第84話
ショッピングモールの開店、そしてスプーンマカロンの発売。それを皮切りに、京香の生活は一変した。
スプーンマカロンを製造して、販売する――製菓会社として当たり前のことに、全てを注いだ。
商品開発部の部長としての業務は、三上凉に振った。京香は工場の責任者として、生産を指揮した。限りなく『理論値』に近い生産計画を展開したが、従業員達は何とか食らいついた。
スプーンマカロンは、妙泉製菓史上最も滑り出しが良かった。追随するSNSでの反響が、従業員達へ直に伝わるからであろう。モチベーションになっているのだと、京香は工場内で感じていた。
実際はそれに加え――京香への信頼が従業員達を突き動かしていることを、京香は知らない。何はともあれ、無茶な計画に付いてきてくれていることに感謝した。
京香は工場を動かす一方で、隙を見てはショッピングモールへ顔を出した。販売員として店舗を手伝い、売れ行きを自ら確かめた。
もう何日も、京香はまともに休んでいなかった。朝早くから深夜まで、働き詰めの日々を過ごした。帰宅すれば酒を飲むことなく、入浴と睡眠に専念した。
確かに疲労が積み重なるが、苦ではない。家業や義務といった概念も、頭に無かった。
ただ、毎日が充実していた。これだけキラキラ輝いているのは、三十三年の人生できっと初めてだと京香は思う。
「ちょっと姉さん、いい加減に休みなよ」
しかし、ショッピングモールの店舗に円香が訪れた際、怪訝な表情を向けられた。
京香はふとカレンダーを見ると、今日は十一月二十七日だった。一ヶ月近く無茶な生活を送っていたのだと、ようやく気づいた。
「大丈夫よ。まだやれるわ」
「責任者が一番言っちゃいけないことだよ、それ」
円香から咎められる。抑えてはいるが妹が珍しく剣幕を見せていることを、京香はわかった。
「全社員満場一致で姉さんをMVPに選ぶさ。だから、休みなよ」
組織内で評価されたいわけではない。だから、もう少し働かせてと――京香は懇願の瞳を円香に向けた。
だが円香は、溜息をついて自身の後頭部を掻いた。
「今もし姉さんが倒れたら、誰が工場の指揮を取るの? ハイになって行けるところまで行ってしまいたい気持ちはわかるけど……お願いだから、周りのことも考えて」
確かに、このタイミングで自分が倒れたなら――工場が機能しなくなるわけではないが、生産性が落ちる可能性があると、京香は思った。今もまだ需要に対して供給が追いついていない状況で、それは必ず避けなければならない。
だから、京香は円香に渋々従うことにした。
「わかったわ。それじゃあ……ちょっとコンディション整えるわね」
「明日はここにも工場にも行かないこと。いいね? 私がなるべくフォローするから、一日死ぬ気で休んで」
うるさく聞こえるが、これも円香なりの気遣いなのだと京香は理解した。そして、代わりに円香が居るならば、幾分安心だった。
とはいえ、円香も営業として今はとても忙しいはずだ。それでも引き受けてくれたことに、京香は感謝した。
やがて午後十時になり、ショッピングモールは閉店した。
直後、妙泉製菓の従業員達から京香は帰宅を促された。彼女達からの気遣いを感じた。
「あ――」
京香は従業員専用出入り口に向かったところ、ばったり出くわした小柴瑠璃が声をあげた。
Lazwardで瑠璃が活き活きと働いている姿を、京香は何度も見ていた。隣の店舗だが、接触することはなかった。京香に余裕が無かったため、仕事外も当然会っていない。
久々の再会だった。
「なに? あんたも?」
「はい。雇い主からいい加減休めって、怒られました。明日一日、久しぶりのお休みです」
「奇遇ね。私もよ」
いや、偶然ではなく必然かと、京香は思った。粋な計らいとも思う。
外に出ると、冷たい空気に京香は震えた。季節はすっかり冬へと移ろっていた。
「折角だから、何か温かいものでも食べに行かない?」
「それもいいですけど……久しぶりに、京香さんの自宅に行きたいです。途中で何か、適当に買いましょう」
「わかったわ」
瑠璃の提案が京香は意外だったが、とても嬉しかった。
ふたりで駐車場へ向かい、京香は自動車に瑠璃を乗せた。
京香は自動車で帰路を走る途中、ハンバーガーのチェーン店に寄り、ふたりで食べきれない量の夕飯を購入した。
自宅に着いたのは、午後十時四十五分だった。
