第73話
三月十七日、月曜日。
朝の冷え込みは割と和らぎ、京香に春の訪れが近いのだと感じさせた。
午前八時過ぎ、京香は工場へ出社した。
週始めの月曜日にも関わらず、とても清々しい気分だった。先週までの焦燥はどこかへ消え、代わりに静かな――しかし大きな自信を噛み締めていた。
「おはよう」
「おはようございます、京香部長」
課長である三上凉と挨拶を交わし、京香は部長席に座った。
京香のにこやかな様子に予感めいたのか、凉が自分の席を立った。
「まさか――」
「はい。もうちょっとしたら、行きましょう」
京香は鞄からUSBメモリーを取り出し、掲げて見せた。昨日、一昨日と――この土日で案を取りまとめたファイルが、入っている。
今すぐにでも紙に出力して凉に見せたい。幼い子供のように無邪気だと、京香は自覚している。だが、この時間の喫煙所はまだ利用者が居るため、堪えた。
京香はノートパソコンを立ち上げ、朝の事務作業を行った。
やがて午前八時半になり、始業のチャイムが鳴り響く。ファイルを紙に出力し、凉と喫煙所へ向かった。いくら工場の責任者とはいえ、このタイミングで喫煙所を利用しているところを、他の従業員に見られたくない。幸い、周りの目は無かった。
「これです」
京香は、電子タバコを吸い始めた凉にA4サイズの紙を渡した。そして、温かい缶コーヒーを開けた。
「へぇ。小さいマカロンかぁ」
「スプーンで掬って食べる――が、コンセプトです」
これが京香の、会心の出来とも言える案だった。
土曜日の朝、皿に盛ったグラノーラから着想を得た。小粒で乾燥しているグラノーラ――家畜の餌に見えていたそれが、もしも無数のマカロンならと想像したのだ。
マカロンで悩んでいたことを、瑠璃は知らないはずだ。あくまで京香の健康を想ってグラノーラを置いて帰ったのであり『ヒント』の意図は無いだろう。
結果的に商売仇の瑠璃から助けられたのは、ただの偶然だった。
「大きいのがダメなら、小さくしようと思いました」
京香は瑠璃と接触していることを、凉に言えない。だが、先日の生産技術部での一件も、この着想に関わっていることは事実だ。今になればむしろ、大きさにこだわったあの時にどうして『小さくする』という発想が出来なかったのかと思う。
「良いじゃん! 最高だよ! これ、絶対にヒット狙える!」
凉もまた、確かな手応えを得たようだ。
はしゃぐ姿が彼女らしくないと京香は思ったが、素直に嬉しかった。
「いやー、まさかマカロンの常識を覆してくるなんてねぇ。私は京香のこと、信じてたよ」
「ありがとうございます。でも、肝心なのはここからですよ」
「とりあえず、技術部に行っておいで」
「はい」
京香はこの案を、まだ凉にしか話していない。いや、生産技術部に確認していない現時点では机上の空論であり、実現可能であるか定かでない。
問題は、マカロンをどこまで小さく出来るかだ。
「想定しているのは、直径十ミリです」
凉の持っている紙に記した一文を、京香は指先で撫でた。
スプーンで掬って食べるというコンセプトである以上、重要なのは食べ応え――一般的なスプーンにどれだけ載るかだ。グラノーラのように、小粒で沢山載ることが理想だ。
そう考えた場合、京香は一粒の最大が直径十ミリと制限した。通常のマカロンが四十から五十ミリであるため、約五分の一となる。勿論、さらに小さくなるに越したことはない。
「たぶん、妙泉製菓の技術なら可能じゃないかな」
京香もまた、そのように思っている。いや、信じている。だからこそ、この案を作成した。
一月から販売されているスティックケーキは、コンセプト通り『本物のケーキ』のようだと好評だった。フレーバーを決定したのは開発一課だが、妙泉製菓の技術あっての商品だった。他社に比べ優れた技術を有しているのが、妙泉製菓の強みだ。
京香は妙泉製菓を嫌っていた。しかし、小柴瑠璃と真っ向から戦うためには、技術に縋るしかない。なんとも皮肉だった。
「でも、それクリームありきだよね? 私、思うんだけど……クリーム無しにして、もっと小さくした方がいいんじゃない?」
