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アナタはわたしの手の中  作者: 未田
第24章『いたわり』
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第71話

 三月六日、木曜日。

 二月が終われど、寒い日が続いている。桜が咲くのは、まだ先だ。

 だが、京香は寒さを感じる余裕が無いほど――見えない答えを探すことに、必死になっていた。


「京香さー、最近ちゃんと休んでる?」


 午前十時半の休憩時、喫煙場でふと三上凉から訊ねられた。

 京香は言葉の意図がよくわからず、首を傾げた。


「ええ……まあ」

「そう? 髪ボサボサだし、クマもひどいよ?」


 そのように言われ、京香は納得した。

 最近は部長としての業務を凉に任せているせいか、身だしなみを疎かにして出社していた。材料仕入先との折衝では気をつけるが、商品開発業務に於いて外観はさほど重要ではないと、京香は思う。否、部長として『跡継ぎ』として気を使っていた身なりは、今はどうでもよかった。

 それほどまでに、帰宅後も休日も、新商品開発で頭の中がいっぱいだったのだ。


「でも、上手く言えないけど……なんか良い感じじゃん。ここまで必死になってる京香、初めて見たかも」


 凉が笑顔を見せる。

 心配しているのか讃えているのか、京香はわからなかった。おそらく後者だろうと、少しの間を置いて捉えた。

 話というより、新商品開発の件に関して、ここ一連の流れがなんだか噛み合っていないように感じる。凉は事情を知らないのだと、ようやく気づいた。

 京香の、小柴瑠璃への気持ちはさて置き――ショッピングモールで彼女の店と隣合わせになることは、遅かれ早かれわかるはずだ。

 その事実のみ、京香は話した。


「なるほどね……。あの子に何があったのかわからないけど、厄介なのが敵になったなぁ」

「はい。絶対に負けたくありません」


 妙泉製菓への恨みを瑠璃が持っているのだと、凉は思っているようだ。

 瑠璃が円香と手を組んで何をしようとしているのか、未だはっきりとしない。だが、瑠璃から憎しみを感じないどころか、一緒に食事をする間柄であることから――京香は彼女達の意図が、なんとなくわかった。

 そう。自分が不甲斐ないからだ。だから、この件で結果を出さないといけない。


「確かに、そうだね。私はサポートするから……身体壊さない程度に、納得するまでやってみよう」


 京香は力強く頷いた。

 休憩を終え、ふたりで喫煙場を後にする。

 京香はひとりで自動販売機に立ち寄り、ゴミ箱に空き缶を捨てた。

 そして、オフィスに戻ろうとしたところ――ショートボブヘアの人影が、目の前に現れた。スーツ姿だが、京香はかつて吐き気を催したこの雰囲気を、身体が覚えていた。反射的に、身構えた。


「両川さん……」


 開発一課から営業二課へ異動した両川昭子が、立っていた。

 京香としては、昨年の九月以来、約半年振りの再会だった。ようやく記憶から薄れてきていたが――下卑た笑みに、背筋が震えた。どれだけ嫌っても抗えない絶望感がフラッシュバックする。

 なんとか冷静を保つため、京香は思考を巡らせた。

 そもそも、どうしてここに居るのか、疑問が浮かんだ。営業二課は水菓子の販売担当であり、焼き菓子を製造しているこの工場に用件は無いはずだ。それに――円香に直接確かめたわけではないが、本社で円香の監視下に置かれているはずだ。


