第85話
十一月二十八日、金曜日。
ふと、京香は目を覚ました。意識が覚醒していく中、ここを馴染みのある空間――自宅の寝室だと、理解する。
今が何時かわからない。京香はただ、いつものように工場へ仕事に行かなければいけないと思った。しかし、同じベッドで寝息を立てている瑠璃の存在に気づき、今日は特別休日だと思い出した。
京香はぼんやりと、昨晩のことを振り返る。
瑠璃と気持ちを確かめた後、購入してきたジャンクフードを食べられるだけ食べ――疲弊した身体が糖分を急激に摂取したことで、意識が飛んだのだった。リビングのソファーでふたり仲良く眠るも、尿意で一度目を覚ました京香は、瑠璃を寝室まで運んだ。
京香は上半身を起こし、リビングの扉を眺める。扉からベッドにかけ、ブラウス、タイトスカート、ストッキングが床に脱ぎ捨てられていた。
昨晩は久々にウイスキーを飲んだ。だが、体調と暴食から、悪酔いしたようだ。頭痛が気持ち悪かった。
だらしない様子と気分から、京香の目覚めは最悪だった。それでも、すぐ傍で無邪気な寝顔を見せている瑠璃が、微笑ましかった。
「ふふっ」
瑠璃の頬を指先で突くが、起きる気配が無い。眠りが深いことから、よほど疲れていたのだろうと、京香は察した。
京香はひとり、ベッドから起き上がった。肌寒さに、床に落ちていたブラウスを羽織る。
リビングはまだ、ジャンクフードの匂いが立ち込めていた。テーブルには、食べかけのそれらがまだ広げられていた。
ソファーから、携帯電話を拾い上げる。充電は残り十七パーセントしかないため、低電力モードが働いていた。
時刻は午前九時過ぎだった。始業時間はとっくに過ぎている。その割に、工場からの着信は一件もなかった。急に休日を取ることも含め、円香が根回したのだろうと察した。
京香は、工場のことが心配でないと言えば嘘になる。今すぐにでも電話で状況を確認し、指示を出したい。
だが、円香が気遣った手前、それはあまりにも野暮だと思った。従業員達を信じること、そして身体を休めることが今の『役目』だ。
そのように割り切り、京香はひとまず風呂のスイッチを押した。空腹では頭痛薬が飲めないため、風呂が沸くまでの間、冷めた不味いフライドポテトをつまんだ。
京香は風呂で身体を温め、さっぱりした気分で出た。時刻は午前十時になろうとしていた。
スウェット姿で、リビングのソファーで寛いでいると――寝室から瑠璃がトボトボと現れた。
「おはようございます……」
眠たげに瞼を擦る姿は、まるで夜更かしをした幼い子供のようだと、京香は思った。とても、大盛況しているケーキ屋の店長には見えない。
「おはよう。お風呂入ってきなさいよ、湧いてるから」
「はい……」
瑠璃は素直に従い、洗面所兼脱衣所へと向かった。
シャワーの音が聞こえた頃、京香は着替えの準備をした。
「ふぅ。やっぱり、広いお風呂は良いですね」
しばらくして、ぼんやりと紅潮した瑠璃が姿を現した。
「それにしても……もうちょっと可愛いルームウェアないんですか? モコモコしたやつとか」
瑠璃はオーバーサイズのスウェットを着ていた。手の出ない袖を見ながら、不満げに漏らした。
彼女の言う衣類を、京香は想像できる。しかし残念ながら、手持ちの部屋着はスウェットしかなかった。
「あるわけないでしょ。三十路なめないで」
「別に、部屋で寛ぐ服なんて、好きなの着ればいいじゃないですか。誰かに見せるわけじゃないんだし、歳も関係無いですよね?」
「何言ってんのよ。あんたが見るじゃない……」
京香は恥ずかしそうに答えると、瑠璃もまたわかりやすく動揺した。どうやら、言われるまで気づかなかったようだ。
少しの間、ふたりの間に沈黙の空気が流れる。
「わ、わたしは京香さんが着たところ……見てみたいです。絶対可愛いですよ」
「本当に?」
「ていうか、何ならお揃いでもいいです……。わたし達以外に見せない前提で……」
瑠璃がぽつりと漏らした提案を、京香は想像した。悪くないと思った。
「か、考えておくわ……」
京香は、素っ気なさを装って頷いた。
しかし、瑠璃が帰った後にひとりになれば、最優先で通信販売サイトを漁るつもりだった。
「それにしても……昨日あれだけ食べたのに、お腹空きますね」
もう京香が片付けたが、瑠璃はテーブルを眺めながら腹を擦る。