技術について京香は詳しくないが、常識的に考えれば小型化を優先する場合、生地に挟むクリームが犠牲になる。
京香も同じことを、一度は考えた。
「いいえ、クリームは必要不可欠です。クリーム無しだと……たぶん、マカロンになりませんから」
マカロンという種類の焼き菓子は――諸説あるが、大昔の発祥時点ではガナッシュクリームやジャムを挟まなかった。挟むのはむしろ、文化の違いからの『亜種』であり、しかしそれが世間に長く広く浸透した。
使用する原材料でマカロンを定義するならば、クリームを挟まずともマカロンだと主張可能だ。だが、顧客の求める『当たり前品質』を大きく欠く可能性があると、京香は考える。
それに、京香個人としてもクリームの無いマカロンを認められなかった。自覚が無いものの『一般的なマカロンらしさ』へのこだわりは、妙泉製菓の老舗としての思考だった。
「そっか……。京香がそう言うなら、そこは曲げないでおこう」
「ありがとうございます」
「あと、私が気になるのは……フレーバーとパッケージだね」
凉からそのように言われ、京香は少なくとも前者を忘れていたことに気づいた。
京香の想定では、プレーンのみであった。だが、無数の小粒であることを考えると――ひとつの商品に何色か混じっていると、見た目が華やぐ。
「そうですね。種類別じゃなくて、ミックスしましょう」
確保可能な生産ライン次第だが、せめて三色は欲しいと京香は思う。
フレーバーに奇抜さは不要であり、親しみやすさを考えるとむしろオーソドックスなものが良い。また、混ぜたものを一度に食べる想定であるため、極端に味がおかしくなければ構わない。
そのあたりは試作を交えて確かめるつもりだが、それほど難航しないだろうと京香は思った。技術を売りに出すため、味はさほど重要ではない。
「パッケージですけど……今の時点でそこまで考えなきゃですか?」
通常であれば、試作までを終えて社内稟議を通してから、パッケージデザインの工程へと移る。
「うん。技術で売るからには、そこも大事だと思うよ」
凉の言葉に、京香は納得する。スプーンで食べるというコンセプトは、確かに伝わり難い。顧客の興味を、視覚で引き付けなければならない。
京香が妙泉製菓でこれまで関わった商品の中で、そのような案件は無かった。ここへきて、少し戸惑う。
「ていうかさ……。確かに、これは超凄い商品だよ? でも、そこを間違ったら売れなくなる可能性も全然有り得るんじゃないかな」
水を差すようなこと言って、ゴメンね――凉から追加で謝罪されるが、京香にも危機感が芽生えた。
このマカロンのパッケージについて、京香は一度たりとも考えたことが無かった。
グラノーラから着想を得ているため、グラノーラのような袋のパッケージを、ふと思い浮かべた。皿に盛られたマカロンの写真が、袋に印刷されたものだ。
だが、顧客が手に取る姿を想像できなかった。そのようなパッケージでは、魅力が全く伝わらない。
京香は、これはかつての白いマカロン以上――妙泉製菓内でも売上上位を狙える商品だと信じている。しかし、凉の言う通り『売り方』を間違えば日の目を見ないだろう。
企画案として九割方が完成したと思っていたが、実際はまだ半分ほどだった。大変なのはむしろここからだと、京香は思った。
「他に目ぼしいアイデア無いんだし、新商品はこれでいこうよ。それで……社内案件として、いろんな部署巻き込んで、残りを決めていかない?」
京香は深刻な表情を見せたため、凉から諭された。
確かに、フレーバーやパッケージは京香ひとりの手に負えない。それに、生産技術部とはより深く関わらなければいけない。
妙泉の人間として、跡継ぎとして、工場責任者として――京香はつまらない矜持を持っていない。
全ては、瑠璃に勝ちたいだけだ。そのためならば利用出来るものを全て利用し、各所に頭を下げよう。
そう。社内一丸となって総戦力をぶつけなければ、京香ひとりでは、瑠璃には勝てない。
「はい、それで進めましょう。とりあえず、最短で会議開けるようにはします」
京香は力強く頷いた。
そして、温くなった缶コーヒーを飲み干すと、喫煙所を出て生産技術部へと向かった。