普段と何も変わらないリビングだった。しかし、京香にとっては安らぐことの出来るプライベート空間だと、改めて感じた。
テーブルに置かれたウイスキーの瓶が、なんだか懐かしく見えた。そして、一ヶ月近く積み重なった疲労が、ここで一気に圧し掛かった。少しでも気を抜くと、意識が飛ぶだろう。
「さあ、食べましょうか。お腹ペコペコです」
瑠璃が無邪気な様子で、好物のジャンクフードを紙袋から取り出す。独特の匂いがリビングに立ち込める。
普段であれば、年柄もなく京香も気分が高まるはずだった。確かに腹が疼くが、それ以上に――ひどく疲弊した今、精神面はとても無防備だった。
「その前に、ちょっといいかしら?」
今のうちに話しておかなければいけないと、思い立ったのだ。
瑠璃が一度手を止める。改まった話だと察したのだろう。彼女の気だるい様子が、京香はなんだか懐かしかった。
ソファーとテーブルの間で、瑠璃と立ったまま向き合った。
「私の負けよ」
京香は笑顔で告げた。
ショッピングモールの開店に合わせ、瑠璃と争うことになった。とはいえ、基準となる数字の算出方法や集計期間等、具体的なルールを決めていない。
それでも、ショッピングモールでは――妙泉製菓がLazwardにあと一歩及ばなかったと、京香は直に感じていた。店の賑わいやSNSでの反響等は、あちらの方が上だ。
悔しさが全く無いわけではない。負けたというのに、京香は清々しい気分だった。己の全てを出し切った今、ただ満足していた。
そう。瑠璃に勝てなかった――即ち、瑠璃を再び『所有物』に出来ないとしても。
「ありがとうございます」
瑠璃が微笑む。
何に対しての感謝なのか、京香はわからなかった。
その代わり、どうしてか瑠璃と出会った頃をぼんやりと思い出した。
派遣社員の正体を知り、脅迫して従わせた。圧倒的な身分差だった。瑠璃が歯向かうことなど出来ないと、確信していた。
しかし、同じ責任者として真正面からやり合い――敗北した。
京香は瑠璃を諦めると同時、彼女を自分の手から開放したように感じた。もう彼女を支配できるだけのものは、存在しない。
「これからも、頑張りなさい。あんたなら、まだ上を目指せるわ」
京香なりの、別れの挨拶のつもりだった。
ソファーに腰を下ろす。テーブルに置かれた山盛りのジャンクフードが瑠璃との『最後の食事』だと思うと、おかしくて笑えた。
「はい。わたしはもう、アナタに憧れるのをやめます」
ぽつりと漏らし、瑠璃が京香の隣に座った。
いざそのように言われ、満身創痍の京香はようやく寂しさを覚えた。
この部屋には――綺麗なものばかりではないが、瑠璃との思い出が沢山ある。それらが走馬灯のように、京香の頭を駆け巡った。
残念な気持ちではなかった。非力だった小動物が力をつけて離れていくような寂しさが、込み上げる。
しかし、見送るのが『所有者』としての務めだ。瞳の奥が熱くなるも、京香はそう割り切った。
「勝ったわたしから……ひとつだけいいですか?」
ポテトやチキンナゲットをテーブルに広げながら、瑠璃がふと訊ねた。
「ええ。何でも言ってみなさい」
思えば、こちらに都合の良い体で話が進んでいた。瑠璃が勝利した場合のことを事前に決めていないが、ここで拒むのは道理ではない。
金銭を要求されても惜しみなく出そうと、京香は思った。
だが、京香は瑠璃から顔を覗き込まれ――唇を重ねられた。突然の、そして一瞬のキスだった。
「いいですか? アナタは……わたしの『所有者』です。誰にも渡しませんし、わたしの許可無くどこへも行かせません。これからも、わたしの傍に居てください――居なさい! わたしをずっと、大切にしなさい!」
京香は混乱するものの、瑠璃のはにかむ表情を見て落ち着いた。
言葉も仕草も可愛く、愛おしかった。だから、からかってみたい悪戯心が芽生えた。
「いいけど、あんたに押さえられるかしら? 私今、仕事が超楽しいんだけど? ふらふらっと、どこかに行っちゃうかもね」
その台詞に間髪入れず、京香は瑠璃から抱きしめられた。痛いほどだが、それだけ嬉しかった。
抱きついた瑠璃が、顔を上げる。言葉を真に受けたのか、駄々をこねる子供のように、今にも泣き出しそうだった。
だから、京香は瑠璃の本心に聞こえた。『所有物』の力強い意思を、大切にしたかった。
「離しませんよ。だって、アナタは――」
第28章『アナタはわたしの手の中』 完
次回 第29章『追いつけない』