時刻は午前十一時になろうとしていた。一般的な昼食時に近いだけでなく、昨晩の食事から十二時間ほど経っている。腹が減っていても不思議ではないと、京香は思った。
「あんた頑張ってるから、それだけお腹空くのよ、たぶん」
だが、褒め称えるように言った。
瑠璃が嬉しそうに微笑む。
「ありがとうございます。とりあえず、何か作りますね」
「ええ、お願い」
キッチンへ向かう瑠璃を、京香は見送った。
料理させるために、おだてたわけではない。だが、何気ないやり取りが、なんだか嬉しかった。
瑠璃が昼食を作ろうとしたものの、やはり冷蔵庫に材料はほとんど無かった。
そんな中、出汁と卵で卵雑炊が作られた。質素ながら温かく優しい料理が、身体に染み渡るのを京香は感じた。ふたりで平らげた。
食後、カフェインレスのコーヒーを飲んだ。時刻は午前十一時四十五分だった。
「はー。今日は何もする気にならないわ」
京香は本心を漏らした。
急な休日のため、元々予定は無かった。時間が出来れば買い物に行こうと考えていたこともあったが、今すぐどうしても必要なものは無い。化粧すらも面倒であり、自宅から一歩も出たくない気分だった。
「そうですね。今日はダラダラと、ゆっくり過ごしましょう」
隣に座る瑠璃が、マグカップでコーヒーを飲む。テレビのワイドショーを、ぼんやりと眺めていた。
京香はまともに観ていないが、瑠璃がどうなのかわからなかった。
追っていた海外ドラマは、多忙で一度開くとどうでもよくなった。京香としては観たいものが無いため、テレビとチャンネルを瑠璃に譲った。
のどかな昼時だった。自宅でこのように過ごしている一方で、それでも世間はいつも通り動いているのだと京香は思う。罪悪感すら覚える。
工場やショッピングモールは大丈夫だろうか。やはり、気分はどこか落ち着かない。
それでも『現在』のことは従業員達を信じるしかない。だから、代わりに『未来』のことを考えた。
「あんたさ……来月、休めるの?」
京香は瑠璃の横顔をちらりと見て、訊ねた。
十一月はじきに終わり、十二月が迫ろうとしている。
「まあ、まともに休めないと思いますけど……。京香さんもですよね?」
「ええ。この感じだと、お正月があるのかもわからないわ」
おかしそうに笑いながら、京香は答える。
少なくとも京香個人は、辛くなかった。瑠璃とLazwardに敗北したとはいえ、現在の勢いが続く限り、仕事に身を捧げるつもりだ。
月度が変わるど同時に経営会議が開かれ、生産計画もきちんと組まなければならない。従業員に無理を言うことを考えると、今から少し憂鬱だった。
とはいえ、京香はある行事で――仕事以外で、どうしても予定を空けなければならなかった。
「クリスマスとあんたの誕生日……ふたつまとめてで悪いんだけど、二十六日にお祝いしない?」
そう。来月二十四日は一般的なクリスマスであり、二十六日は瑠璃の誕生日であった。
京香としては、それぞれ別で祝うつもりだった。しかし、現在の様子では忙しい月末に二日も空けるのは、互いに無理だと思う。だから、心苦しいが妥協案にせざるを得なかった。
「ありがとうございます……。わかりました……二十六日の夜は絶対に空けておきます」
瑠璃はどこか、驚いた様子だった。
「あんた今、自分の誕生日忘れてたでしょ?」
「はい。正直、クリスマスのことも普通に忘れてました。そっか……もう十二月なんですねぇ」
ふたりで笑い合う。
京香もまた仕事に没頭している分、最近は曜日感覚や時間感覚が薄れていた。それでも、大切な人の大切な日だけは念頭に置いていた。
ふと、昨晩のことを思い出す。京香としては結果的に、互いの気持ちを確かめあったつもりだった。
自分ひとりの勘違いではないだろうかと、少し不安だった。
今年のバレンタインに、京香は瑠璃に気持ちを伝えた。だが――それから瑠璃と商売敵ながら恋人のような関係だったが、瑠璃からは未だに気持ちを『言い表されて』いない。
「とりあえず二十六日をモチベに、明日から頑張ります」
「私もよ……。まあ、そこそこ期待しておきなさい」
「へぇ。自分からハードル上げるんですか」
実に些細な悩みであるため、京香は今この場で訊ねられなかった。いや、とてもそのような雰囲気ではなかった。
頭の隅に留まるが、時間が経てば勝手に流れると、この時は思っていた。




