第71話
三月六日、木曜日。
二月が終われど、寒い日が続いている。桜が咲くのは、まだ先だ。
だが、京香は寒さを感じる余裕が無いほど――見えない答えを探すことに、必死になっていた。
「京香さー、最近ちゃんと休んでる?」
午前十時半の休憩時、喫煙場でふと三上凉から訊ねられた。
京香は言葉の意図がよくわからず、首を傾げた。
「ええ……まあ」
「そう? 髪ボサボサだし、クマもひどいよ?」
そのように言われ、京香は納得した。
最近は部長としての業務を凉に任せているせいか、身だしなみを疎かにして出社していた。材料仕入先との折衝では気をつけるが、商品開発業務に於いて外観はさほど重要ではないと、京香は思う。否、部長として『跡継ぎ』として気を使っていた身なりは、今はどうでもよかった。
それほどまでに、帰宅後も休日も、新商品開発で頭の中がいっぱいだったのだ。
「でも、上手く言えないけど……なんか良い感じじゃん。ここまで必死になってる京香、初めて見たかも」
凉が笑顔を見せる。
心配しているのか讃えているのか、京香はわからなかった。おそらく後者だろうと、少しの間を置いて捉えた。
話というより、新商品開発の件に関して、ここ一連の流れがなんだか噛み合っていないように感じる。凉は事情を知らないのだと、ようやく気づいた。
京香の、小柴瑠璃への気持ちはさて置き――ショッピングモールで彼女の店と隣合わせになることは、遅かれ早かれわかるはずだ。
その事実のみ、京香は話した。
「なるほどね……。あの子に何があったのかわからないけど、厄介なのが敵になったなぁ」
「はい。絶対に負けたくありません」
妙泉製菓への恨みを瑠璃が持っているのだと、凉は思っているようだ。
瑠璃が円香と手を組んで何をしようとしているのか、未だはっきりとしない。だが、瑠璃から憎しみを感じないどころか、一緒に食事をする間柄であることから――京香は彼女達の意図が、なんとなくわかった。
そう。自分が不甲斐ないからだ。だから、この件で結果を出さないといけない。
「確かに、そうだね。私はサポートするから……身体壊さない程度に、納得するまでやってみよう」
京香は力強く頷いた。
休憩を終え、ふたりで喫煙場を後にする。
京香はひとりで自動販売機に立ち寄り、ゴミ箱に空き缶を捨てた。
そして、オフィスに戻ろうとしたところ――ショートボブヘアの人影が、目の前に現れた。スーツ姿だが、京香はかつて吐き気を催したこの雰囲気を、身体が覚えていた。反射的に、身構えた。
「両川さん……」
開発一課から営業二課へ異動した両川昭子が、立っていた。
京香としては、昨年の九月以来、約半年振りの再会だった。ようやく記憶から薄れてきていたが――下卑た笑みに、背筋が震えた。どれだけ嫌っても抗えない絶望感がフラッシュバックする。
なんとか冷静を保つため、京香は思考を巡らせた。
そもそも、どうしてここに居るのか、疑問が浮かんだ。営業二課は水菓子の販売担当であり、焼き菓子を製造しているこの工場に用件は無いはずだ。それに――円香に直接確かめたわけではないが、本社で円香の監視下に置かれているはずだ。
「やだなぁ。そんなに警戒しないでくださいよ」
ねっとりと舐め回されるような言い草は、京香にとって相変わらずだった。一瞬でも気を抜けば、飲み込まれてしまうような気がした。
「ショッピングモールで新商品出すんですよね? お困りなら、あたし戻ってきましょうか?」
「結構よ! あんたの手なんて、死んでも借りないわ!」
営業二課の部外者である以前に、本社の人間としてこの案件を知っていてもおかしくない。
だが、冗談だとしても、京香にとっては悪質だった。無邪気な笑みを浮かべる昭子を、京香は真っ向から否定した。
「それにしても、ひどい顔ですねぇ。ボロボロじゃないですか。ここまで頑張る意味、あります?」
凉からの指摘と同じだろう。だが、凉と違って背中を押すつもりは無いようだ。
むしろ、嘲笑われて京香は苛立った。自らの信念に基づいた行動を、この小娘だけには笑われたくない。昭子を睨みつける。
