第72話
「はい。煽るのと……ついでに、料理しに来ました」
瑠璃がエコバッグを掲げる。
わざわざ会いに訪れるだけでなく、料理も――京香には、とても意外だった。以前の誕生日には、自分の主力商品である青いレアチーズケーキを持参した瑠璃から煽られた。その先入観があったからだ。
いや、これまで数えられないほど瑠璃に料理をさせた。京香にとって『当たり前』だった。しかし、もう失われたと思っていたのだ。
「まあ、今日はホワイトデーですし……バレンタインのお返しってことで」
そういえば今日は三月十四日だったと、京香は思い出す。この展開を期待していたことすら、仕事に没頭していた現在、いつの間にか忘れていた。
視線を外している瑠璃は、なんだか恥ずかしそうな様子だった。
だから、京香が都合良く解釈すると――それを口実に訪れたように思えた。
「あ、ありがとう……」
京香としても、まさに『不意打ち』を食らったため、恥ずかしい。
互いに俯き気味になったところで、瑠璃が小さく笑った。京香もそれに連れられた。
ようやく、地下駐車場からエレベーターへと移動する。
「それで……何作ってくれるの?」
「ヒミツです。お楽しみにー」
ふたりきりのエレベーターで上がった。
京香はここ最近、空腹感があるものの、食欲はあまり無かった。食事はあくまでも、ただの義務だった。
だが今は、空腹感に食欲が伴った。食事が純粋に楽しみなのは、バレンタインでの外食以来――ちょうど一ヶ月振りだった。
やがて、二十四階に位置する自宅へと到着した。
京香はコートとスーツのジャケットを脱ぎ、リビングのソファーへと一度座る。そして、瑠璃がキッチンへエコバッグを置く。
いつの間にか定着していた『週末』の自然な流れだった。しかし、京香はとても懐かしかった。
料理を待っている間にウイスキーを飲もうと、京香はソファーを立ち上がった。グラスを求め、キッチンへ向かった。
「あれ? このエプロン、ここにあったんですか」
髪を束ね、無地の青いエプロンを纏った瑠璃が――黒いウサギのエプロンの存在に気づいたようだった。畳まれたそれを、手に取っている。
京香はその光景を目撃し、仕舞わなかったことを後悔した。
「へー。捨てないで、大事にしてたんですねぇ」
瑠璃からニヤニヤした笑みを向けられ、京香はつい視線を外す。どこかに逃げてしまいたい気分だった。
「私だって、たまには料理するんだから……エプロンあった方がいいじゃない」
「その割には、エプロンもキッチンも、まったく使われてないっぽいですけど」
京香は咄嗟に誤魔化すも、瑠璃から即見破られた。
観念する代わりに黙ってグラスを取り、リビングへ戻ろうとする。
「まあ、折角だから置いておくんで……好きに『使って』くれて構いませんよ」
「へ、変なことに使ってないわよ!」
「わたしは『料理に』の意味で言ったのに……変なことって、いったい何ですかぁ?」
瑠璃に回り込まれ、京香は顔を覗き込まれる。にんまりした笑みが、心底鬱陶しかった。
思わず反論したつもりが、墓穴を掘ったようだ。なんだか調子が狂う。これ以上は、やはり黙ることにした。
その後、リビングのソファーでウイスキーをゆっくり飲んだ。
何かを炒める音と香ばしい匂いに、京香は食欲が疼いた。飲酒のペースをなるべく落とした。
それとは別に、味噌の濃厚な匂いも漂ってくる。まだ寒い夜が続いているので、温かい料理を想像した。
このように瑠璃の料理を待つことも、久々だった。どのような料理が出来るのかを待つ時間は、今なお楽しみだ。
「出来ましたよ。そうですね……テーブルで食べましょう」
意図がよくわからないが、京香は瑠璃に呼ばれてソファーを立った。
そして、テーブルに置かれた皿を見ると――怪訝な表情を浮かべると同時、テーブルで食べる理由に少し納得した。
「これ……レバニラ?」
「はい」
あまり見る機会の無い豚レバーと、ニラとモヤシが炒められた料理だ。家庭的であるため、リビングよりダイニングの方が京香はしっくりきた。
ごま油とニンニクの匂いが食欲をそそるが、京香はレバーに対し苦手意識があった。
「あれ? レバー無理な感じですか?」
様子に気づいたのか、瑠璃から訊ねられる。
「どうしても食べられないわけじゃないんだけど……」
「もうっ。そういうことは早めに言ってくださいよー」
「あんたね……ヒミツにしておいて、何言ってんのよ」
京香は瑠璃に半眼を向けた。駐車場で待っていた時点で材料を用意していたのだから、あの時に知らされていたとしても回避不可能だ。故意犯だと思った。
とはいえ、瑠璃がせっかく料理したものを食べないわけにはいかない。京香はウイスキーのグラスをテーブルに置くと、椅子に座って箸を取る。
「思った通り、根詰めて死にそうになってるんですから……休めないなら、ちゃんとスタミナ摂ってください」
口に運ぼうとしたところで、正面に座った瑠璃から、そのように言われる。
レバニラにした気遣いに、京香は嬉しさが込み上げた。
いや、瑠璃はそれを見越して材料を用意し、駐車場で待っていたのだ。つまり、ここまで疲弊して新商品開発に打ち込むことを、瑠璃は信じていた。そのうえで、料理で労っている。
あまりの嬉しさに、京香は瞳の奥が熱くなった。
