第87話
京香は瑠璃と、レストランでフルコースの食事を楽しんだ。
午後九時半頃、十七階の客室へと下りた。今夜はここで一泊する。
「うわぁ。広いですね」
部屋に入るや否や、瑠璃が物珍しそうに見渡した。
そう。一般的な客室は主に寝室だけだが、ここはリビングも付いた――スイートルームと呼ばれるものだ。やはり、瑠璃はこの手の部屋が初めてなのだと、京香は思った。
「ここね……ジャグジーが凄いのよ」
京香はほろ酔い気味だった。しかし、部屋の種類を敢えて明かさなかった。瑠璃には純粋に楽しんで欲しかったのだ。
「へぇ、楽しみです。早速入りましょう」
瑠璃は子供のように目を輝かせていた。
豪華な料理を腹一杯食べ、さらにアルコールまで摂取している。それにも関わらず元気な様子に、京香は若さを感じた。
酩酊状態の入浴は溺れる危険があるが、瑠璃とふたりなら大丈夫だろうと京香は思った。それに、睡魔が押し寄せているため、いつ意識が飛ぶのかわからない。早めに入浴を済ませたかった。
だが、その前に――ふたりきりの空間に移った今、京香は瑠璃を背後から抱きしめた。自分の鞄が床に落ちるが、気にならなかった。
「産まれてきてくれて、ありがとう」
祝いではなく、感謝の言葉を口にする。京香にとって、それほど大切な存在なのだから。
瑠璃の両親は、この世にもう居ない。彼らにも、そして瑠璃のこれまでの境遇にも、京香は不憫に思う。
それでも、瑠璃との出会いは――京香の人生に於いて、かけがえのないものだった。
彼女を愛した。そして、家業と真剣に向き合わせてくれた。小柴瑠璃という存在が無ければ、今も退屈な日々を過ごしていただろうと京香は思う。いや、瑠璃の居ない世界は、もはや考えられない。
だから、改めて感謝したのだ。
「わたしこそ、ありがとうございます。人生で最高の誕生日でした」
瑠璃が振り返り、微笑んだ。
彼女の幼少期、両親と過ごした誕生日を、京香は想像してしまう。だが、そのように言って貰えたことが、素直に嬉しかった。
京香は瑠璃を抱きしめたまま、ふたりで笑いあった。
その後、豪華なリビングのソファーに、ふたりで乱雑に衣服を脱ぎ捨てた。
そして、浴室へと向かった。
「ちょっと、丸見えじゃないですか!?」
「あんたがそれ言う?」
円形のジャグジーは、窓――というよりガラス張りの壁に向き合っていた。レストランで眺めたのと同じ夜景が広がっていた。
瑠璃の言う通り、確かに外から覗くことは可能だ。だが、ここは地上十七階であるため、現実的ではない。
そもそも、夏季休暇のグランピングで、瑠璃は夜のプールへ全裸で入った。あれが良くてこれに驚くのが、京香にはよくわからなかった。いや、瑠璃独特のおかしな基準が、なんだか懐かしかった。
「ほら、寒いから早く入るわよ」
瑠璃を強引にジャグジーへと連れ込む。所詮は客室の浴槽であるため、それほど広くはないにしろ、ふたりでは充分な広さだった。
「こういうのも、悪くないですね……」
さっきと一変し、瑠璃は湯船に寛いでいた。京香としても、非現実的な空間に居心地が良かった。
「お酒持ってこようかしら」
「もうっ。どんだけ好きなんですか? アル中ですか?」
「うるさいわねー。ふたりで飲むわよ」
京香は一度、浴室から出た。
ウイスキーを飲みたかったが、ルームサービスとしてボトルを取り寄せなければならない。半裸で対応できないため、仕方なくリビングの冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
さらに、入浴しながらアイスクリームを食べたい気分だった。しかし残念ながら、いくらスイートルームとはいえ、冷蔵庫にそもそも冷凍機能がなかった。
京香は浴室に戻り、氷の入ったふたつのグラスに缶ビールを注いだ。
「ふー。最高よね」
「変な感じですけど……確かに美味しいです」
一般的には行儀が悪いのだろうと、京香は思う。隔離されたプライベート空間だからこそ、許される行為だ。
大切な人とジャグジーに浸かり、酒を飲み――京香は疲労が溜まっていることもあり、癒やされているように感じた。
だからこそ、ふとある考えが浮かんだ。
「ねぇ。今度はどこか、温泉宿にでも行かない? こんな風に、貸し切りの露天風呂で……」
京香は湯船で瑠璃を引き寄せると、首筋から胸へと手を這わせた。
瑠璃と一緒に屋外の風呂に入りたいだけでなく、のどかさを感じながら酒を飲みたい。きっと、とても癒やされるだろう。
「そりゃ、わたしだって行きたいですけど……そんな時間、どこにあるんですか」
触れられることに抗わず、瑠璃は苦笑した。
