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アナタはわたしの手の中  作者: 未田
第29章『追いつけない』
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第87話

 京香は瑠璃と、レストランでフルコースの食事を楽しんだ。

 午後九時半頃、十七階の客室へと下りた。今夜はここで一泊する。


「うわぁ。広いですね」


 部屋に入るや否や、瑠璃が物珍しそうに見渡した。

 そう。一般的な客室は主に寝室だけだが、ここはリビングも付いた――スイートルームと呼ばれるものだ。やはり、瑠璃はこの手の部屋が初めてなのだと、京香は思った。


「ここね……ジャグジーが凄いのよ」


 京香はほろ酔い気味だった。しかし、部屋の種類を敢えて明かさなかった。瑠璃には純粋に楽しんで欲しかったのだ。


「へぇ、楽しみです。早速入りましょう」


 瑠璃は子供のように目を輝かせていた。

 豪華な料理を腹一杯食べ、さらにアルコールまで摂取している。それにも関わらず元気な様子に、京香は若さを感じた。

 酩酊状態の入浴は溺れる危険があるが、瑠璃とふたりなら大丈夫だろうと京香は思った。それに、睡魔が押し寄せているため、いつ意識が飛ぶのかわからない。早めに入浴を済ませたかった。

 だが、その前に――ふたりきりの空間に移った今、京香は瑠璃を背後から抱きしめた。自分の鞄が床に落ちるが、気にならなかった。


「産まれてきてくれて、ありがとう」


 祝いではなく、感謝の言葉を口にする。京香にとって、それほど大切な存在なのだから。

 瑠璃の両親は、この世にもう居ない。彼らにも、そして瑠璃のこれまでの境遇にも、京香は不憫に思う。

 それでも、瑠璃との出会いは――京香の人生に於いて、かけがえのないものだった。

 彼女を愛した。そして、家業(しごと)と真剣に向き合わせてくれた。小柴瑠璃という存在が無ければ、今も退屈な日々を過ごしていただろうと京香は思う。いや、瑠璃の居ない世界は、もはや考えられない。

 だから、改めて感謝したのだ。


「わたしこそ、ありがとうございます。人生で最高の誕生日でした」


 瑠璃が振り返り、微笑んだ。

 彼女の幼少期、両親と過ごした誕生日を、京香は想像してしまう。だが、そのように言って貰えたことが、素直に嬉しかった。

 京香は瑠璃を抱きしめたまま、ふたりで笑いあった。


 その後、豪華なリビングのソファーに、ふたりで乱雑に衣服を脱ぎ捨てた。

 そして、浴室へと向かった。


「ちょっと、丸見えじゃないですか!?」

「あんたがそれ言う?」


 円形のジャグジーは、窓――というよりガラス張りの壁に向き合っていた。レストランで眺めたのと同じ夜景が広がっていた。

 瑠璃の言う通り、確かに外から覗くことは可能だ。だが、ここは地上十七階であるため、現実的ではない。

 そもそも、夏季休暇のグランピングで、瑠璃は夜のプールへ全裸で入った。あれが良くてこれに驚くのが、京香にはよくわからなかった。いや、瑠璃独特のおかしな基準が、なんだか懐かしかった。


「ほら、寒いから早く入るわよ」


 瑠璃を強引にジャグジーへと連れ込む。所詮は客室の浴槽であるため、それほど広くはないにしろ、ふたりでは充分な広さだった。


「こういうのも、悪くないですね……」


 さっきと一変し、瑠璃は湯船に寛いでいた。京香としても、非現実的な空間に居心地が良かった。


「お酒持ってこようかしら」

「もうっ。どんだけ好きなんですか? アル中ですか?」

「うるさいわねー。ふたりで飲むわよ」


 京香は一度、浴室から出た。

 ウイスキーを飲みたかったが、ルームサービスとしてボトルを取り寄せなければならない。半裸で対応できないため、仕方なくリビングの冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

