゃないよ」

「まぁ、いいですけど」

 千波は大人なんで、そういって表情がよくなる。

「それで、どうしたんだ?」

「掃除していたらアルバムが出てきたんです。一緒に見ませんか?」

 少しだけ埃の付いたアルバムを両手で持ち、こっちに突き出してくる。

「おー、本当かよ。見ようぜ」

 たまにアルバムを一緒に見ることはあるが、不思議な事にこれまで同じアルバムを見せられた事は無い。どれだけ写真を撮っているんだよと言いたくなるほどアルバムがあるそうで、ほぼ毎日あるそうだ。千波が映っている半分くらいに俺も写り込んでいるからその頃から両家の仲はよかったんだなーと思い知らされる。

「それで、どっちの部屋で見る?」

 ここはやっぱり千波の部屋かなと思っていると千波が脇にアルバムを抱えた。

「そっちに行きますね。兄さんが部屋に来ると下着を探しそうなので」

「はぁ? 俺が探すわけないだろ」

 箪笥のどこに仕舞ってあるのか知っているんだぞ。ご丁寧にシールで『下着』とか貼ってあるので俺は何度もはがすように注意したが聞き入れてもらってない。大した下着を穿いているわけでもないし、上はスポーツブラだし。いまだに縞々模様を使っているから正直、もっと違うのをつけろと言いたくなったりもする。

「あのー、そんなに今の……怒っちゃいました?」

「え?」

 俺の顔色を窺っていた。

「すごく真剣な表情をしていたので」

 まさかお前さんの下着のセンスをどうにかしろと考えていた、なんて言えるわけもない。

「そういうわけじゃないよ。今日は何色のパンツを履いているのかなって思っただけだ」

「……みたいんですか?」

 小首をかしげる千波ちゃんに、お兄ちゃんは首を振る。

「想像するのが楽しいんであって、本当に見たいわけじゃないんだ。これも、男の美学」

「そうですか」

 今のところ、俺は異性の下着に興奮するような趣味は持ち合わせちゃいない。もし、持っていたのならとっくに千波の家に入り込んで道子さんのパンツで遊んでいたことだろうよ。

「で、部屋はどうする?」

「久しぶりに兄さんの部屋に行きたいです」

「じゃあお茶を準備しとく」

「いいです。千波がしますから」

 窓から窓へ渡ればすぐに来れる距離だ。落ちたとしても多分、今なら引っかかる事が出来るかな。俺はたまに千波の部屋に行く時に窓から窓へと渡っていたこともあった。

 ただし、俺の妹分は絶対にそんな事はしないがな。俺がやっても相当怒る。落ちたらどうするんですか、危ないんですよと。涙ながらに言われては出来るわけもないのでそれ以後はよほど緊急事態(千波の寝坊で遅刻しそうなとき)の時以外はちゃんと玄関を通って部屋へ向かっている。

 数分もせず、千波が部屋にやってくる。既にお茶まで準備して持ってきてた。

「器用だな~頭にアルバム載せてお茶まで持ってきたよ」

 抜群のバランスセンスを俺に見せつける千波。

「早く来たかったですから。こういうときじゃないと部屋に入れませんし」

 おかしなことを言う娘さんだ。

「別に用事が無いからって来ちゃ駄目とは言ってないだろ」

 それに窓を開ければ目と鼻の先にあるのだ。プライベートもくそもあったもんじゃない。少しエッチな本を読もうとするなら窓を閉めなくてはいけないし、勘のいい千波はそう言う時に限って俺の家に遊びに来る。

「いつ来ても本当にいいんですね?」

「ああ」

「じゃあその言葉を信じます」

 何だかいたく感動しているようだ。ああ、しか言っていないのにここまで感動するなんて珍しいこともあるもんだ。

「千波に見せられないような本、ちゃんと隠すか処分しておいてくださいね。千波が見つけたら捨てるって約束、しましたよね?」

 処分はちょっとなぁ……ちゃんと隠しておこう。

「あー、それはいいから、アルバムを見せてくれよ」

「はい、いいですよ。こっち来てください」

 ベッドの上に陣取った千波の隣に座り、肩を寄り添い合いながらページをめくる。

 凄く近いのに、相手は警戒なんてしてない。俺のほうも、感覚がマヒしてしまったからかドキッとすることもない。付き合い始めた恋人たちよりも距離が近い。それが俺と千波の兄妹の距離だ。