社会人として、責任者として、結果を出さなければ意味が無い。どれだけ努力しようとも、結果が伴わなければ讃えられない。
京香は、もがき続けていることを、誰かに肯定されたいわけではない。それでも、瑠璃の労りに――少し救われたような気がした。
そして、瑠璃こそが世界で唯一の『理解者』だと確信した。
「ありがとう。いただきます」
感謝の言葉を述べ、レバニラを食べる。
この料理を食べるのはいつ以来だろうと、京香は思う。幼少で苦手意識を持ち、現在まで引きずっている。
独特の臭みと食感に備えていたが――少なくとも、臭みは無かった。瑠璃がきちんと処理したことを、後で知る。
「久しぶりに食べたけど、意外といけるわね」
年齢のせいか、食感も問題無かった。
むしろ、香ばしい味付けが酒にとても合う。米にも合うと思った。
「栄養だけじゃなくて、塩分も盛りましたけど……疲れた身体には問題無いどころか、むしろ必要です」
瑠璃の言葉から割と濃い味付けにしたのだと、京香は察する。多少身体に悪くとも、疲労が回復するなら構わなかった。
京香は、用意されたレバニラ一皿をあっという間に平らげた。苦手意識はもう無く、舌も成長したのだと感じた。
ちょうどグラスも空になり、次に瑠璃がキッチンから持ってきたのは、豚汁だった。椀に盛られたそれは、野菜が溢れていた。
アルコールの摂取により水分を求める身体に、温かい汁物が染み渡った。
「お鍋に大量に作ったんで、よかったら明日も食べてください」
「助かるわ……」
少なくとも、宅配物や市販の惣菜よりは手軽に美味しく栄養が摂れるだろう。具が多いため、腹も膨れる。
京香としては、とても有り難かった。
レバニラと豚汁で、京香は腹が満たされた。
リビングのソファーに座り、ぼんやりと――キッチンで瑠璃が後片付けをする音に、耳を傾ける。
瑠璃の気持ちが籠もった手料理を食べるだけで、ただ幸せだった。この一時だけは仕事のことを忘れ、心地良い余韻に浸っていた。
いや、京香は強烈な眠気に襲われていた。
米を食べていないので、糖分によるものではない。疲れた身体にウイスキーをグラスで二杯飲んだが、この程度であれば本来は響かない。
精神的に――張り詰めていた緊張感が緩んだのであった。
京香は深い眠りにつける予感がしたが、瑠璃がまだ居る手前、ウトウトと眠気に抗った。
「どうでした? 満足ですか?」
やがて、後片付けを終えた瑠璃が隣に座る。
「ええ……。最高よ」
京香は虚空を眺めながら漏らした。
そういえばホワイトデーという体裁だったと、思い出す。瑠璃がここまで尽くしてくれたことに、相当の理由がある。
このような関係だが、瑠璃とは敵対しているのだ。情けをかけられた理由を、京香はなんとなく理解している。
それでも単純に、瑠璃を欲した。かつてのように、週末の度に手料理を振るって欲しいと願う。
私の元に戻ってきなさいよ――京香はそう言おうとしたが、眠気で朦朧としている意識が、かろうじて食い止めた。
その代わり、隣へ顔を向け、弱々しい瞳で懇願した。
直後に眠気が限界を迎えた。意識の途絶えた京香は、瑠璃がどのような表情をしていたのか、わからなかった。
*
三月十五日、土曜日。
午前六時に京香はベッドで目を覚ました。途中一度も起きることなく、久々にぐっすり眠ることが出来た。心なしか、身体も軽い。ここ最近の疲労が取れているような気がした。
衣服は昨晩のままだった。ベッドから起き上がって暗いリビングへ出るも、やはり瑠璃の姿は無かった。ベッドまで運んでから帰ったのだろうと、寝起きの頭で察する。
京香はふと、ダイニングテーブルに何かが置かれていることに気づく。
グラノーラの袋だった。テーブルとの間に、メモ書きが挟まれていた。
『手軽に栄養摂れるんで、朝ご飯にオススメです』
そのように、瑠璃の手書きで記されていた。
それを眺め、京香は思わず微笑む。
「お節介なんだから……」
昨晩といい、瑠璃は健康を第一に考えてくれていた。
栄養管理士らしい言動だと、京香は思う。この置き土産にも、感謝しかない。
しかし、京香はグラノーラが苦手だった。味ではなく、見た目が『家畜の餌』を連想させるためである。
とはいえ、昨晩は苦手だったレバーを克服した。これも意識が変わるかもしれないと、前向きな気持ちで向き合うことにした。
風呂のスイッチを入れた後、皿に袋からグラノーラを盛った。
冷蔵庫には瑠璃が買い置きしたであろう牛乳もあったが、冷たい朝に冷たい飲み物を避けた。何もかけず、そのまま食べることにした。
「いただきます」
京香はスプーンで掬い、口へ運ぼうとする。
スプーンを眺めると、様々な小粒がいくつも載っていた。残念ながら、悪い印象は拭いきれない。
思考を切り替えようと、京香は味を想像した。乾燥しているため、ひとまず軽い食感だろうと思った。
その瞬間、京香はまるで雷に打たれたように背筋が震えた。寝起きでぼんやりとしていた頭が、完全に覚醒した。
口にするまでもなく、この食べ物から『家畜の餌』の印象が消え去った。代わりに、別のモノ――まだ口にしたことも見たこともない『未来の商品』を彷彿とさせた。
小粒の食べ物と、軽い食感。そのふたつが、京香にアイデアを与えた。
第24章『いたわり』 完
次回 第25章『現状報告』
京香は瑠璃と夜桜を見に行く。




