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アナタはわたしの手の中  作者: 未田
第30章『塞がったピアスホール』
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第90話(最終話)

 四月一日、水曜日。

 午前九時過ぎ、京香は席を立った。工場に居た頃から、すっかり習慣付いた行動であった。

 妙泉製菓本社のオフィスに、三上凉の姿は無い。今頃、商品開発部の部長として工場で仕事をしているだろうと、京香は思った。

 休憩仲間が居なくとも、京香はひとりで給湯室へ向かった。いずれ慣れるだろうが、新しい職場ではまだ居心地が良くない。


 給湯室でホットコーヒーを淹れている間――京香はふと、ジャケットのポケットから携帯電話を取り出した。

 SNSのアプリを立ち上げ『ヨシピ』のアカウントへと久々に切り替える。

 かつて『裏垢女子』だけを閲覧するために作成したアカウントだ。だが、いつの間にかフォローはゼロ人になっていた。

 寂しさを覚えたのは遠い昔のように、京香は感じた。このアカウントを使用していたのは、つまらない過去だ。つい、苦笑した。

 これからも、誰かをフォローするつもりは無い。つまり、このアカウントはもう不要だ。だから、躊躇なく退会した。


 今日から新生活を始めるにあたり、ささやかだが過去を整理した。

 退屈な日々を怠惰に過ごしていたことも、スリルを求めたことも、今では忘れてしまいたいぐらいだった。それでも京香にとっては確かな『思い出』だ。捨てられなくとも、自分の中で区切りをつけた。

 京香は携帯電話を仕舞うと、給湯室の前をひとつの人影が横切り――京香の存在に気づいたのか、引き返して立ち止まった。


「まったく……初日からサボりですか?」

「うっさいわね。あんたこそ、入社式サボったくせに」

「わたしは中途――しかも二回目だから、関係ありません。十時から研修です」


 京香の前に、小柴瑠璃が立っていた。今出社してきたのだろう。シンプルなデザインのトートバッグを肩にかけている。

 そして、瑠璃のスーツ姿が新鮮――というより、京香は初めて見た。まったく着慣れていないうえ、スーツ自体もまっさらだった。二十三歳ということもあり新規卒業者、或いは就職活動者にすら見える。


「へぇ。課長でも研修あるのね」


 瑠璃はただの中途採用者ではなく、役職付きだった。

 今期からの新規事業である『生菓子製造部門』その開発責任者だ。具体的な肩書は『商品開発部開発三課課長』となる。

 そう。先月、京香は円香からの相談を受け、京香個人ではなく妙泉製菓(かいしゃ)でLazwardを買収する案が浮かんだ。そして、それを実行できるだけの身分へと移った。


「アナタも専務の研修受けた方がよくないですか?」

「どんな研修よ、それ……」


 京香は今日付けで『専務取締役』となった。これまで散々渋ってきた経営側へと、ようやく回った。

 だが、代表取締役を見据えながらも――京香は主に製造と営業を監督するつもりだ。可能な限り、現場側を擁護したいと考えている。工場で従業員達と約束した以上、これからも信念を持って会社を変えていかねばならない。

 今日は午後から経営会議がある。京香は勿論のこと、今回は顔見せのため瑠璃も参加しなければならない。


 そして、会議には生菓子部門の営業責任者である『営業三課課長』となった妙泉円香も参加する。

 Lazwardは妙泉製菓の生菓子ブランドとなった。名前と共に実績も引き継がれるが、妙泉製菓としては生菓子事業を立ち上げたばかりだ。

 これから手探りで進めるものの、瑠璃のひとまずの拠点は本社だった。

 同じ勤務地であるため、京香は瑠璃と喜び合った。ここの近くに、一緒に暮らすための賃貸(へや)を押さえるつもりだ。


「ねぇ。ちょっといいかしら」


 京香は淹れかけのコーヒーをそのままに、瑠璃の手を引いて給湯室を離れた。

 誰も居ない適当な会議室に入ると、扉を閉めて内側から施錠する。

 窓のブラインドは上げられ、春の優しい日差しが、ふたりきりの部屋に差し込んでいた。灯りを点けずとも、明るい。

 そんな中、京香は瑠璃の唇に自分のを重ねた。瑠璃のスーツ姿に、性欲が少し疼いたのであった。

 これまで散々キスを行ってきたが、この場所は背徳感があった。とはいえ、スリルを楽しむというより――なんだか申し訳ない気持ちだった。

 だから、違和感に気づいた。京香は顔を離すと、瑠璃の唇を見た。そして、紫のインナーカラーが無い黒一色の、瑠璃のサイドヘアをかき上げた。


「ピアスホール、閉じちゃったのね」


 京香はキスの際、いつの間にか唇に引っかかりを感じなかった。休日でも、最後に瑠璃がピアスを付けていたのがいつなのか、思い出せない。付いていない顔が、京香にとって『自然』となっていた。

 瑠璃の唇も耳にもそれらしき痕跡はあるが、穴は全て塞がっていた。もはや、異物(ピアス)を通すことは不可能だ。


 京香はふと、この状況に既視感を覚える。

 かつて、工場の会議室でも――派遣社員だった瑠璃を呼び出し、ピアスホールだらけの素顔を確かめた。『ぁぉU』であると確かめた。

 脅迫行為許されないが、そのような出会い(はじまり)が、なんだか懐かしく感じた。


「わたしには、もう要りませんから……」


 ピアスホール跡を眺めながら、あれから時間が過ぎたのだと京香は感じた。

 やることが無いため何気なくピアスホールを開けていたことを、思い出す。

 気だるい瞳で怠惰な生活を送っていた女性は、もう居ない。今目の前に居るのは、やる気と自信に満ち溢れている女性だ。京香が最も信頼を寄せ、最も愛している女性だ。


「そうね。私の『所有物(モノ)』なんだから、ピアスはもう厳禁よ」

「はい。わたしに必要な『所有者(モノ)』は、アナタだけです」


 京香はもう一度キスをした後、瑠璃と微笑みあった。

 ふたりにとって、退屈な日々はもう存在しない。欲しいモノに互いに手を伸ばし、ふたりで『本気』になったように――これからも、ふたりでなら歩いていけるはずだ。

 瑠璃の初々しい姿が京香に、春の晴れた空のような『青色』を彷彿とさせた。爽やかな、はじまりの色だ。

 会社を変えていくには、瑠璃の協力が必要不可欠だ。この先もきっと困難が待ち受けているだろうが、京香は絶望感など無かった。必ず乗り越えてみせると、気分が上がった。

 京香は瑠璃と頷くと、ふたりの明るい未来を信じ、会議室の扉を開けた。



   アナタはわたしの手の中

   love seriously


   完

あとがき

https://note.com/htjdmtr/n/n9429fdf58e06

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