 幼いころから変わっていない、家族の時間。これを変えなければ俺たちに変化は訪れない。

「またぼーっとして、兄さん今日はおかしいですね」

「そんなことはないさ。子供のころの千波たんに思いをはせていたんだ……はぁ、くーっ、かわいいってな」

 本当の兄貴はおそらく、妹にこんなことは言わないだろうがな。

「気持ち悪いです」

「だろうよ」

「知っているのなら自制してください」

「してるさ。さて、アルバムを開いてかわいい千波たんを俺に見せてくれ」

 多少、気持ち悪そうな表情を浮かべながらも開いてくれる。小さい頃の千波の姿は頭の中にしっかりと残っているため、改めてみる必要もないんだけどな。

 それでも、二人で見ることに意義がある。そんな気がする。

「この頃の千波、可愛いな」

「兄さん、その言い方だと今が可愛くないように聞こえますが?」

 ここで、今も十分可愛いぞ。なんて言ったら間違いなく変な空気になるかな。

「今も十分可愛いぞ」

「ですよね」

 変な空気にはならず、調子に乗るだけだった。

「嘘だよ、嘘。冗談だ」

「は?」

 眉根がいい具合に不機嫌を現す。

「今はまた違った可愛さがある。写真の中の千波はあどけなくて護ってやりたいなって思わせる可愛さだ。そして今は女性的な可愛らしさだな。立派に成長したんだなって思うと……あれ、涙が……」

「兄さん、ハンカチ…」

「うん、ありがとう。ずびーっ……洗って返す」

「いいです」

 汚れたまんまのハンカチを千波に返してページをさらに捲る。

「やっぱり、結構な頻度で俺が写ってるな」

「はい、それはそうですよ。だって、私の隣にずっと居てくれていますから」

「……しかし、俺はあまり可愛くないな。背伸びしたい典型的なガキみたいだ」

 まず、目つきが悪い。

 実際そうなのだ。サッカーするときだって、野球をするときだって、ままごと、お人形遊び、かくれんぼ、鬼ごっこ、だるまさんがコロンボなど……何をするときでも千波と一緒で俺はお兄さんを務めていた。

「ああ、懐かしいなぁ……この時は本当に二人だけだったよな」

 何も思い出のすべてがきれいなものとは限らない。

「……はい」

 幼少のころにある『男が女と遊ぶなんて~』等とのたまったガキどもはその当時怖いもの知らずの俺は完膚なきまでに叩きのめし、『俺はいいの!』で通したもんだ。

「悪ガキだったな。友達をぶん殴るなんてさ」

「この時の兄さんも可愛いですよ。兄さんは……千波を守ってくれてましたから」

「そうかね。タイムマシンがあったら行ってデコピンしてやりたいぐらいだ」

「千波は戻ったら……兄さんを抱きしめますよ。兄さんにとっては友達の一人ぐらいの感覚だったでしょうけど、私にとっては兄さんだけが優しくしてくれましたから」

「馬鹿言え、妹に優しくするのは当たり前のことだ」

「そう、ですよね。妹に優しくするのは当たり前……ですよね」

 俺の言葉はよくわからないが、どうにも千波を傷つけてしまったらしい。ふん、この豆腐メンタルめとすぐさま言えれば変な空気も吹き飛ばせただろうがいえなかった。

 すまないと謝ったところでどうして傷ついたのかもわからない以上、変なことは言えない。結局、俺の言葉のせいで微妙な空気になり、アルバムのめくるスピードを上げて、コメント発言を控えた。

「兄さん、ここ懐かしいね」

 機嫌を損ねたかなぁと思っていたが、そうではなかったのか、いつも通りの口調で千波は指をさしていた。

「ノーコメント」

「脳コメント? 心の中だとどう思っているんですか?」

「うは、千波たん可愛すぎ萌えー」

「……気持ち悪いです」

「悪い、俺も本当はそう思った……あだぁっ」

 近すぎていたからガードが出来なかった。

 わき腹に刺さったままの千波の肘を抜こうとするが、抜かせてくれない。

「小さい頃の千波を馬鹿にしたバツです」

「いやいや、それはさっきの俺の発言だ」

 ふー……思えば小さい頃から千波が隣に居てくれた。今だってこうやって一緒にアルバムをみる事が出来る。

「あの、ぼーっとしてますけどそんなに痛かったですか?」

「あ、ううん。違う。ちょっと昔を懐かしんでいただけだ」

「あの頃は楽しかったですよね。何をするでも、二人で一緒でした」

「そうだな。今じゃ、一緒に帰ろうって言ったら恥ずかしいって言われちゃうもんな」

「それは……邪魔されるからだって説明しましたよ」

「そうだったね、忘れてたよ」

 昔は千波の考えている事が手に取るようにわかった。

 ま、それは冬治の勘違いで今は当然、千波の考えている事なんてわかりゃしない。

 昔に比べれば一緒にいる時間は減っている。成長するってそう言う事だよなぁ。


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