第75話
「よかったら、わたしの自宅に来ます? ここから近いんで」
京香は腹が鳴って恥ずかしかったが、一変――突然とも言える瑠璃の申し出に、静かに驚いた。願ってもいないことだった。
そして、少しの間を置き、自宅がこの近辺なのだと理解した。確かに、ショッピングモールの建設現場はまだ近い。やはり、そこを拠点として生活しているようだ。
「え、ええ……。何か作ってくれない?」
「いいですよ」
頷くと、京香は瑠璃から手を引かれて歩き出した。
駐車場まで引き返す道も、夜桜が咲き誇っていた。だが、もはや京香に美しさを感じる余裕は無かった。なるべく表情に出さずに抑えているが、あまりの嬉しさに頭がどうにかなりそうだった。
やがて駐車場で、自動車に乗り込む。京香は瑠璃の案内に従い、運転した。
十分ほど走ると、いつの間にか住宅街に入り込んでいた。
「そうですね……。そこに駐めましょう。まだ安い方なんで」
瑠璃がコインパーキングを指差す。看板には、二十四時間五百円と書いてある。この辺りの相場として安いのか、京香にはわからなかった。
自動車を置き、瑠璃の後を付いて歩いた。
「ここです」
五分ほどすると、アパートに到着した。
二階建て六部屋の建物だ。京香は裏手に駐車場が見えたが、ゲスト用の枠は無いようだ。当然ながら、瑠璃が契約している枠も無いだろう。
暗い中、京香は建物の外観がまだ近代的なデザインに見えた。おそらく築十年ほどだと思った。以前に瑠璃が暮らしていた古びたマンションとは、大きく違った。
このアパートも、電車の駅から割と離れた閑静な所に位置した。家賃のために距離を犠牲にしたのではなく、電車を利用する必要が無いのだと、京香は察した。瑠璃のものかは不明だが、駐輪場にスポーツタイプの自転車が置かれているのが見えた。
瑠璃が落ち着いた様子で、一階の一室を開けた。
玄関には、黒いウサギを模したスリッパの他――客人用であろう一般的なスリッパも置かれていた。京香はそれを履き、部屋へと上がった。
「へぇ。いい所に住んでるじゃない」
玄関から続く扉の向こうには、まず対面型のキッチンが見えた。その先にはリビング、そしてベッドが置かれている寝室までもあった。1LDKの間取りだと、京香は察する。
広さのせいだろうか。以前のアパートに比べ、京香は家具が増えたような気がした。所々に可愛らしい小物が目に付くことからも、瑠璃らしい生活感があった。
生活水準もまた、以前に比べ明らかに上がっていた。
「まあ、そうですけど……契約更新はスルーして、引っ越そうと思います」
「え? なんでよ?」
どこか残念そうな瑠璃を、京香は理解できなかった。
ここで一般的な生活を送れているはずだ。ショッピングモールは『圏内』だ。ふたつを覆す理由としては――家賃が不満なのだろうかと思った。いや、築浅とはいえ電車の駅から離れている分、家賃は相場から安いだろう。いったい何が不満なのか、想像できなかった。
「ウサたんを飼いたいからです。もっふもふの」
瑠璃が幼い子供のように目を輝かせている。
ここはペット不可物件のようだ。そんな理由なのかと、京香は笑いそうになるのを堪えた。自分のタワーマンションなら飼えるが、黙っておいた。
「あんた、どうしてそんなにウサギ好きなの?」
この際だと思い、京香は一年近く持っていた疑問をぶつけた。
パーカーやリュックサックもそうだった。瑠璃の周りには、ウサギに関する何かがいつもあった。今思えば、ウサギを飼っていなかったことが不自然にすら感じる。
「可愛いからに決まってるでしょ。むしろ、それ以外に理由ありますか?」
けろりとした様子で、瑠璃が答えた。
当然でしょ? さも、そのように言われているように京香は感じた。しかし、今ひとつ釈然としなかった。
「えっと……。猫や犬じゃダメなの?」
「わたしには、ウサたんなんです! ていうか、どう考えてもウサギさんの方が、犬猫畜生より五億倍は可愛いじゃないですか」
瑠璃が力説するが、ただの個人的な嗜好が京香には理解不能だった。
「まあ、座っておいてください。わたしも、お腹空きました」
脱いだ上着を寝室に運ぶと、瑠璃が髪を束ね、エプロンを纏った。
瑠璃からそのように言われるも、京香はキッチンカウンター越しに、料理する様子を眺めた。
「キッチン、広いのね」
ふと、そのように感じた。
京香の自宅ほどではない。以前のアパートに比べてだ。とはいえ、これで家賃相応の『一般的』な広さなのかもしれない。
「ここで仕事するつもりはありませんけど……まあ、広い方がいろいろ便利です」
京香としては、広々と料理が出来るといった意味合いのつもりだった。
だが、瑠璃はそのように捉えたようだ。
少しの温度差を感じ――京香は玉ねぎを切る瑠璃を尻目に、リビングへ向かった。ソファーに座って待った。
