第89話
三月十日、火曜日。
京香は瑠璃を連れて、午後八時過ぎに帰宅した。
明日は久々の、ふたり揃っての休日だ。
貴重なふたりの週末を、たまには瑠璃の自宅で過ごしたいと、京香は思う。だが、どうしてもここに招かなければいけない用件があった。瑠璃に内容を隠しているため、京香は何気なさを装うも、内心では緊張していた。
玄関を上がり、リビングの扉を開ける。
京香は部屋の灯りを点け――あまりに露骨だったと反省した。
「あれ? これ何ですか?」
瑠璃が物珍しそうに、テーブルへ近づいた。
テーブルにはウイスキーの瓶が並んでいる他、無数の紙が散りばめられていた。京香が今朝、意図的に置いたものだ。
「京香さん、引っ越すんですか?」
立ったまま紙をいくつか手に取り、瑠璃が訊ねる。
そう。紙はどれも、賃貸マンションの物件資料だ。
「ええ。来月から、本社勤務になるから……」
異動の内示は先月の時点で既に受けている。というより、京香から異動を申し出た。両親は、喜んで承諾した。
「……へぇ。会いづらくなりますね」
少しの間を置き、瑠璃がぽつりと漏らす。物件資料から顔を上げない。
「それにしても、どれも2LDKじゃないですか。そんなに要ります? って、ここもそうでしたね。やっぱり、広い方がいいんですか?」
さらに、おかしそうに笑う。
本人は素っ気なさを装っているつもりだろうが、動揺しているのは明白だった。京香はなんだか申し訳なく、そろそろ限界だと思った。
「広いほうがいいわ。だって、あんたと一緒なんだから」
京香はソファーに座り、瑠璃を見上げた。
それを伝えるために、わざわざ自宅に招いたのであった。
「え?」
「所在地、よく見てみなさいよ」
京香は瑠璃と一緒に暮らしたいと思うにあたり、妙泉製菓本社とショッピングモール――ふたつの中間に位置するベッドタウンを選んだ。最も優先すべきは、互いの通勤だ。
「あと、どれもペット飼えるわ」
次に優先したのは、瑠璃の希望だった。もう一年近く過去になるが、瑠璃が漏らした内容を、京香はしっかり覚えていた。
瑠璃が物件資料をテーブルに置くや否や、次の瞬間、京香に抱きついた。
勢いの良さに、京香はソファーに倒された。
「ありがとうございます! 大好きです!」
子供のように無邪気な笑顔が目の前に現れた。
京香はそれを見て、ただ幸せだった。『サプライズ』は成功したようだ。
「ということだから、明日は物件見に行くわよ」
「はい!」
「まあ、五月ぐらいに引っ越し出来たらいいわね。私は急がなくてもいいし、ていうか今の時期は激混みだし、ゆっくり決めましょう」
京香は瑠璃を優しく退けると、立ち上がってスーツのジャケットを脱いだ。
「あっ、そうそう。あんた超忙しいと思うけど、車の免許取りに行きなさい……合宿あたりでパパっと。帰り遅くなるんだから、やっぱり車通勤が安心よ」
瑠璃は現在、主にクロスバイクで通勤している。
深夜に車道を走るのが、京香は以前から心配だった。仕事終わりに疲労の溜まった身体で自動車を運転するのも、安心とは言えない。しかし、万が一事故に遭遇することを考えると、自動車の方がまだ安全だ。
「わかりました。わたしに車の運転できるのか、正直不安ですけど……頑張ります」
「大丈夫よ。私でも免許取れたんだから」
京香は自動車の教習所に通っていた、大学生だった頃を思い出す。
実技自体は割と簡単だった。筆記試験の引っ掛け問題に苛立ったのが、今でも印象に残っていた。
通勤での実用面だけでなく、何にせよ、社会人である以上は自動車の免許証を持つべきだと京香は思う。
その価値観が古臭いと、京香自身が感じているからだろう。瑠璃が持たなくても構わないとするならば――瑠璃と同じ職場であれば、このような提案は不要だったと、ふと気づく。
瑠璃と一緒に暮らす。手が届く明るい未来に期待する一方で、京香は『別の未来』を今も悔いていた。
少し感傷に浸っていると、インターホンが鳴り響き、我に返った。
「こんな時間に、いったい誰よ」
首を傾げる瑠璃を尻目に、京香はインターホンの画面へと向かった。
『姉さん、居るよね?』
