第90話(最終話)
四月一日、水曜日。
午前九時過ぎ、京香は席を立った。工場に居た頃から、すっかり習慣付いた行動であった。
妙泉製菓本社のオフィスに、三上凉の姿は無い。今頃、商品開発部の部長として工場で仕事をしているだろうと、京香は思った。
休憩仲間が居なくとも、京香はひとりで給湯室へ向かった。いずれ慣れるだろうが、新しい職場ではまだ居心地が良くない。
給湯室でホットコーヒーを淹れている間――京香はふと、ジャケットのポケットから携帯電話を取り出した。
SNSのアプリを立ち上げ『ヨシピ』のアカウントへと久々に切り替える。
かつて『裏垢女子』だけを閲覧するために作成したアカウントだ。だが、いつの間にかフォローはゼロ人になっていた。
寂しさを覚えたのは遠い昔のように、京香は感じた。このアカウントを使用していたのは、つまらない過去だ。つい、苦笑した。
これからも、誰かをフォローするつもりは無い。つまり、このアカウントはもう不要だ。だから、躊躇なく退会した。
今日から新生活を始めるにあたり、ささやかだが過去を整理した。
退屈な日々を怠惰に過ごしていたことも、スリルを求めたことも、今では忘れてしまいたいぐらいだった。それでも京香にとっては確かな『思い出』だ。捨てられなくとも、自分の中で区切りをつけた。
京香は携帯電話を仕舞うと、給湯室の前をひとつの人影が横切り――京香の存在に気づいたのか、引き返して立ち止まった。
「まったく……初日からサボりですか?」
「うっさいわね。あんたこそ、入社式サボったくせに」
「わたしは中途――しかも二回目だから、関係ありません。十時から研修です」
京香の前に、小柴瑠璃が立っていた。今出社してきたのだろう。シンプルなデザインのトートバッグを肩にかけている。
そして、瑠璃のスーツ姿が新鮮――というより、京香は初めて見た。まったく着慣れていないうえ、スーツ自体もまっさらだった。二十三歳ということもあり新規卒業者、或いは就職活動者にすら見える。
「へぇ。課長でも研修あるのね」
瑠璃はただの中途採用者ではなく、役職付きだった。
今期からの新規事業である『生菓子製造部門』その開発責任者だ。具体的な肩書は『商品開発部開発三課課長』となる。
そう。先月、京香は円香からの相談を受け、京香個人ではなく妙泉製菓でLazwardを買収する案が浮かんだ。そして、それを実行できるだけの身分へと移った。
「アナタも専務の研修受けた方がよくないですか?」
「どんな研修よ、それ……」
京香は今日付けで『専務取締役』となった。これまで散々渋ってきた経営側へと、ようやく回った。
だが、代表取締役を見据えながらも――京香は主に製造と営業を監督するつもりだ。可能な限り、現場側を擁護したいと考えている。工場で従業員達と約束した以上、これからも信念を持って会社を変えていかねばならない。
今日は午後から経営会議がある。京香は勿論のこと、今回は顔見せのため瑠璃も参加しなければならない。
そして、会議には生菓子部門の営業責任者である『営業三課課長』となった妙泉円香も参加する。
Lazwardは妙泉製菓の生菓子ブランドとなった。名前と共に実績も引き継がれるが、妙泉製菓としては生菓子事業を立ち上げたばかりだ。
これから手探りで進めるものの、瑠璃のひとまずの拠点は本社だった。
同じ勤務地であるため、京香は瑠璃と喜び合った。ここの近くに、一緒に暮らすための賃貸を押さえるつもりだ。
「ねぇ。ちょっといいかしら」
京香は淹れかけのコーヒーをそのままに、瑠璃の手を引いて給湯室を離れた。
誰も居ない適当な会議室に入ると、扉を閉めて内側から施錠する。
窓のブラインドは上げられ、春の優しい日差しが、ふたりきりの部屋に差し込んでいた。灯りを点けずとも、明るい。
そんな中、京香は瑠璃の唇に自分のを重ねた。瑠璃のスーツ姿に、性欲が少し疼いたのであった。
これまで散々キスを行ってきたが、この場所は背徳感があった。とはいえ、スリルを楽しむというより――なんだか申し訳ない気持ちだった。
だから、違和感に気づいた。京香は顔を離すと、瑠璃の唇を見た。そして、紫のインナーカラーが無い黒一色の、瑠璃のサイドヘアをかき上げた。
「ピアスホール、閉じちゃったのね」
京香はキスの際、いつの間にか唇に引っかかりを感じなかった。休日でも、最後に瑠璃がピアスを付けていたのがいつなのか、思い出せない。付いていない顔が、京香にとって『自然』となっていた。
瑠璃の唇も耳にもそれらしき痕跡はあるが、穴は全て塞がっていた。もはや、異物を通すことは不可能だ。
京香はふと、この状況に既視感を覚える。
かつて、工場の会議室でも――派遣社員だった瑠璃を呼び出し、ピアスホールだらけの素顔を確かめた。『ぁぉU』であると確かめた。
脅迫行為許されないが、そのような出会いが、なんだか懐かしく感じた。
「わたしには、もう要りませんから……」
ピアスホール跡を眺めながら、あれから時間が過ぎたのだと京香は感じた。
やることが無いため何気なくピアスホールを開けていたことを、思い出す。
気だるい瞳で怠惰な生活を送っていた女性は、もう居ない。今目の前に居るのは、やる気と自信に満ち溢れている女性だ。京香が最も信頼を寄せ、最も愛している女性だ。
「そうね。私の『所有物』なんだから、ピアスはもう厳禁よ」
「はい。わたしに必要な『所有者』は、アナタだけです」
京香はもう一度キスをした後、瑠璃と微笑みあった。
ふたりにとって、退屈な日々はもう存在しない。欲しいモノに互いに手を伸ばし、ふたりで『本気』になったように――これからも、ふたりでなら歩いていけるはずだ。
瑠璃の初々しい姿が京香に、春の晴れた空のような『青色』を彷彿とさせた。爽やかな、はじまりの色だ。
会社を変えていくには、瑠璃の協力が必要不可欠だ。この先もきっと困難が待ち受けているだろうが、京香は絶望感など無かった。必ず乗り越えてみせると、気分が上がった。
京香は瑠璃と頷くと、ふたりの明るい未来を信じ、会議室の扉を開けた。
アナタはわたしの手の中
love seriously
完
あとがき
https://note.com/htjdmtr/n/n9429fdf58e06