 さらに、入浴しながらアイスクリームを食べたい気分だった。しかし残念ながら、いくらスイートルームとはいえ、冷蔵庫にそもそも冷凍機能がなかった。

 京香は浴室に戻り、氷の入ったふたつのグラスに缶ビールを注いだ。


「ふー。最高よね」

「変な感じですけど……確かに美味しいです」


 一般的には行儀が悪いのだろうと、京香は思う。隔離されたプライベート空間だからこそ、許される行為だ。

 大切な人とジャグジーに浸かり、酒を飲み――京香は疲労が溜まっていることもあり、癒やされているように感じた。

 だからこそ、ふとある考えが浮かんだ。


「ねぇ。今度はどこか、温泉宿にでも行かない? こんな風に、貸し切りの露天風呂で……」


 京香は湯船で瑠璃を引き寄せると、首筋から胸へと手を這わせた。

 瑠璃と一緒に屋外の風呂に入りたいだけでなく、のどかさを感じながら酒を飲みたい。きっと、とても癒やされるだろう。


「そりゃ、わたしだって行きたいですけど……そんな時間、どこにあるんですか」


 触れられることに抗わず、瑠璃は苦笑した。


「今すぐには無理でも……いつか行きましょう。休日(じかん)作るのも、仕事の内よ」

「そう言ったからには、絶対ですからね? 約束ですよ?」

「ええ。あんたこそ、守りなさい」


 京香は以前まで、未来に対して良い印象を持っていなかった。敷かれたレールを歩いた先は、暗いところにたどり着くと思っていた。

 だが今は、決して楽な道のりでないにしろ――明るい希望(ひかり)が確かに見えた。瑠璃と未来を語り合うことが、これほど喜ばしいと思わなかった。

 京香は瑠璃を抱きしめながら、綺麗な夜景を眺めた。ジャグジーの音に耳を貸しながら、心地良い時間を過ごした。


 バスローブを着て浴室から出ると、時刻は午後十時二十分だった。

 京香は身体が芯まで温もっていた。挙げ句に酒まで飲んだが、不思議なことに入浴前より眠気は無かった。

 リビングのソファーに座り、何気なくテレビを点ける。この時間帯の番組はどれもつまらないため、何も観る気にはなれなかった。

 京香はふと、同じくバスローブ姿の瑠璃が隣に立つのを感じた。顔を上げると、何やら紙袋を持っていた。


「遅くなりましたけど、これ……クリスマスプレゼントです」


 瑠璃の誕生日を盛大に祝った今、世間は先日までクリスマスだったことを、京香はすっかり忘れていた。

 一応、今日はクリスマスを祝うことも兼ねている。京香にとって突然だったが、瑠璃から贈物を受け取ることは何らおかしくない。


「ありがとう」


 京香は少し驚いた後、紙袋を受け取った。

 中に入っていたのは――パッケージから、マッサージガンだとわかった。


「なんか卑猥ね。なに? 今夜はこれ使いたいの?」

「その発想が卑猥ですよ。頭の中、どんだけピンク色なんですか」


 瑠璃から半眼を投げられ、冗談だと京香は笑って見せた。


「首、肩、腰――いろんなところに使える万能器具ですよ。顔に使えば美顔効果もあるって、書いてありました。普段の疲れを、少しでも取ってください」


 そのような意図で選んだのだと、京香は嬉しかった。

 健康器具に対して胡散臭い印象を持っていたが、実際に使用してみようと思った。


「わたしは今日、アナタに一歳(ひとつ)近づきました。でも、残念ですけど一生追いつけないんで……お願いですから、いつまでも健康でいてください。出来れば、お酒もほどほどに……」


 瑠璃の言葉に、歳が十一も離れていることを、京香は改めて確かめる。瑠璃に比べ疲れやすく、また取れにくい。自分の考える『限界』と実際とでは、差があるに違いない。

 ここ最近は仕事で無茶をしていたと、反省した。もしも倒れた場合、きっと誰よりも瑠璃が悲しむだろう。それだけは避けたい。


「ええ。元気で居るから……あんたもね」


 ようやく隣に腰を下ろした瑠璃の頭を、京香は撫でた。彼女もなかなか休んでいないため、目を光らせないといけないと思った。

 何にせよ、瑠璃からこうして贈物を貰えたことが――互いに贈り合ったことが、京香はとても嬉しかった。


「ねぇ。私ね、欲しいものがひとつあるんだけど……」


 居心地の良さから、気が緩んだのだろう。京香はふと、瑠璃に強請った。


「なんですか?」


 見上げる瑠璃から真っ直ぐ訊ねられ、京香はなんだか恥ずかしくなった。思わず、視線を外した。

 ここで躊躇うが、今さら後悔しても遅い。腹を決めて、瑠璃と目を合わせた。


「私、あんたから……まだ、好きって言って貰ってない」


 そう。以前から頭の隅に引っかかっていたことを、口にした。

 突然の告白に、瑠璃は目が点になった。


「……あれ? 言ってませんでしたっけ?」

「うん、一度も。私はちゃんと言ったわよ」

「マジですか? そんなことないと思うんですが……」


 腕を組んで思い出そうとしている瑠璃を、京香はじれったく感じた。無言で、瑠璃の頬を指先で何度か突いた。

 そのような態度を取ると、瑠璃がにんまりと笑った。


「えー。言って欲しいんですかぁ? まったく、面倒な(ひと)ですねぇ」

「う、うるさいわね!」


 ニヤニヤと顔を覗かれ、京香は少し苛立つも――次の瞬間、唇に柔らかな感触が伝わるのを感じた。


「好きですよ、京香さん。世界で一番、大好きです!」


 瑠璃が優しく微笑んだ。

 頬が赤らんでいるのは風呂上がりだからか、酒を飲んだからか、京香にはわからなかった。しかし、とても嬉しい気持ちに満たされた今、どうでもよかった。


「ばか……」


 次は京香からキスをした。舌を絡め、瑠璃を味わった。そして、瑠璃のバスローブをそっと脱がした。

 こうして、特別な日を特別な場所で楽しんだ。京香は、陽が昇るまでの時間が、永遠とさえ感じた。

第29章『追いつけない』 完


次回 第30章『塞がったピアスホール』

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