第67話
一月二十日、月曜日。
午前八時過ぎ、京香はいつものように出社した。
「皆、おはよう」
落ち着いた様子を装うが、内心ではとても焦っていた。
出社早々、これまでに提出された『新商品』の案を改めて確かめる。
ダメだ、どれもアレには勝てそうにない――京香は溜め息をつきたいところだが、オフィスで部下達が居る手前、我慢した。
誕生日に、小柴瑠璃から『ラズワード』という店名と同じ名を冠するレアチーズケーキで、宣戦布告を受けた。瑠璃の『本気』を理解した。彼女はもう妙泉製菓の従業員ではなく、新店舗で隣接する競合相手だ。
可能であるならば、京香もまた『本気』で相手になりたいと思う。しかし、現在の手札を見る限り、同じ土俵にすら上がれない。
「おはようございます、京香部長。おっ、いよいよやる気になりましたか?」
「え、ええ……」
三上凉からパソコン画面を覗かれ、そのように捉えられたようだ。
前のめりにこられて、京香としては鬱陶しい――というのも、やる気が無かったのだと気づく。
それは現在も変わらない。焦りこそするものの、嫌いな家業にやる気が湧き出るわけではない。
今はただ、残念な気持ちだった。
午前十時半になり、京香は席を立つ。
冷え込む給湯室で温かいコーヒーを淹れていると、ひとつの人影が近づいてきた。
「やあ、姉さん。ちょっと遅くなったけど、誕生日おめでとう」
ベリーショートヘアのにこやかな人物に、京香は半眼を向けた。
「あんた、そんなこと言うためだけにサボってんの?」
「うん、そうだよ」
「ていうか、手ぶら? おめでとうの一言よりも、何か持ってきなさいよ」
「えー。いっつも私から姉さんに、お金じゃ買えない『愛情』をあげてるじゃん」
「そんなもの、要らないわよ」
妹である妙泉円香の言動が、最早どこまでが冗談でどこからが本当なのか、京香はわからなかった。相手にするだけ疲れると思った。
円香からただ、朗らかな笑みを向けられる。
ああは言われたものの――私からの『誕生日プレゼント』どうだった? と、京香は訊ねられているように感じた。
そう。確証は無いが、瑠璃に誕生日を教えたのも、自宅に向かわせたのも、彼女の『背後』に居る円香の差し金だろう。今日このタイミングで現れたことにも、納得する。
円香がどのような意図で瑠璃と手を組んでいるのか、京香はわからない。悪いように考えると、妙泉一族への謀反とも捉えることが出来る。何にせよ、小柴瑠璃という優れた『人材』を持っている以上、冗談では済まない。
とはいえ、京香は責めなかった。裏取りが出来ていないからではなく――どうでもよかったのだ。もしも円香によって妙泉製菓が危機的状況に陥ろうとも、それまでだと思う。
「それにしてもさー、新しいモールでウチのお隣が小柴さんの店だなんて……偶然って、あるものだねぇ」
「そうね……」
なんともわざとらしい、話の雑な振り方に、京香は触れる気にもなれなかった。
「ぶっちゃけ、どう? 敵に回したくない子だよね」
円香もまた、かつて妙泉製菓の派遣社員だった小柴瑠璃の実力を知っているはずだ。だからこそ、手元に置いたに違いない。
京香はそのように問われるも――印象での話なのか、それとも『商品』を実際に味わっての感触なのか、わからなかった。
「あの子には、ウチじゃ勝てないわよ」
どちらにせよ、京香はそう思う。
先入観の時点で瑠璃を『格上』と捉えていたが、青いレアチーズケーキを口にしたことで、圧倒的な差を感じた。ただでさえ生菓子相手に焼き菓子では分が悪いものの、こちらには店の知名度がある。しかし、それだけでは絶対に捲れないほどの差が開いている。
加えて、現在の手札では到底及ばないと悟った。
京香は、弱気で悲観的に考えているのではない。あくまで客観的に分析したまでだ。
「だからって、諦めるの?」
何かが表情に出ていたのか、すかさず円香から言葉が挟まる。
京香としては、図星だった。今朝、焦って現状を確かめるも――それまでだった。やる気が無ければ手札も乏しい以上、足掻いたところで勝てる気がしない。