「うるさいわね! あんたに何がわかるっていうのよ!?」
「わかりませんよ――」
昭子から、間髪入れずに肯定された。京香としては、意外だった。
「もう、やめればいいじゃないですか……。必死な姿は、貴方に似合いませんよ。気だるいぐらい……何にも興味が無いような、落ち着いた貴方が好きだったのに……」
京香にしてみれば、願ってもいない内容だった。
同時に――意識したわけではないが、自身の確かな変化なのだと実感する。凉の発言と実質は同じだ。
「お別れを言いに来ました。あたし、妙泉製菓を辞めるんで……」
昭子が訪れた目的はそれだった。京香は少し驚く。
おそらく、京香の変化によって退職へと至ったわけではないだろう。ここを訪れる前から腹は決まっていたのだと、京香は察する。
詳しい退職理由はわからない。やはり、異動が不服だったのかもしれないと、京香は思う。そして、円香の目を盗んで――或いは、円香に責められることを覚悟で訪れたようにも思った。
「さようなら」
踵を返して去っていく昭子を、京香は黙って見送った。彼女が最後まで謝罪しないように、京香もまた投げかける言葉が無い。彼女から受けた精神的苦痛は、紛れもない事実だ。
しかし、昭子が脅迫を行った原因に――彼女の人生が乱れた原因に、自分の責任が一切無いと京香は思わない。精神的苦痛も、結局は自分が招いたことだ。
このような結末を迎えたが、京香は複雑な気持ちだった。
*
三月十四日、金曜日。
一週間の仕事を終え、京香は疲れた身体で自動車を運転していた。帰路を走っていた。
時刻は午後七時半。空腹を感じるが――酒を飲まないわけではないが、晩酌を楽しみにしているわけではなかった。夕飯は、何か温かいものを宅配で取ろう。腹を満たすことが出来るなら、メニューはは何だって構わない。酒は睡眠導入剤に過ぎない。
新商品の案はまだ浮かばなかった。今も、頭の中はそれでいっぱいだった。この土日は気分転換も兼ねて、再び市場調査へ向かおうと考えている。
やがて、自宅であるタワーマンションに到着する。
地下駐車場の定位置に、自動車を置こうとしたところ――車止めブロックにひとりの女性が座っているのが見えた。
女性が立ち上がったのを確認し、京香は駐車した。
「遅いですよ。どんだけ働いてるんですか? 寒い所で、どんだけ待たせるんですか?」
京香が自動車から降りるや否や、不機嫌ながらも気だるい様子の小柴瑠璃から詰め寄られた。
瑠璃が訪れるなど、京香は知らなかった。嬉しさよりも、驚いた。
「勝手に待っておいて、何言ってるのよ。あんた、私のストーカー? こっわ」
「アナタにだけは言われたくないです……」
半眼を向けられ、確かにそのような節もあったと京香は自覚する。
おかしくて、吹っ切れたように――仕事の緊張が緩んだように、笑う。それに瑠璃も連れられた。
瑠璃とは実に、一ヶ月振りの再会だった。バレンタインでのデートで連絡先を交換するも、京香は一度も使うことが無かった。瑠璃からも連絡は無かった。
京香の本音としては、瑠璃にとても会いたかった。しかし、本気で仕事と向き合っている現在、敵である瑠璃に縋ることに躊躇していた。最近では、その戸惑いすら忘れるほどに集中していた。
とはいえ、こうして瑠璃の方から姿を現したなら仕方ない。京香は嬉しさを噛み締めた。
「何しに来たのよ? また何か、煽りたいだけ?」
京香としては、それでも構わなかった。敵対する存在として、それだけが唯一の『繋がり』なのだから。
瑠璃の格好は、黒いダウンジャケットに黒いパンツだった。黒いマスクを着けている。以前のように、ふざけた格好ではない。
格好だけでなく気だるい雰囲気からも、京香はなんだか懐かしさを覚えた。
だから、瑠璃が手にエコバッグを持っていることも、自然な光景に見えていた。
素っ気ない様子でそれを掲げられ、ようやく『現在の違和感』として捉えた。
「はい。煽るのと……ついでに、料理しに来ました」