「今すぐには無理でも……いつか行きましょう。休日作るのも、仕事の内よ」
「そう言ったからには、絶対ですからね? 約束ですよ?」
「ええ。あんたこそ、守りなさい」
京香は以前まで、未来に対して良い印象を持っていなかった。敷かれたレールを歩いた先は、暗いところにたどり着くと思っていた。
だが今は、決して楽な道のりでないにしろ――明るい希望が確かに見えた。瑠璃と未来を語り合うことが、これほど喜ばしいと思わなかった。
京香は瑠璃を抱きしめながら、綺麗な夜景を眺めた。ジャグジーの音に耳を貸しながら、心地良い時間を過ごした。
バスローブを着て浴室から出ると、時刻は午後十時二十分だった。
京香は身体が芯まで温もっていた。挙げ句に酒まで飲んだが、不思議なことに入浴前より眠気は無かった。
リビングのソファーに座り、何気なくテレビを点ける。この時間帯の番組はどれもつまらないため、何も観る気にはなれなかった。
京香はふと、同じくバスローブ姿の瑠璃が隣に立つのを感じた。顔を上げると、何やら紙袋を持っていた。
「遅くなりましたけど、これ……クリスマスプレゼントです」
瑠璃の誕生日を盛大に祝った今、世間は先日までクリスマスだったことを、京香はすっかり忘れていた。
一応、今日はクリスマスを祝うことも兼ねている。京香にとって突然だったが、瑠璃から贈物を受け取ることは何らおかしくない。
「ありがとう」
京香は少し驚いた後、紙袋を受け取った。
中に入っていたのは――パッケージから、マッサージガンだとわかった。
「なんか卑猥ね。なに? 今夜はこれ使いたいの?」
「その発想が卑猥ですよ。頭の中、どんだけピンク色なんですか」
瑠璃から半眼を投げられ、冗談だと京香は笑って見せた。
「首、肩、腰――いろんなところに使える万能器具ですよ。顔に使えば美顔効果もあるって、書いてありました。普段の疲れを、少しでも取ってください」
そのような意図で選んだのだと、京香は嬉しかった。
健康器具に対して胡散臭い印象を持っていたが、実際に使用してみようと思った。
「わたしは今日、アナタに一歳近づきました。でも、残念ですけど一生追いつけないんで……お願いですから、いつまでも健康でいてください。出来れば、お酒もほどほどに……」
瑠璃の言葉に、歳が十一も離れていることを、京香は改めて確かめる。瑠璃に比べ疲れやすく、また取れにくい。自分の考える『限界』と実際とでは、差があるに違いない。
ここ最近は仕事で無茶をしていたと、反省した。もしも倒れた場合、きっと誰よりも瑠璃が悲しむだろう。それだけは避けたい。
「ええ。元気で居るから……あんたもね」
ようやく隣に腰を下ろした瑠璃の頭を、京香は撫でた。彼女もなかなか休んでいないため、目を光らせないといけないと思った。
何にせよ、瑠璃からこうして贈物を貰えたことが――互いに贈り合ったことが、京香はとても嬉しかった。
「ねぇ。私ね、欲しいものがひとつあるんだけど……」
居心地の良さから、気が緩んだのだろう。京香はふと、瑠璃に強請った。
「なんですか?」
見上げる瑠璃から真っ直ぐ訊ねられ、京香はなんだか恥ずかしくなった。思わず、視線を外した。
ここで躊躇うが、今さら後悔しても遅い。腹を決めて、瑠璃と目を合わせた。
「私、あんたから……まだ、好きって言って貰ってない」
そう。以前から頭の隅に引っかかっていたことを、口にした。
突然の告白に、瑠璃は目が点になった。
「……あれ? 言ってませんでしたっけ?」
「うん、一度も。私はちゃんと言ったわよ」
「マジですか? そんなことないと思うんですが……」
腕を組んで思い出そうとしている瑠璃を、京香はじれったく感じた。無言で、瑠璃の頬を指先で何度か突いた。
そのような態度を取ると、瑠璃がにんまりと笑った。
「えー。言って欲しいんですかぁ? まったく、面倒な女ですねぇ」
「う、うるさいわね!」
ニヤニヤと顔を覗かれ、京香は少し苛立つも――次の瞬間、唇に柔らかな感触が伝わるのを感じた。
「好きですよ、京香さん。世界で一番、大好きです!」
瑠璃が優しく微笑んだ。
頬が赤らんでいるのは風呂上がりだからか、酒を飲んだからか、京香にはわからなかった。しかし、とても嬉しい気持ちに満たされた今、どうでもよかった。
「ばか……」
次は京香からキスをした。舌を絡め、瑠璃を味わった。そして、瑠璃のバスローブをそっと脱がした。
こうして、特別な日を特別な場所で楽しんだ。京香は、陽が昇るまでの時間が、永遠とさえ感じた。
第29章『追いつけない』 完
次回 第30章『塞がったピアスホール』