新しいショッピングモールで新店舗が開いたところで、隣の店が繁盛しているのを、指を咥えて眺めるしかない。無様な結果になろうとも、京香は構わなかった。
「ええ。負け戦になるのは見えてるんだから、どれだけ傷を抑えられるか……もう、損切りの段階よ」
モール側との賃貸契約がどうなっているのか、京香は知らない。次回更新時に手を引く――或いは、まだ間に合うなら別のテナントに移る。それらが現実的な落とし所だと思った。
「いや、それは出来ないよ。経営側が許すとは思えない」
「説得するのが、あんたの仕事でしょ? 私だって、協力するわ」
「違うよ。そうじゃないんだ……。ウチには、老舗なりのプライドがあるからね」
妹の言葉には、とても説得力があった。確かに、妙泉一族の古臭い思想を的確に言い表していると、京香は思った。そう言われたなら、何も言い返せない。
「姉さんの判断は正しいと、私も思うよ。でも……貶すわけじゃないんだけど、姉さんにもプライドは無いの? 派遣上がりに負けることに、耐えられる?」
けしかけておいて、どの口が言う――京香は少し苛立ったが、瑠璃が退社した責任がある以上、堪えて知らない振りに努めた。
「無いに決まってるじゃない。プライドなんかでご飯食べられるなら、苦労しないわ」
京香は幼少より妙泉家長女として、誉れに関しても躾けられてきた。だが、性格面と現代社会の価値観から、受け入れ難かった。
たとえ瑠璃が『派遣上がり』だとしても、実力を知っている以上、ひとりの個人として見ている。むしろ、菓子屋の娘としては同じ立場だと感じている。
「へー、なんか意外。でも、それなら小柴さん可愛そうだなぁ」
「どういうことよ?」
「『最後』にちょっとだけ喋ったんだけどさ……あの子、少なくとも姉さんに憧れてたよ?」
おそらく、退職届を受け取った際という体裁なのだろう。
京香は茶番のように思う一方で、しかし嘘には感じなかった。瑠璃から憧れていた節が、確かにあったのだ。
「わたしなんかにキラキラした世界を見せてくれたって、感謝してたよ」
「なんで今さら、そんなこと言うのよ……」
「黙ってたことは、悪かったよ。でも、姉さん……とても聞ける状態じゃなかったよね?」
円香の言う通り、瑠璃が退職した直後は意気消沈だった。あの時に聞いていれば、より沈んでいたと、京香は思う。
「たぶん、小柴さんは……そんな姉さんを超えたいんじゃないかな。だから――逃げ腰にならないで、ちゃんと向き合ってあげるのが、礼儀だと思うよ」
「は? こっちはケンカ吹っ掛けられてるんだけど? 何が礼儀よ」
全く迷惑な話だった。
瑠璃だけではない。何の相談も無く事後報告でショッピングモールへの『出店』を知らされ、新商品開発を振られた。京香にしてみれば、そのどちらにも巻き込まれ、理不尽だと感じた。
「言い方を変えよう。姉さんがちゃんと相手してあげないと、小柴さんは姉さんの元を離れられないんだ。たとえ負けるのが目に見えていても、ケジメはつけなきゃ……だよね?」
京香は円香から視線を外して、少し俯いた。
瑠璃が退職に至った責任は自分にある。だから、そのように考えるなら理不尽ではなく、筋が通っていることになる。
本心としては、瑠璃に離れて欲しくない。しかし、既に退職した以上、こちらもきちんと追い出すべきだと――京香は少なからず納得した。どれだけ嫌でも、やる気を出さなければいけない理由が生まれた。
「あんた、やけに焚きつけるわね。狙いは何?」
「そうかな? 私はただ、第三者としての意見してるだけだよ?」
円香に動揺する様子は一切無い。笑顔を崩すことなくとぼける姿に、京香は恐ろしさすら感じた。
やはり、円香の意図がわからない。だが、どうでもよかった。結局は妹の手のひらで踊るしかないのだと、割り切った。
「というわけだから……新商品開発の方、頑張ってね」
そう言い残し、円香が立ち去っていく。
京香はすっかり冷めたコーヒーを見下ろし、ぽつりと漏らした。
「なによ。自分から離れたくせに……」