「やだなぁ。そんなに警戒しないでくださいよ」


 ねっとりと舐め回されるような言い草は、京香にとって相変わらずだった。一瞬でも気を抜けば、飲み込まれてしまうような気がした。


「ショッピングモールで新商品出すんですよね? お困りなら、あたし戻ってきましょうか?」

「結構よ! あんたの手なんて、死んでも借りないわ!」


 営業二課の部外者である以前に、本社の人間としてこの案件を知っていてもおかしくない。

 だが、冗談だとしても、京香にとっては悪質だった。無邪気な笑みを浮かべる昭子を、京香は真っ向から否定した。


「それにしても、ひどい顔ですねぇ。ボロボロじゃないですか。ここまで頑張る意味、あります?」


 凉からの指摘と同じだろう。だが、凉と違って背中を押すつもりは無いようだ。

 むしろ、嘲笑われて京香は苛立った。自らの信念に基づいた行動を、この小娘だけには笑われたくない。昭子を睨みつける。


「うるさいわね! あんたに何がわかるっていうのよ!?」

「わかりませんよ――」


 昭子から、間髪入れずに肯定された。京香としては、意外だった。


「もう、やめればいいじゃないですか……。必死な姿は、貴方に似合いませんよ。気だるいぐらい……何にも興味が無いような、落ち着いた貴方が好きだったのに……」


 京香にしてみれば、願ってもいない内容だった。

 同時に――意識したわけではないが、自身の確かな変化なのだと実感する。凉の発言と実質は同じだ。


「お別れを言いに来ました。あたし、妙泉製菓(ここ)を辞めるんで……」


 昭子が訪れた目的はそれだった。京香は少し驚く。

 おそらく、京香の変化によって退職へと至ったわけではないだろう。ここを訪れる前から腹は決まっていたのだと、京香は察する。

 詳しい退職理由はわからない。やはり、異動が不服だったのかもしれないと、京香は思う。そして、円香の目を盗んで――或いは、円香に責められることを覚悟で訪れたようにも思った。


「さようなら」


 踵を返して去っていく昭子を、京香は黙って見送った。彼女が最後まで謝罪しないように、京香もまた投げかける言葉が無い。彼女から受けた精神的苦痛は、紛れもない事実だ。

 しかし、昭子が脅迫を行った原因に――彼女の人生が乱れた原因に、自分の責任が一切無いと京香は思わない。精神的苦痛も、結局は自分が招いたことだ。

 このような結末を迎えたが、京香は複雑な気持ちだった。



   *



 三月十四日、金曜日。

 一週間の仕事を終え、京香は疲れた身体で自動車を運転していた。帰路を走っていた。

 時刻は午後七時半。空腹を感じるが――酒を飲まないわけではないが、晩酌を楽しみにしているわけではなかった。夕飯は、何か温かいものを宅配で取ろう。腹を満たすことが出来るなら、メニューはは何だって構わない。酒は睡眠導入剤に過ぎない。

 新商品の案はまだ浮かばなかった。今も、頭の中はそれでいっぱいだった。この土日は気分転換も兼ねて、再び市場調査へ向かおうと考えている。

 やがて、自宅であるタワーマンションに到着する。

 地下駐車場の定位置に、自動車を置こうとしたところ――車止めブロックにひとりの女性が座っているのが見えた。

 女性が立ち上がったのを確認し、京香は駐車した。


「遅いですよ。どんだけ働いてるんですか? 寒い所で、どんだけ待たせるんですか?」


 京香が自動車から降りるや否や、不機嫌ながらも気だるい様子の小柴瑠璃から詰め寄られた。

 瑠璃が訪れるなど、京香は知らなかった。嬉しさよりも、驚いた。


「勝手に待っておいて、何言ってるのよ。あんた、私のストーカー? こっわ」

「アナタにだけは言われたくないです……」


 半眼を向けられ、確かにそのような節もあったと京香は自覚する。

 おかしくて、吹っ切れたように――仕事の緊張が緩んだように、笑う。それに瑠璃も連れられた。

 瑠璃とは実に、一ヶ月振りの再会だった。バレンタインでのデートで連絡先を交換するも、京香は一度も使うことが無かった。瑠璃からも連絡は無かった。

 京香の本音としては、瑠璃にとても会いたかった。しかし、本気で仕事と向き合っている現在、敵である瑠璃に縋ることに躊躇していた。最近では、その戸惑いすら忘れるほどに集中していた。

 とはいえ、こうして瑠璃の方から姿を現したなら仕方ない。京香は嬉しさを噛み締めた。


「何しに来たのよ? また何か、煽りたいだけ?」


 京香としては、それでも構わなかった。敵対する存在として、それだけが唯一の『繋がり』なのだから。

 瑠璃の格好は、黒いダウンジャケットに黒いパンツだった。黒いマスクを着けている。以前のように、ふざけた格好ではない。

 格好だけでなく気だるい雰囲気からも、京香はなんだか懐かしさを覚えた。

 だから、瑠璃が手にエコバッグを持っていることも、自然な光景に見えていた。

 素っ気ない様子でそれを掲げられ、ようやく『現在の違和感』として捉えた。


「はい。煽るのと……ついでに、料理しに来ました」

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