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アナタはわたしの手の中  作者: 未田
第26章『弱音』
78/90

第78話

 四月二十九日、火曜日。

 朝から京香は瑠璃を連れ出した。自動車の助手席に乗せ、都心部まで運転した。

 向かった先はデパートだった。午前十一時過ぎに到着した。

 まだ大型連休ではないが祝日であるため、多くの客で賑わっていた。京香は心なしか、瑠璃が人混みで不機嫌そうに見えた。


「良いところって言ってたのに……」

「その通りじゃない。ていうか、あんた一回連れてきてあげたでしょ」


 地下一階の食料品売場へ、瑠璃を案内する。

 瑠璃が『正社員』になって間もない頃、衣服の買い物でこのデパートへ連れてきたと、京香は覚えていた。

 そして、帰り際にここへやってきた。


「……」


 瑠璃が京香の背後に隠れる。なんだか怯えた様子だと、京香は感じた。

 表向きは自己都合で退職した会社の店舗なのだから――無理もないと思った。


「店員さん、あんたのこと知らないわよ」


 京香は瑠璃にそっと耳打ちした。

 販売員の彼女達に訊ねたわけではないため、確証は無い。ただ、ここは会社の内情――まして噂程度の話題に疎いことは確かだ。

 瑠璃の不安が完全に消えたわけではないが、京香は共に妙泉製菓の店舗へと近づいた。

 フロアの混雑具合と比例し、ふたりの販売員は忙しそうに接客を行っていた。


「これはこれは、京香部長」


 だが京香が近づくと、ひとりが小声でそっと挨拶をした。

 忙しさから余裕が無いのか、それとも瑠璃を『知人(つれ)』と捉えているのか――どちらにせよ、京香は販売員から深く構われなかった。瑠璃が心配している手前、ちょうど良かった。


「ほら。あれ見てみなさい」


 京香は店頭に並んだ製品のひとつを、指さした。

 スティックケーキの化粧箱が、店の目立つ位置に置かれていた。

 暑いほどに暖かくなってきた最近は、水菓子が売れ筋になる頃だ。それでも、現在はスティックケーキの扱いが最も良かった。


「売れてるのよ……」


 瑠璃の耳元で、そっと囁く。

 二月に三上凉と訪れた際は、白いマカロンの方が売れていたことを、京香は思い出した。だが、瑠璃には伏せた。

 実際に販売されているスティックケーキを見て、瑠璃は今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。

 先ほどまでの、怯えや不安の延長ではない。感極まっているのだと、京香は悟った。

 瑠璃が『商品』に近づき、手に取った。まじまじと眺めている。

 良くやったわね――本来ならばその言葉をかけるべきだと、京香は思う。スティックケーキの販売が始まって以来、実際に売られている光景を、売れ行きが良いことを、瑠璃に見せたかった。

 だが、瑠璃はもう部下でなければ、妙泉製菓の人間でもない。それに、瑠璃のことを販売員に悟らせてはいけないため、京香は控えた。

 その代わり――瑠璃に近づくと、背後からくしゃっと頭を撫でた。そして、瑠璃の手から化粧箱を取り上げた。


「すいません。これ、ください」


 決して高額な商品ではないが、この場は買い与えることがせめてもの落とし所だと、京香は思った。

 鞄から財布を取り出し、精算を済ませた。


 せっかくデパートへ訪れたにも関わらず、購入したのはスティックケーキだけだった。他の店に足を踏み入れることなく、京香は瑠璃とデパートから出た。

 そして、近くにあるチェーン店のカフェで、アイスカフェラテをふたつ購入した。店内で飲まずに、プラスチックカップを持って店から出た。

 祝日の都心部は、多くの人で賑わっていた。さらに、汗ばむほどの日差しが照りつける。季節は春から初夏へ、移ろうとしている。

 スティックケーキとアイスカフェラテ――ふたつを持ち、京香は瑠璃と自動車へ戻った。実に呆気ないデートだが、それでも構わなかった。


「あんたが開発した(つくった)商品、ちゃんと売れてたでしょ? 自信持てた?」


 今日のデートで伝えたかった内容は、それだった。

 京香は自動車のエンジンを点け、冷房を動かした。コインパーキングからまだ動かないが、近くに居住建物が無いため問題無いと思った。

 冷たいカフェラテを一口飲み、喉を潤す。


「はい……。連れてきてくれて、ありがとうございます」


 瑠璃はそれだけを漏らすと、スティックケーキの化粧箱を開けようとした。

 幼い子供が、買ってもらった玩具を開けることに夢中になっているよう、京香には見えた。

 やがて化粧箱が開き、五つ並んだフレーバーから、はちみつリンゴを取る。


試作(あのとき)の味、そのまんまですね」


 それを頬張った瑠璃が、おかしそうに笑いながら――涙を流した。

 喜びの涙なのか、それとも後悔の涙なのか、京香にはわからない。妙泉製菓の正社員としてスティックケーキを誇れたのは『あり得た未来』であり『叶わなかった未来』でもある。