耳出しショートヘアの女性――妹の円香が、画面に映っていた。
京香は瑠璃との時間を邪魔されたことに苛立っていたが、すぐに戸惑いへと変わった。
円香の笑みが、とても弱々しかった。そんな些細な変化から、ただ事では無いと察したのだ。
居留守を使うという選択肢など、浮かばなかった。京香は妹を案じ、インターホンの受話器を上げた。
「早く入りなさい」
それだけを告げ、エントランスを解錠した。
「何があったか知らないけど……妹が来たわ」
「え……。とりあえず、お茶でも淹れますね」
瑠璃がキッチンへと向かう。
京香はそのように言ったものの、円香の訪問理由にひとつの心当たりがあった。決して暗くはないが、面倒な案件だと予感した。
やがて五分ほどが経ち、円香が部屋へ上がってきた。
「姉さん、こんな時間に悪いね。あ……小柴さんも居るんだ」
円香はどこか疲れた様子で、リビングに現れた。
テーブルには、瑠璃の淹れた紅茶が三つ置かれている。ソファーは京香の隣が空いているが、円香はカーペットに座った。京香の隣には、円香に会釈した瑠璃が座った。
和気あいあいとしたティータイム、といった雰囲気ではない。かといって重い空気が流れているわけでもなく、奇妙な空間だと京香は感じた。
「いやー。姉さんに、ちょっと相談があって……」
「Lazwardのことでしょ?」
鳩が豆鉄砲を食らったような表情で、円香は瑠璃を見た。
瑠璃は無言で首を横に振った。
「言っとくけど、裏で糸引いてたのは、ずっと前からわかってたわ。あんたが思ってるより五倍はバレバレよ」
「もういいや……。姉さんも姉さんだよ。どうして、もっと早くに言ってくれないのさ?」
「ちょっと待って。なんであんたが投げやりになってるのよ? おかしくない?」
京香は円香の態度がなんだか解せないが、隣の瑠璃から宥められて落ち着いた。
「バレちゃしょうがないけど、私がLazwardのオーナーだよ。小柴さんを拾って、大ヒットのケーキを作らせたんだから……凄いよね」
どこか誇らしげに、円香は言う。
瑠璃を保護したことに関して、京香は確かに感謝する。だが、この態度がやはり釈然としなかった。
それは瑠璃も同じなのだろう。冷めた目線を円香に送っていた。
「で――オーナーさんは有象無象のスポンサー候補にたかられて、困ってるんでしょ?」
「そういうこと……」
円香が開き直った様子で、脱力気味に頷く。
やはり、京香の思った通りだった。
Lazwardの展望に期待すると同時、この成長がオーナーの手に余る状況だと危惧した。個人経営であろう、無名の小さなスイーツショップがここまで勢いづくと――儲けにあやかりたい『出資者』が現れても、おかしくない。いや、ごく自然な現象だ。
「良いことじゃない。共同出資でやってけば?」
「やだよ。信用できるか調査するの面倒だし……ていうか、そもそも『ハイエナ』は絶対に信用できないし」
「あんたも頑固ねぇ」
とはいえ、京香は円香の気持ちがわからなくもなかった。同族経営で育ってきた姉妹として『外部』を迎えることに、単純に抵抗がある。
そして、円香が相談として今夜訪れた意図も、理解しているつもりだった。
「だから、私に泣きついてきたんでしょ? 私もね、一緒にやってもいいかなって……思ってたわ」
「本当ですか!?」
円香以上に、瑠璃が驚いた様子で食いつく。
きっとこれが最適な選択なのだと、京香は思う。秘密裏だが姉妹ふたりで瑠璃を支えることで、さらなる発展が可能だ。瑠璃としても、信頼できる人間に囲われることで、安心できるはずだ。
再び瑠璃を『所有物』にする。悪くない提案だと――今この瞬間まで、京香は思っていた。
しかし、つい先ほどの『後悔』が、京香に別の提案を浮かばせた。
夢にまで見た景色を『あり得た未来』として終わらせたくない。誰かに与えられるのではなく、この手で『望む未来』を掴み取りたい。それだけの力が、現在は有る。
京香は瑠璃の頭を撫でた後、ふたりを見渡し――不敵な笑みを浮かべた。
「それよりも……私にね、良い考えがあるの」
そして、明日の内見を中止し、新たな条件で物件を探し直さなければいけないと思った。