やがて、油で何かを揚げる音と共に、良い匂いが漂ってきた。
さらに待つと、大皿を持った瑠璃がキッチンから現れた。
「さあ、揚げたて食べましょう」
キッチンペーパーが敷かれた大皿には、天ぷらが載っていた。たけのこに、新玉ねぎと桜えびのかき揚げ――旬の食材を使用したものだ。
「わぁ。美味しそうね」
「お酒もありますよ。ビールですけど」
瑠璃が缶ビールとグラスをふたつ持ってきた。
京香としては、今夜は自動車で帰るつもりだった。だが、いざこのようにもてなされると、素直に好意を受け取った。扉の開いた、薄暗い寝室に一度視線を送る。
「ありがとう。いただきます」
瑠璃とグラスのビールで乾杯すると、京香は天ぷらに箸を伸ばした。
塩と天ぷらのつゆ、ふたつの小皿で楽しんだ。揚げたてであることから、とても美味しかった。
また、春らしいメニューだと感じた。先ほど観た夜桜が、頭の中に蘇る。屋内での飲食だが、まるで『花見』のようだった。
「うん。最高よ」
「よかったです……」
瑠璃がちびちびとビールを飲む。
言葉の割にあまり嬉しくなさそうだと、京香には見えた。
「この部屋、アナタに見せたかったんです」
ビールの入ったグラスを両手で抱えながら、ふと瑠璃が漏らす。
「ちゃんと人並みの生活、送れてるんで……」
続く瑠璃の言葉に、京香は彼女の『成長』を感じた。
以前のアパートでも『最低限』だと思っていた。京香は基準がわからないが、瑠璃にとってはこの部屋がそうであるらしい。
そして、瑠璃がこの部屋へ招いた意図を理解した。つまり、彼女なりの現状報告だ。雰囲気の延長ではなかったことは残念だが、それでも求められたことは嬉しかった。
「えらいじゃない」
「わたし、不安なんですよ……この生活を、いつまで送れるのか……」
瑠璃がどこか浮かない理由を、京香は察した。
まだショッピングモールが開店していない中で、瑠璃が現在どのように収入を得ているのかわからない。だが、何にしろ『妙泉製菓の正社員』でもなければ『派遣社員の栄養管理士』でもない。安定した収入を望めないのだろう。Lazwardの売上が、生活に直結することになる。
「何言ってんの。あんたならやれるから、しっかりしなさい」
京香はグラスを一度置き、瑠璃の頭を撫でた。
気休めの言葉ではない。瑠璃の会社員としての実績、そして社会人としての成長を知っているからだ。現にこの部屋には、経営に関する書籍やデザインの資料があった。現在もなお、無知なりに努力を惜しまないようだ。
「店長なんでしょ? 凄いじゃない」
社会的地位を着実に上げている。もはや、京香の知る『派遣社員』の面影は無い。かつて金稼ぎのために『裏垢』で裸体を見せていたなど、考えられなかった。
「ありがとうございます……。それにしても、商売敵からそう言われるなんて……なんか変ですね」
瑠璃が微笑み、グラスのビールを飲んだ。
敵対する存在に助けを求め、また手助けを行い――確かにおかしな関係だと、京香は思う。何としてでも勝たなければいけない相手なのだから、なおさらだ。
「いいじゃない。あんたなら成功するって、私は信じているから……」
それでも、これもまた京香の本心であった。
京香は、隣に座る瑠璃をそっと抱きしめた。
「はい。アナタの期待に応えてみせます」
心地よさそうな声が、京香の耳に届いた。
抱きしめられた瑠璃は、まるで母親に甘える幼い子供のようだった。
しかし京香は、彼女の言葉から強い決意を感じた。
*
三月二十九日、土曜日。
午前八時過ぎに、京香は狭いベッドで目を覚ました。すぐ隣から、瑠璃の小さな寝息が聞こえる。
京香は今なお心地良かった。満足のいく週末を過ごすことが出来た。
眠気は無い。昨日までの焦燥はなく、むしろスッキリとした気分だった。京香の精神面は、リセットされた状態だった。自覚は無いが、物事を考えるには最適だった。
だから、何気ないモノでも素直に吸収した。
ふと、棚に飾られていたキャニスター缶が目についた。
昨年のゴールデンウィークにテーマパークで購入した『屋敷』をキャニスター缶に模したものだ。
「これは――」
京香はベッドから起き上がり、キャニスター缶を手に取る。
軽いそれは中に何の菓子が入っていたのか、思い出せなかった。
いや、思い出せなくても構わない。重要なのは――瑠璃がどのような理由でこれを選んだのか、当時のやり取りが京香の中でフラッシュバックした。
そして結果的には、それこそがミニマカロンに欠けていたものだったと察した。
まるで、パズルの最後のピースが上手く嵌ったように――考えてみれば実に簡単だったと、京香は思った。いや、むしろどうしてこれが浮かばなかったのだろうとすら思う。
何にしても、京香は口元に笑みを浮かべた。
第25章『現状報告』 完
次回 第26章『弱音』
京香は瑠璃とゴールデンウィークを過ごす。