 だが、京香はきっと前者の涙だと思った。そのために連れてきたのだから。


「こんなカタチになっちゃったけど……ずっとこれを、あんたに見せたかったの。あんたが頑張った痕跡(あかし)よ」


 京香は瑠璃の頭を撫でた後、化粧箱(パッケージ)を指さした。

 看板商品『ラズワード』を開発した現在、瑠璃は『過去』に興味が無いだろうと、京香は勝手に思っていた。まさか現在の瑠璃に必要な商品になるとは、思いもしなかった。

 いくら看板商品が会心の出来栄えだったとしても、実績が無ければ不安は消えない。瑠璃が当たり前のところで躓いていたのだと、京香は理解する。

 可能であるならば、再び上司と部下の関係に戻りたいと思う。しかし、それは京香にとっての弱音であるため、口に出すことなく堪えた。

 代わりに京香も化粧箱に手を伸ばし、レモンのフレーバーを味わった。


「もう嫌だってぐらい、散々食べたのに……久しぶりに口にしたら、案外懐かしいものよ。これが、私達の仕事」


 懐かしさの数が増えていくのが理想だと、京香は思う。その意味では、瑠璃はまだほとんど無いだろう。


「あんたのラズワードも、いつかはそうなるわよ」


 京香はカフェラテを飲み、瑠璃に微笑みかけた。

 何年、或いは何十年先になるかわからないが、彼女にとって『良い思い出』になればいいと願う。


「はい!」


 瑠璃は力強く頷いた。

 ふたりでスティックケーキを平らげると、京香は自動車を走らせた。

 時刻は正午だが、祝日のこの時間帯はどの飲食店も混んでいるだろう。時間をずらす意味で『地元』に到着してから昼食にしようと考えた。


「お店の準備とかバイトの面接とか、大変だと思うけど……楽しむぐらいで、気楽にやりなさい」


 京香はハンドルを握りながら、ふと漏らす。


「滅多に出来ない経験なんだから、勉強になるわよ」


 私は無いけどね――京香はそう付け足し、ショッピングモールの工事風景を思い出す。

 妙泉製菓のテナントは、工事の進捗が不安になるほど遅い。店舗のことは商品開発部の管轄ではないが、瑠璃にそう言った手前、どのように進めるのか興味が湧いた。妙泉の人間として、ある程度口を挟むのは許されるだろう。


「そ、そうですね……」


 和らいだにしろ、瑠璃はまだ少し不安な様子だった。


「何かあったら、私に相談なさい。協力してあげるわ」


 京香は耐えきれなかった。

 本来であれば、瑠璃の『背後』に居る人物が関与すべきだ。だが、彼女の正体を知らない体裁であるため、買って出るしかなかった。


「え? マジですか!? ありがとうございます!」


 助手席から、喜びの声が聞こえる。京香は上機嫌に運転した。


「いや、でも……わたし達、敵同士ですよね?」

「今さら何言ってんのよ。ただの敵なら、今日もこんな真似しないわ」


 京香はそのように言うが、確かに奇妙な関係だと、改めて思った。

 寒い建設現場で瑠璃と再会した時は、まさかこのようになるとは、考えもしなかった。

 スプーンマカロンの開発には、初めて仕事にやり甲斐と充実感を得た。瑠璃の御陰で感謝したいところだが、今はまだ伏せることにした。


「言い訳はさせないわ。全力でかかってきなさい」

「そうですね……。じゃないと、失礼です」


 瑠璃から落ち着いた声で敬意を払われたことが、京香は意外だった。かつて煽られたことが、冗談のようだった。


「はー。あんたに早く見せたいわねー、私の『とっておき』を」

「へぇ、完成したんですね。わたしも、早く見たいです」

「度肝抜かすわよ? まあ、楽しみに待ってなさい」


 京香としては今すぐにでも、携帯電話で撮った『スプーンマカロンのパッケージ』の写真を見せたいぐらいだった。しかし、初めて見せるなら実物だと決めているため、我慢した。匂わせる言葉を伏せた。

 ふと、前方の信号が赤に変わった。

 京香はフットブレーキを踏み、何気なくサイドブレーキに手を置いた。癖だった。

 そこへ瑠璃から、手を重ねられた。


「わたしには、やっぱり……アナタが必要です」


 言葉の意味を、京香はいくつか捉えることが出来た。だが、どれが真意でも構わなかった。

 京香は助手席を見下ろし、瑠璃と笑いあった。

第26章『弱音』 完


次回 第27章『開放感』

京香は瑠璃と夏季休暇を過ごす。

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